第14話 生活指導室
赤い靴 履いてた 女の子
異人さんに 連れられて 行っちゃった
何度も何度も同じフレーズが聞こえてくる。
「“異人さん”……ですね」
アイスバーは、くすりとささやかに笑った。
「中等部二年の課題曲がこの曲なのは、私が推したからなのです。母校であるこの学校に赴任してきた年、課題曲がなかなか決まらないでいたのですが、あっさりこれに決まりました。それ以来、何故か中等部二年だけは毎年この曲になってしまったのですよ」
この曲になった原因は、アイスバーの思いつきだった。微笑みながら、聞こえてくる練習に耳を傾けている。
だがアイスバーのように、それを聞いて楽しむほどの気持ちの余裕は、佳奈にはまったく無くなっていた。
「私が学校をサボタージュしたのは、その日が最後になりました」
初老の女教師の自分語りは続く。
「最初はクラスメイトたちの視線が痛かったのですが、りえっち……親身になってくれた友人が助けてくれました」
「……」
「カリナとは、あの後も付き合いが続いています。彼女はなんとか中学を卒業して、自動車修理工場で働き出して、そこの若社長と十代のうちに結婚しました。子どもが五人もいてね、今では孫も十人近くいるのですよ」
アイスバーは、自分のことのようにうれしそうに語る。この厳格な教師に、そんな友だちがいたなんて。おそらく、この学校の中では誰も知らないだろう。
(ううん。そんなことより)
佳奈の頭の中では、いくつかの疑問がぐるぐると回っていた。どれから聞けばいいのか、わからない。
四時限目終了を知らせるチャイムが鳴り響いた。
「あら。もうこんな時間」
近くや遠くの教室で、一斉に席を立つ音がした。起立、礼。校内の空気が活気づく。にぎやかなランチタイムのはじまり。
(……どうして?)
佳奈は行儀よく座っていた。両手を両太ももに置き、自分の膝だけを見つめていた。スカートからのぞく、白い膝小僧。自分の手や膝が、細かく震えていることに気づいた。
外から入ってくる風は熱いほどなのに、寒いような気がしてならない。
首筋から、冷たい汗が伝う。
聞かなければならない。やっとの思いで、口を開ける。
「そ、それから……」
絞り出すように、かすれた声が出た。喉がはり付いていて、うまく発声できない。
「はい?」
アイスバーは軽やかに返事をしたが、佳奈はやはりなかなか声が出なかった。大きく息を吸い込んでから、ようやく続けることができた。
「そ、それから、どうなったんですか?」
「ロッテンは無断欠勤で、数日間謹慎していましたけど、それから定年までちゃんと勤め上げていましたよ」
「そうじゃなくて!」
静かな部屋に、少女の悲鳴に似た声が響く。
「すみません……そうじゃなくて、あの、その」
思いがけずに出た大きな声を自分で恥じた。
「あの、ロ、ロッテン先生とお子さんたちは?」
アイスバーはニッコリ微笑んだ。
「さあ?」
「えっ」
佳奈の落胆した反応を見て、アイスバーがニヤリと笑みを浮かべる。
「お孫さん……あの男の子みたいに活発な女の子は、後にソフトボールの全米代表になったのですよ。『父方の祖母が、日本から応援に来た』と、数年後のオリンピックの際、インタビューで語っていましたから……」
(ああ……)
安堵した。あそこまで気持ちが近づいたのに、一生会えないままであったら、それは悲しい。
「そ、それで、あのっ」
佳奈はまだ聞き足りない。
「あの、せ……先生は?」
教師の方を見ないまま、佳奈は尋ねた。
「先生とは……私のことですか?」
「はい、あの、先生はお母様とは……?」
これを聞きたかったのだ。何故なら。
「私と母?」
「先生は、お母様と話すことができたんですか?」
「……」
「先生は、どうしてお母様をキライにはならなかったんですか? 自分と……家族を裏切ったお母様を」
気温が一気に下がったような感覚がした。
遠くで少女たちの笑い声が聞こえてくる。
各教室のスピーカーから流れる、静かなクラシック音楽。
生活指導室の中は、長い長い沈黙。
佳奈は、視線を自分の膝から動かせない。
こわい。
だけど聞きたい。答えて欲しい。
その一方で、答えを聞きたくないような気もする。
聞かなければよかった。けれど――
「時間は無いのです」
思ってもいなかった言葉が、アイスバーの口からこぼれた。
どんな覚悟とも異なる言葉に思わず顔を上げると、自分を見つめるアイスバーと目が合った。
「えっ」
その目は、表情は、厳しい。
だが同時に、泣き出しそうな顔にも見えた。
「あなたには、時間が無いのです」
もう一度言った。
「それはどういう……」
意味が分からない。佳奈はうろたえたが、アイスバーは続けた。
「あなたには、いじけて遊びほうけている時間など無いのですよ」
アイスバーは佳奈にゆっくりと歩み寄り、真正面から挟むように彼女の両肩に手を添えた。
「今、あなたが抱えている問題から、目を逸らしている時間は無いと言っているのです」
佳奈は驚愕のあまり、アイスバーから目を放せなくなっていた。
アイスバーは知っている。と、直感した。
「わ、私……」
佳奈もまた、祐作やさくらと同じ状況に置かれていた。
まもなく離婚する両親。原因は父に恋人がいるから。
歳の離れた兄は、とうに家を出ている。
父は、恋人と新しい家庭を作る。
母は、仕事を始めて新しい人生を歩む。
それでは、自分は――?
「お前さえいなければ、もっと早く私はあの人と暮らせるようになったのに」
父の恋人から、憎々しげに言われた言葉。
「あの子が居なければ、身軽だったのにね」
母が誰かとの電話で、冗談交じりに話していた言葉。
兄は自分の生活で精一杯。
私は、ひとり? いないほうがいい?
「あなたは、自分がどうしたいのかを決めなさい」
アイスバーは佳奈にそう言った。
「私が……どうしたいのか……?」
「それが通る通らないではなく、ただあなたがどうしたいかを。あなたは、まだそれを、誰にも伝えてはいないのでしょう?」
――お父さん、お母さん。
「それに、ご両親に、聞きたいことがあるはずです」
――お父さん、お母さん。
「それを今のうちに聞いておきなさい」
――お父さん、お母さん。
「でないと、この“溝”は、取り返しのつかないことになります」
“溝”。ロッテンとその息子の間の“溝”。
赦しているのに、抱き合うことすらできなかった。
ふたたび互いの体温を感じることができたのは、何年後だった?
佳奈は知っている。今、両親に聞くべきことを。
――私、一緒にいてもいい?――
佳奈は首を横に振った。恐ろしい。
両方から拒否されたら、どうしたらいい……?
「大丈夫」
大きな不安に体が震えそうになるのを堪えていると、ふわりとやわらかい声が佳奈を包んだ。
「私がいますから」
アイスバーの声。肩に触れている手と共に、あたたかい。
(なんてやさしい顔をするの?)
佳奈の瞳から大粒の涙があふれた。
誰にも言えずに苦しかった。
たった十四で大人にならなければならないこの苦しさを、けれどわかってくれる人がいた。
その人は、私の両肩に温かい手を置いてくれている。そう思うだけで、佳奈は己の二本の脚で、しっかり立つことができるように思えた。
この生活指導室から出たら、私はきっと、立てる。
急がなきゃ。
窓の外から、校庭で昼食をとる少女たちの笑い声が聞こえてくる。
コロコロと転がるみたいに、幸せそうな笑い声。
こぼれる涙をぬぐって窓を見ると、そこにはビニールシートなんかではなく、夏の終わりの青い空。
神崎さくらとロッテンが手をつないで歩いた横浜の空も、こんな青い空だったのだろうと、佳奈は思った。
(了)
ヨコハマ・ランデブー ハットリミキ @meishu0430
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