第13話 山下公園、ふたたび
『俺、そろそろ行かなきゃ。五時ごろの船に乗らなきゃ、横浜からのバスに間に合わないんだって。五時ごろだよ?』
(なんて親切なヒントだったの!)
大きな通りに出たふたりの前に、ちょうど空車のタクシーが来た。これまで自分でタクシーを停めたことなんか無かったけれど、手を挙げたらすぐに停まってくれた。
時刻は五時まであまり無い。あたしはシーバスの時刻表も知らない。“五時ごろ”が正確には何分なのかがわからない。
「山下公園! 早く行ってください! お願いします!」
「は? 歩いて行った方が早いよ?」
ドライバーは乗り気じゃない。距離が短いからだろうけれど、そんなの関係無い。「いいから!」とあたしたちは無理やりタクシーに乗り込んだ。
「道、混んでるんですけどねぇ」
「いいから、早く!」
ロッテンはあせっているあたしを宥めるように、あたしの肩に手を掛けた。
「神崎さん、もういいです」
「は?」
「もう、いいのです」
ロッテンは苦しそうに、下を向いて息を吐いた。あたしの肩を掴んでいる手が、小さく震えている。
「私にはあの子に会う資格が無いのです。孫に気づかなかった時点で、あの子が、息子が後をついてきたことに気づかなかった時点でもう……」
あきらめの言葉。
「うっわー、ムカツク!」
思わず本音が出た。あたしの豹変ぶりに、ロッテンは呆気に取られた顔になったけれど、あたしは続けて怒鳴った。
「ざけんな! そんなこと言う資格、先生には無いの!」
このオバサン、何を言っているんだろう?
なんで自分が、悲劇のヒロインになっているの?
これ以上暴言が出てくるのもイヤだったから、あたしは怒りをドライバーに向けた。
「もうっ! もっと早く進めないんですか!」
完全な八つ当たり。
隣ではロッテンが、自分の膝元を見つめているだけだった。
まもなく山下公園に着いて、時間が惜しいあたしはロッテンから受け取っていた一万円札をドライバーに押し付けて、車から飛び出した。
「神崎さん! 待って……」
「いいから、走ってください!」
そしてシーバス乗り場に向かって走る。ロッテンも後から走ってついてくるけれど、つらそうだった。
「か、神崎さん、もうやめましょう」
「ああー、もうっ!」
イライラしたあたしは、ロッテンのところに戻って、今度はあたしがロッテンの手を握って引っ張った。
「うるっさい! とっとと走れ、ロッテン!」
「ろ……」
“ロッテン”が、彼女の悪口を言うための呼称で、本人はおそらく知らないだろうということを忘れて、あたしはそう叫んでいた。
「ロッテンのためなんかじゃない! ここで会わなきゃ、息子さんは一生後悔しちゃうでしょ?」
「……」
「もうこれ以上、息子さんを傷つけないで!」
そう言ってロッテンの手を握ったまま走り出したら、今度はロッテンも素直に走り出した。
息子さんは会いたいと思っている。あたしにはわかる。
拗ねているだけ。
あの顔は、ずっと話したいと思っていたという顔。
でも、こわいんだ。
あたしたちがタクシーから降りた場所からシーバス乗り場までの、遠くもないけど近くもない距離が、すごくもどかしかった。
シーバスが接岸しているのが見えてきたところに、汽笛が聞こえてきた。
「うそ!」
シーバスが動き出したのが見えた。時刻は五時すぎ。
「出航しちゃった!」
あたしはロッテンの手を離して、改札から係員を振り切って、乗り場に走って行った。だけど、すでにシーバスはかなり離れてしまっていた。
(あ!)
後部デッキに、大人の男女ひと組と、子どもがひとり乗っているのが見えた。その男性はやはりあのオジサンで、子どもはあの“横浜の帽子”をかぶった子だった。
「ああっ、もうどうしよう! ちょっと止めて!」
あたしを追いかけてきた係員に向かって叫んだ。
「シーバス止めて!」
いち早くあの子があたしに気づいた。あたしたちを指さして、おそらくはあの子の両親であろうオジサンたちに知らせていた。
「お願い、シーバス止めて!」
「何をバカなことを言ってるんだ!」
「お願い!」
「危ないから!」
あたしと係員がそんなやりとりをしていると、海上から声が聞こえてきた。
「おばーちゃーん!」
きれいなメゾソプラノの声。あの男の子が、“横浜の帽子”を手にとって振り出した。
(あの子、やっぱり!)
予想通り。キャップを取った男の子……じゃなくて女の子の長い髪が、海風にたなびいていた。やっぱりあの子だったんだ!
気がつくと、あたしの背後にロッテンが立っていた。係員に「困ります」とか何とか言われていたけれど、聞こえていない。ただ離れていくシーバスを見ていた。
「ほら、ロッテンからも船止めてって言って!」
ロッテンの肩を揺すった。
だけどロッテンにはあたしのことも見えていない。
船上では娘に促されたオジサン……あの子にとっては父親……がゆっくりと立ち上がった。ゆらゆら揺れながら、船上からこちらを見ている。
その時。
「ロッ……」
あたしは言葉を失った。
ロッテンは、この光景を焼き付けるかのようにゆっくり瞼を閉じ、そして船に向かって上体を折った。
(こんな……)
それはあの挨拶。
なんでここでお辞儀?――なんていう疑問は、すぐに消えた。
あたしにはわかった。わかってしまったから。
このお辞儀は、ロッテンの“言葉”なんだと。
――会いたかった。ごめんなさい。愛している。
すべての想いに満ちあふれている“言葉”。
あたしにわかったくらいなんだから、息子さんにだってわかったはず。
徐々に遠ざかる船の上で、オジサン――息子さんは、しばらくそんな母親の“言葉”を見ていたけれど、息子さんもこちらに向けて、頭を垂れた。丁寧に言葉を紡いでいくかのように、ゆっくりと。
――母さん、会いたかったよ。どうか元気で。
(こんな……こんな悲しいお辞儀って)
息子さんは泣いていた。それから船上でゆっくりと崩れ落ちて、それを隣の奥さんと思われる女性に抱きしめられていた。
いつの間にかあたしも泣いていた。
悲しい。ただひたすら、悲しい。
親子の会話をこんなふうにしか表せなくなるなんて、悲しすぎる。
あのひと――お母さんから話しかけられるのを無視するたびに、お母さんの気持ちに傷をつけるだけでなく、あたし自身の気持ちの傷も拡げてしまっていた。
あたしはまだお母さんが好き。あたしは全然弱いけれど、お母さんの手を握りたい。そしてきちんと話したい。泣きながらだって何だっていい。言い訳でも何でも聞きたい。
でないと、ロッテンたちみたいに離れてしまう。
話したいのに。手を握りたいのに。
シーバスが見えなくなるまで、ロッテンはそれを続けていた。
その時の横顔は、この日あたしが見たどんな顔よりも悲しく、そしてきれいだった。
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