第2話 満員電車
(超ウザい……)
その日、ドア際に居場所を確保できたのは、ラッキーだった。
毎日のこととはいえ、満員電車は本当にキライ。どうして電車通学が必要な学校に入ってしまったのかしら。
(満員電車を好きなヤツなんて、痴漢くらいよね)
そのドアは終点まで開かない。あたしは安心してドアに寄りかかった。
ふと、何かの本で読んだ「人は自分の半径一メートル以内に他人が入ってくると不愉快になる」という話を思い出した。
(一メートルだっけ?)
一メートルどころか、満員電車内の密着した状態は、超不愉快。
誰かのイヤホンから漏れ聞こえる雑音、ケータイを操作する音。至近距離には汗だくの太ったサラリーマンに、スーツの肩をフケで真っ白にした中年男性。化粧の匂い、香水の匂い、汗の匂い、整髪料の匂い、タバコの匂い……耳も目も、鼻も、何もかもがイヤ。しまいには車窓に拡がる真っ青な空まで、腹立たしく見えてきた。
(こんなに晴れちゃって、ばっかみたい)
完全に八つ当たり。
残暑が続いていた。真夏に比べれば日差しは緩くなっていたけれど、それでもまだ蒸し暑い。
同じ車両内に、あたしと同じ制服を着ている女の子が三人いるのが見えた。
クラスメイトたちだった。あたしは意図的にそっぽを向いたけれど、数回しかしゃべったことのないコバヤシってコが、こちらをチラチラ見ている。
「あれ、神崎さんじゃない?」
「ほんとだ」
ばれた。でもあたしは知らんぷりを決め込む。
小さな声で話しているつもりなんだろうけど、周囲が静かだから、あのコたちの甲高い声はよく聞こえた。
「あのコ、変わったよねー……」
(はあ?)
カッチーン。
“変わった”って何がよ? 二年生になってクラスが同じになったくらいで、ロクに話したことも無いのに、どうしてそんなこと言えるの?
けれど私は知らんぷりを続ける。どうせあのコたちは、あたしを心配しているわけじゃない。
「なんか、先週学校に来なかった日あったじゃない? 原宿とかに行って遊んでいたらしいよ」
原宿じゃない、渋谷だよ。
「えー。それヤバくない?」
心配しているように振る舞っているけど、ニヤニヤしているその顔は何? くだらない。呆れるほど幼稚な連中。
(お嬢様学校も、所詮こんなものよ)
あたし、神崎さくらは、名門私立女子校の中等部に通っている。
そこは進学校且つ躾の厳しいお嬢様学校としても有名で、親世代にとっては、娘をそこに通わすことが一種のステイタスなのだそうだ。あたしにここを推したのは、あのひと……あたしの母親だった。
ブレザーの制服と、髪の長い生徒は必ず三つ編みにしなければいけないという校則はイヤだった。だからギリギリ結べない長さに留めるために、入学以来あたしはショートボブにするしかなかった。
他にも不満だらけの学校生活の中で、何よりもイヤだったのは、校内での挨拶。登下校の校門では必ず、また廊下などで先生や職員さん、先輩たちとすれ違う時は必ず立ち止まり、上体を丁寧に折り、
「ご機嫌よう」
と、ハッキリと発声して挨拶をしなければならない。
最初に聞いた時は、思わずめまいがした。けれど同級生たちはすんなりと受け入れていたし、あのひとなんかは「お嬢様学校っぽくていいじゃない」と喜んでいた。そんなものかしら。
仕方なく挨拶するのだけど、渋々適当にするものだから、時々は呼び止められて注意されている。特に厳しい生活指導の先生には、憎まれているのではないかと思うほどに叱られる。ついこの間、二学期が始まったばかりの頃にもお説教された。
「夏休みは、もう終わったのですよ」
(だから何よ。ロッテンのヤツ、偉そうに!)
特にこの、“ロッテン”という先生がこわい。他の先生たちは、ロッテンに従っているだけのように見える。ロッテンが居ない時は、大目に見てくれる。だけどこのロッテンだけは容赦がない。
いつも黒かグレーのロングスカートのスーツ。髪は半分くらい白くて、後ろで一本に束ねているだけ。化粧はしているのかしていないのかわからない程度。オシャレなんてひとつもしていなくて、女としては終わってる。
キビシイ声もこわいけれど、銀縁メガネの奥の目が何よりもこわい。笑った顔なんて見たことが無い。
結婚もしていないというし、寂しいシングルひとり暮らしだという噂。生徒から出てくるのは悪口ばかり。
ああはなりたくないわー……なんて、心ではいくらでも毒を吐くことができるけれど、実際ロッテンの前では小さくなっていることしかできない。それくらいこわい。そしてそこまで怖がっている自分が、ちょっと腹立たしい。
「次は――」
車内アナウンスを聞いて、あたしはため息をついた。学校の最寄り駅。ここで降りて、学校に向かう。
……でも。
(決めた)
ドアが開くと、あたしと同じ制服を着た女のコたちが次々と降りて行く。だけどあたしはそのままそこに立つ。あらかた降車客が降りると、今度は乗車客が乗り込んでくる。あたしはさっきのクラスメイトたちに気づかれないように、ガタイのいいサラリーマンの影に隠れた。
(うん、気づいてない)
しめしめ。思わずニヒヒと笑った。
決めた。今日は学校をサボる。二学期に入ってから二週間ほど経つけれど、実はこうしてサボるのは三回目くらい。このくらいなら学校にも親にもバレない。
このままうまく行くかなーと思った時、突然あたしを呼ぶ声がした。
「さく!」
この声は。
(りえっち?)
気づかなかったけれど、りえっちも同じ車両にいたらしい。声がした方向を見ると、背の高いりえっちがあたしに向かって手を振っていた。なんで降りないの?とあせった表情で。
一年の時から同じクラスだった。特別仲がよかったわけじゃない。いつも一緒にいるグループのうちのひとりってだけ。
(あのコだったら、チクられることもないよね)
おとなしくて、自分から告げ口するタイプじゃない、と思う。あたしはそっぽを向いた。あなたが見ているのは、神崎さくらじゃないのよー。人違いなのよーっていうフリをする。少しだけ心がチクっとしたけれど、それは気のせい。
心の痛みがどうしても消えない時には、とっておきの呪文がある。
(もう以前のあたしじゃないのよ)
こうして唱えると、心の痛みが消える。最初に学校をサボった時も同じようにしたら、気が晴れた。
自分のことは、自分で決められる。
少し前まで、夏休みだった。
中学二年の夏休み。うちは中高一貫校だけど、高等部に進級するには中学三年の九月にある校内試験をパスしなきゃいけない。だから思いっきり遊べる中学時代最後の夏休みってことで、この夏はみんなとたくさん遊ぶ計画を立てていた。
楽しい夏休みになるはずだった。
一学期の終業式から帰宅した時、いつも仕事で帰りが遅いお父さんがリビングにいた。
陽がまだ高いうちからお父さんが家にいたことも珍しくて驚いたけれど、その顔がものすごくこわくて、あたしはリビングの入口で固まってしまったほど。
お父さんはソファに座って、何か薄い紙片を見ていた。ローテーブルの上には、大きめの茶封筒と、書類、そして何枚かの紙片。
あたしに気づいていたとは思うけれど、ひとり言みたいにつぶやいた。
「あのバカ女……」
一瞬誰のこと?と思ったけれど、すぐにそれがあのひと――私の母親のことだとわかった。ローテーブルの上にあった紙片は写真で、それにはあのひとが写っていたから。
写真はあのひとだけではなくて、知らない男のひとが一緒に写っていた。ある派手な建物――ラブホテル?――の入口を背景に、その男のひとに肩を抱かれて……の写真。
(……浮気?)
ドラマのような出来事が、こんな身近で起きるなんて。
その後、両親の間で何があったのかはわからない。聞かされていない。
あのひとにも仕事があって、ふたりとも朝は早く出て、夜は遅いっていう生活だったから、表面上は変わらない。
でも家の空気は確実に変わっていた。あたしがリビングにいるとふたりとも近くにいて家族水入らずみたいになるけれど、やっぱりよそよそしい。
あたしが自室に戻れば、あのひとは寝室に籠もり、お父さんはリビングでテレビを見続けて、そのままソファで眠ってしまう。
あたしがいることで、辛うじて“家族”という形を保てている。
せっかく一学期の成績がよかったのに、それが話題にあがることは無かった。
あたしには何も知らされず、だからといってあたしから聞くこともできず……いつの間にか家は居心地が悪い場所になっていた。
そんな中、クラスメイトから電話がかかってきた。
電話に出る直前に、その日はそのコと遊びに行く約束をしていたことを思い出した。完全なすっぽかし。スマホに留守録が入っていたけれど、まったく気づかなかった。
「ちょっとー、忘れてたってひどくない?」
そのコはあたしに対してすごく怒っていた。ムリもない。一時間以上も連絡が取れない状態で待っていたというのだから。心配もしてくれたんだと思う。
けれどこのコはもともと執念深いトコロがあって、この時もネチネチと責められ続けたものだから、あたしもキレてしまった。
(どうしてここまで言われなきゃいけないの?)
(悪いのはお父さんとお母さんであって、あたしじゃないのに!)
(うちの事情も知らないで!)
あたしは無言で、受話器を置いた。その途端に、クラスメイトたちがどうしようもないくらいのお子様に見え始めたのは、不思議だった。
家に帰れば、平凡かもしれないけれど家族が待っている。なのに「小遣いが少ない」だの「スマホを持たせてもらえない」などと、その口から出てくるのは愚痴ばかり。
(それがどんなに幸せなことか、みんなわかっていない)
それ以来クラスメイトからの電話やメールを全部無視していたら、やがて連絡が一切来なくなった。せいせいした。
あたしはもう、みんなとは違うのだ。
二学期が始まってしまって登校するようになったけれど、クラスメイトたちは遠巻きにあたしを見ながら何かポソポソ話しているだけ。りえっちがいろいろ話しかけてきたけれど、放っておいて欲しいというのが本音。どうせもう、話なんか合わないんだから。
どうでもいい。もっと大事な友だちもできたことだし。
(あ、カリナにメールしとこう)
あたしはポケットからスマホを取り出して、メールを打ち始めた。
夏休み始まってまもなくの頃、塾の夏期講習に出かけたものの、そういった努力がむなしくなっていたあたしは、ひとりで原宿に向かった。みんなで原宿へ買い物に行くことが夏休み最初の約束だったから、なんとなく。
けれどすぐ後悔した。夏休みなのだから、地方からも山ほど観光客が来ているって、何で思いつかなかったんだろう?
竹下通りはごった返していて、ちょっと店でアクセサリーでも見ようと思っても、入れない状態だった。あたしみたいにひとりで歩いているコなんていない。クレープもひとりでは買えない。
つまらないから帰ろうかなと思い始めた頃、突然背後から声を掛けられた。
「アンタ、ひとり?」
「ふえっ?」
彼女の顔を見て、ヘンな声が出た。
正直言うと、最初はこわかった。だって外国人じゃないのに金髪で、ピアスは耳だけじゃなくて鼻とか唇にもしていたし、目の周りはパンダみたいに真っ黒のお化粧。こんなコ、これまで周囲にひとりもいなかったから。
(やば。ヤンキーにつかまった?)って思った。でも。
「さっきから、あのおっさん達がアンタのこと見てるよ」
彼女はあたしの耳元でそうささやいた。
その指す方向を見ると、いかにも!なオジサンがふたりいた。値踏みするように、ジロジロあたしを見ている。その目のいやらしさに、背筋がゾクリとした。
「あたしについておいで」
彼女はあたしの手を取って、すぐそばの細い路地に入った。彼女はあたしの手を強く握っていた。どこに連れて行かれるのかわからなかったし、本当に彼女があたしの味方なのかはわからなかったけれど、その手はすごくあたたかくて、あたしを安心させてくれた。
彼女、カリナはあたしよりもひとつ年上で、千葉県に近い下町に、お母さんとその再婚相手との三人で暮らしている。
義理のお父さんから殴られたと、自慢げに腕にできた痣を見せてきた時は驚いた。だからあまり家には帰っていなくて、学校へはたまに気の向いた時だけ行き、あとは友だちの家や原宿や渋谷などの繁華街で遊んでいるのだと言っていた。
だからと言って卑屈なところはまったく無く、見た目は最初はこわいと思ったけれど、すごくいいコだとすぐにわかった。面倒見のよい姉御肌。あたしの愚痴を親身になって聞いてくれた。
「うちもリコンする時はそんなだったよ。オトンが出て行ったんだけど、あたしのことは結局オカンに押し付ける形でさ。作っておいて勝手だよね」
そう言って笑うカリナは、大人だと思った。たった一歳しか違わないのに、なんでこんなに違うの。憧れる。
それ以来、夏休み中は繁華街に出て、カリナと一緒に遊んでいた。彼女の友だちも紹介してもらって、仲間にしてくれた。みんなと街を練り歩いたり、ファストフード店でたあいのないおしゃべりをしたり、カラオケボックスで遊ぶ。これまでしたことが無かったことばかり。お嬢様学校のクラスメイトたちとでは無理な遊び。
学校が始まってから、毎日っていうわけにはいかなくなったのが残念。だけど、こうして急に行っても、快く仲間に入れてくれる。
『今日、原宿と渋谷のどっちにいる?』
絵文字を山ほど盛り込んで、送信。
(さてと……ん?)
スマホをポケットにしまって、窓の外の風景を見ようと思ったら、背中に違和感があった。
(え?)
何かが、あたしの腰のあたりでゴソゴソ動いている。いつの間にか背後にはサラリーマンが立っていて、そいつがドアと自分との間にあたしを挟むように立っていた。
(この人、まさか……)
そいつの荒く熱い息が頭のてっぺんや首に触れて、一気に気持ち悪くなった。鞄を持っているはずの右手の甲で、あたしのオシリに触れている。痴漢……?
(や、やだ!)
逃げようと思ったけれど、混み過ぎていて動けない。声を出そうにも、こういう時って何て言っていいのかわからないし、そもそも声が出ない。
(ど、ど、どうしよう?)
周囲に助けを求めようと思ったけれど、誰も気づかない。みんな文庫や新聞、ケータイやスマホ、窓の外を見ているだけ。運が悪いことに、その電車はもう終点まで停まらない急行電車。まだ時間がかかる。
(た、助けて!)
最初は遠慮がちに触れていたのに、だんだんと図々しくなって、グイグイと手を押し付けてくる。
(少しは遠慮してよ! 気持ち悪いし、こわい! どうして誰も気がついてくれないのよ?)
恐怖で涙が出てきた。その時、突然周囲の人垣が揺れて、あたしの身体から悪事を働いていた手が離れた。
「あなた、何をしているんです?」
電車が走る音しかしていない車内に、凛々しい女性の声が響いた。見ると、後ろの男は腕を初老の女性に掴まれていた。
「なっ、何だよ!」
男は抵抗していたが、女性は手を離さなかった。
「あなたのしていることは、犯罪ですよ」
(……あっ!)
助けて!と願っておきながら、本当に助けが入ったことに驚いたけれど、何よりもその女性の顔を見てあたしは言葉をなくした。
(ロッテン!)
ちょうど数分前まで、心で毒づいていた先生。
その先生が目の前に突然現れた。いつものダークグレーのスーツに身を包んだロッテンは、厳しい表情で男の手首を右手で掴みあげていた。
ロッテンの迫力に負けたのかもしれない。男はそれ以上暴れることもなく、「手が当たってただけじゃんかよ」などとブツブツ言っている。
(当たってたんじゃなくて、当ててたんでしょうが!)
でもそんなことはもうどうでもいい。
(ロッテン……なんで先生がここにいるの? まさか、私がサボるのを知って……?)
同じ車両にいたはずのクラスメイトたちを思い出した。
(チクられた?)
……違う、早すぎる。同じ電車に乗り込むなんて、先生も駅にいないとできない。
ロッテンが校内では誰よりも早く登校するのは、わりと有名な話。そして誰よりも早く校門に立ち、生徒達の身だしなみと挨拶をチェックする。クラスメイトたちがあたしのことを校門で伝えたとしても、ロッテンがこの電車に乗ることなんて不可能。
「は、はなせよ、ババア……」
「おだまりなさい! 降りたら通報します。あなたはご自分のなさったことを反省なさい!」
ロッテンはぴしゃりと男に言い放った。こわい。あまりの迫力に、痴漢も青ざめている。
それからついにロッテンはあたしの方を向いた。
「あなた、大丈夫……え?」
ようやくあたしの着ている制服に気づいたらしい。
「あ、あなた……」
「……お、おはようございます……」
ここで「おはようございます」は無いよねと自分で思ったけれど、これしか出て来なかった。えへへと愛想笑いを浮かべての、間抜けな挨拶。
(ばれた……)
いつかばれるかも、とは思っていた。でも思っていただけで、これまでばれなかったから、今日も大丈夫だろうと、何の根拠もなく思っていた。
学校から家に連絡が行けば、お父さんにもばれる。そうなったらそうなったでいいなんて思っていたからサボったんだけど、いざこうなるとあせってしまう。
(お父さんは怒るだろうな。学校も停学、最悪退学になる可能性もある。公立中学にこれから編入するのは、大変なんじゃないかしら。いじめに遭ったりとか……)
今はそんなことどうでもいい。
(あとでカリナに言い訳電話をしてもらおうと思ったのに……)
カリナは中学生にしては、声が低い。大人っぽい話し方も心得ていて、母親を装って電話をしてもらったことがあった。今回も「親戚の葬式」「生理痛」などで理由をでっち上げてもらおうと思っていたのに。
「あ、あの、あたし……」
「“私”と仰いなさい」
ロッテンは、生徒が“わたし”や“わたくし”以外の一人称を使うと、きつく注意してくる。まさかここでも言われるとは思っていなかった。あたしの頭の中は真っ白になってしまった。
言い訳が思いつかない。
ロッテンは無言であたしを見下ろしていたようだけど、あたしはこわくて顔を上げることができないから、どんな顔しているのかがよくわからない。
(どうしよう……おじさんのところにお見舞いにとか……おじさんが危篤とか……おじさんが……ああっ、おじさんネタ使いすぎっ!)
嘘を考えようとしても、思考が同じところでグルグル回る。助けて。
『まもなく電車は終点池袋に停まります。この電車は折り返し回送電車となりますので、お忘れ物のないように……』
そこへ、追い討ちをかけるかのような終点を告げるアナウンス。電車はもうすぐ停まってしまう。
(おじさんが痴漢で捕まったとか、おじさんの結婚式とか、おじさんの葬式……あああ~、もう何も思いつかない!)
泣き出してうやむやにしたかったけれど、通用するわけがない。そこで非情にも電車は停まった。
「!」
あたしの後ろのドアが開いた途端に、他の乗客が押し寄せてきた。それと同時に、痴漢はロッテンを振り切って逃げてしまった。
(チャンス!)
あたしも人の波に紛れて逃げようと思った――けれど。
「お待ちなさい!」
左手首をガシッと掴まれた。
それを振り払う勇気なんか、あたしには無い。
「……」
「……」
しばらく言葉が出なかった。あたしはいつ怒鳴られるかと身を固くして俯いていたけれど、ロッテンも無言。時々通行人にぶつけられたけれど(あたしたちの方が邪魔だった)、微動だにしない。
「――仕方ないですね」
沈黙を破る言葉。
ロッテンは、掴んでいたあたしの手をグイっと引っ張った。
(ああ、連れ戻される……)
下り電車に乗せられるのだろう。頭の中で、これから叱られるであろう内容をシミュレーションし始めた。これまでのサボりも全部ばれるかもしれない。いや、ばれる。学校でロッテンにこってりしぼられて、当然親にも連絡が行く。お父さんは怒る。
あのひとはどうだろう?
(――えっ?)
けれど、向かったのは改札。
「せ、先生……?」
ロッテン、歩くの早すぎ。あたしはつまずきそうになりながらも、なんとか歩く体勢を整えた。
(何、どこに行くの?)
ロッテンは背中を向けたまま言った。
「今日一日、私に付き合っていただきます」
「え……えええっ?」
どういう意味? どうしてあたしが学校以外のところへ連れて行かれようとしているの? どうしてロッテンは怒らないの?
何もかもがわからない。
ただ、あたしたちが学校から遠ざかっていたことだけは確かだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます