第12話 横浜スタジアム
あたしたちは、JR関内駅に向かっていた。
あたしは相変わらずただロッテンの後をついて歩くだけ。ロッテンにとっては懐かしい道なのだろう。ゆっくり、噛みしめるように歩いている。
ご主人、息子さんといったん別れて、先に家に帰る。ビールとスイカを冷やして、お風呂の準備。そうして野球観戦で盛り上がったご主人と息子さんの帰宅を待つ――。
その日、ロッテンは新しい自宅に帰り、でもつい、ご主人と息子さんを待ってしまったかもしれない。
だけど帰ってこない。ロッテンの部屋の呼び鈴は鳴らない。
……そんなことをあたしはロッテンの背中を見ながら、想像していた。
すごく泣きたくなった。
(あのひともそうなるのかな……)
先生たちが知っているということは、あのひとが家を出ることはもう決定事項。
ある日家に帰ったあたしに、お父さんが言う。「母さんは出て行ったから」と、ただ一言。そしてあたしから質問されないように、さっさとお風呂に入りに行ってしまう――それがカンタンに想像できる。
それは今日かもしれないし、来週かもしれない。
あのひとにとっては自業自得。何であたしまでこんな目に遭うの。すべてあのひとが悪いのに。だけど。
(あたし……そこまであのひとを恨んでいない)
これは自分でも驚いた。
あたしの中ではまだ“あのひと”で“お母さん”に戻っていないのに。
離れて暮らすことを、第三者であるロッテンから知らされた。のけ者にされた怒りよりも、今はあのひとが家を出ることが無性にさみしい。
お父さんだって無口だし、仕事ばかりで家のコトは何もしない。あのひとの気持ちが離れていくのは当たり前かもしれない。だからといって、不倫していいってわけじゃない。そんなことをしでかしたあのひとのことはバカだと思うけれど、恨んでいるかと聞かれれば、違う。
(息子さんはそこまで恨んでいたのかな……)
元町から港の見える丘公園までの坂道で、後ろを歩いていたオジサン。喫茶店の外からも見ていた。孫を見せてやると言って焚き付けておいて、すんでのところでかわす。……正直、めんどうくさい。
(そんな仕返し、楽しいの?)
自分なら――と想像してみる。
お父さんの遺言だろうが何だろうが、電話すらしないと思う。
あのひとを見るのがつらいから。新しい家族に囲まれて幸せかもしれないあのひとを見るのも嫌だし、ロッテンのように孤独に生きている姿もイヤ。「ざまあみろ」とは思えない。
もしくは喜んで会いに行く――?
「神崎さん」
「はっ?」
突然やわらかい声で話しかけられた。気がつくとロッテンはあたしのすぐ横を歩いていた。
「今日はありがとう」
「え……あ……」
うまい返答ができない。
あたしは何もしていない。ただついて歩き回っただけ。
けれどひとりで息子さん家族を捜すよりは、ずっとよかったのかもしれない。ひとりでは、あまりにも苦しい道中だと思う。
「いえ、あの……横浜、先生とのデート、楽しかったです」
「デート?」
「えっ! あ、やっ、あ、あたしっ……!」
なんで“デート”なんて言葉が出てしまったの。あたしはあわてたけれど、ロッテンはうっすらと微笑んだ。
「私が相手だなんて、ずいぶん色っぽさの無いデートだこと」
「あは」
「ありがとう。でも、“私”と仰いなさいね」
「は、はい……」
ぶれてない。けれどその横顔は穏やかな微笑みを湛えていた。
この日の朝まで、あたしはロッテンのことがキライだった。だけどそれは恨んでいたとかそういうことではなく、こわかったから。こんなにきれいに微笑むひとなんだと知っていたら、もっと早く好きになっていたかもしれない。
これは、きちんと話したからわかったこと。
こうなると、やはり気がかりなのは……。
「でも、先生」
「はい?」
「お子さんのご家族とは……」
ロッテンは表情を少し曇らせ、腕時計を見た。
「……あきらめます」
「え?」
「今日、この後成田へ向かって、明日早くに日本を発つと聞いています。もう無理でしょう」
「先生……」
「ここまで捜しても会えなかったのです。仕方ありません。簡単に会えると思ってしまった私が甘かったのです」
「……」
「私はこれまでと同じように、あの子と、あの子の家族の幸せを祈るのみです」
今度の微笑みは、誇らしげ。それが自分の仕事だと信じて疑わない。
ロッテンはこれまでの生活に戻る。何も変わらない。
(あきらめて欲しくない……)
でも何を言っても気休めにしかならないような気がしたから、あたしは黙った。それから黙ったまま、横浜の街をあたしたちは並んで歩き続けていた。
やがてビルの間から背の高い木々と、大きな照明が見えてきた。まだ明るい時間だというのに、煌々と点いていて眩しい。
(ここが横浜スタジアム?)
昼間に会った男の子が言っていた野球場。案内表示を見ると、その向こうにJR関内駅があるらしい。
歩道橋をのぼると、そのまま球場の入口に繋がっていた。試合があるらしく、テレビ局の中継車が停まっている。スタジアムの外壁には、ホームチームのスター選手の大きなポスターが貼り出してあった。
(……知らない人ばっかり)
あたしはプロ野球にはまったく興味がない。お父さんもサッカーの方が好きで、野球中継は見ない。
駅の方からは、試合を見に来たファンが次々とスタジアムに吸い込まれていく。野球自体には興味無いけれど、すごく楽しそう。それぞれの贔屓球団のハッピや帽子を身につけているファンも多かった。
「あっ」
スカートのポケットに入れていたスマホが震えた。表示を見ると、カリナの名前。
「あの、ちょっとすみません。電話に出てきます」
ことわると、ロッテンは薄い笑顔で頷いた。あたしは人通りの邪魔にならない場所に行ってから、電話に出た。
『あ、さくら? その後どうした?』
心配して電話してくれたらしい。向こうから安堵の声が聞こえた。
「あ、うん。大丈夫。もう帰るところ。今日はごめんね」
『ああ、いいよ。怒ってねえよ。でもさ、あのさ……』
電話の向こうで、カリナがひどくばつの悪い顔をしているのがわかった。何か言いづらいことを言おうとしている時の声。何でもズバズバ言えるカリナには珍しいこと。
「カリナ?」
『あのさ、アンタ、しばらく学校サボんない方がいいよ』
「え?」
『学校の先生にもばれちゃったことだし。しばらくマジメに生活した方がいいって』
絶交宣言?
「えっ、カリナ、そんなっ……」
『ち、ちげーよ! もう来んなって話じゃねえよ!』
あたしが勘違いしたことに気づいたカリナは、慌てた。
『つか、ちゃんと学校行って、親ともちゃんと話してみ?』
「えっ……」
親と話す。
そういえば、最後に話したのはいつだった?
(昨日だか一昨日だか、あのひとから「お小遣いは足りてる?」とか聞かれた……)
だけどそれには返事をしなかった。そしたらあのひとは、
「ねえ、さくら」
とあたしを呼び止めた。
「あのね……」
あのひとは何か言おうとしていたけれど、あたしが睨むようにしてまっすぐ見つめたら、何も言えなくなったらしい。気まずそうに視線を逸らしたから、あたしはあのひとに背を向けた。それきり。
話していない。会話になっていない。
「話す……話すって何を?」
『それはあたしに聞かれたってわかんねーよ』
そんなこと言われても。
『でも聞かなきゃいけないこと、あるだろ? 親が離婚してさ、自分がどうなるかとか、そもそもいつ離婚するのかとかさ、ナンにも聞いてねえだろ?』
確かにそう。だって、とてもじゃないけど聞ける雰囲気じゃない。両方のおじいちゃん、おばあちゃんたちに聞いてみたけど、あのひとの方は黙るだけだし、お父さんの方は「子どもは知らなくてもいいから」とごまかされた。
「話してくれないよ……」
『え?』
「どうせ私が言ったって、子どもは知らなくてもいいって言われちゃうよ」
お父さんの方のおじいちゃんに言われた言葉を、そのまま使った。すると言い終わる前に、怒った声が返ってきた。
『なんだよ、それ!』
「カ、カリナ……」
目の前で言われているわけでもないのに、涙目になる。カリナは怒ると、ものすごくこわい。
『おかしいだろ? アンタ、めちゃくちゃ当事者じゃん!』
言われてみれば……と思いながらも、困惑。
『親に一番近いところにいるのもアンタなら、一番に影響受けるのもアンタなんだよ? 自覚あんの?』
「あるよ、あるある。でも、でもさっ」
「あたしの親は、まだ小坊だったあたしに離婚の理由を教えてくれたよ。父親は子ども育てられないから、お前を連れて行けないってハッキリ言った」
カリナのそんな話は、これまで聞いたことがない。あたしはショックで何も言えなくなった。
(そんなの聞けないよう……)
体が震えそうだった。両親に尋ねて、カリナと同じように言われたら……あたしはカリナみたいに強くない。
『ショックだったけどさ、でも、踏ん切りはついたよ。さくらも同じように気持ちを切り替えることができるとは限らないけど……でもこのまま、いつのまにか離れて暮らすようになっても、いいのかよ?』
聞かされていないだけで、別離の日は近い。
もしかして、この日帰宅したらあのひとはもういないのかも――。
ご主人と息子さんの居ない家に帰ったロッテンと、母親が居なくなった家に帰った息子さんのことを想像した。あのふたりも、離れるまでにそういった会話はしていない。どうやったら息子に許してもらえるのか、ロッテンが二十五年もそう悩んでいたことに、息子さんは気づいていた?
――ムリ。話してないんだもの。気づくわけがない。
あたしの不安を気遣ってか、カリナは精一杯のやさしげな声を出して、続けた。
『あたしら勉強できないからこうやって遊んでるけど、アンタできるじゃん。ちゃんとケリつけてさ、それから学校に通うなり、またあたしたちと遊ぶなりすりゃいいじゃん。ちゃんと学校行っててもさ、土日なら遊べるし。でもそんなんあとでいつでもできるけど、親とこのことについて話せるのって、今だけだぜ?』
こわい。
こわい。
そんなことを聞くなんてこわい。
いらないって言われたら? そんなの耐えられない。
でも……。
(――あれ? あたし、こんなんだった?)
踏ん張らないと、立っていられない。呪文を唱えないと、真っ平らな気持ちを保てない。「あたしは子どもじゃない」と言いながら、「あたしは子どもだから話してくれない」と言って逃げている。
呼び止められても無言で睨んでしまったのは、抗議なんかじゃなくって、ただこわかっただけ。別れの日付を聞きたくなかっただけ。
あたしがカリナに憧れたのは、彼女が強いからだ。
りえっちを思い出した。電車から降りないあたしを、心配そうに見ていた。
カリナは、何回も電話をしてくれた。
こんなに周りに心配をかけておいて、自分が強いなんて言えない。かっこ悪い。
『じゃあな。よく考えな?』
そう言って、あたしの返事を待たずにカリナの方から電話が切れた。
あたしはしばらく呆然としてしまって、ロッテンを待たせて電話に出たことを思い出すまでにしばらく時間がかかった。
(いけない。戻らないと)
とりあえずカリナに言われたことを置いておいて、ロッテンに駆け寄った。
「長くなっちゃってすみませ……ん?」
ロッテンの様子がおかしかった。野球観戦に訪れているであろう通行人たちを、愕然とした顔で見ている。
「ど、どうしたんですか?」
あたしの言葉が聞こえていないらしい。最初はゆっくりとキョロキョロしたけれど、次第に速くなっていった。信じられないものを見ているような勢いで、周囲を見ている。
「せ、先生?」
「ぼっ、帽子……」
「え?」
小さなロッテンのつぶやきを拾った。ロッテンが見ていたのは、スタジアムに入っていくファンがかぶっている帽子だった。青いキャップ。
(あの帽子……)
今日、どこかで見た記憶があった。それを思い出す前に、ロッテンは泣き出しそうな声で言った。
「横浜スタジアムなのに、横浜の帽子をかぶった人がいない!」
それは、ロッテンの息子さんがあげた、孫を見つけるための条件のひとつ。だけど言っている意味がよくわからない。
「横浜の帽子じゃないって……どういうことですか?」
聞いてみたけれど、届いていない。ロッテンは返事をしないまま、今度はスタジアムの高いところにあるポスターを見上げた。球団のスター選手の勇姿。かぶっているキャップと、周囲のファンがかぶっているキャップは同じだった。
「違う」
「え?」
「私が知っている“横浜の帽子”はあれじゃない!」
意味がわからずあたしが戸惑っていると、ロッテンはあるものを見つけて走り出した。
その先にはファングッズや写真を売っている、小さな露店が出ていた。あたしもロッテンの後を追った。
「あ、あの!」
「おわっ! お、おう?」
日焼けした露店のおじさんは、突撃してきたロッテンがこわかったらしい。目を真ん丸くして驚いていた。お構いなしに、ロッテンは尋ねた。
「あの、あの横浜の帽子はもう無いのですか? あの紺色にダブリューの白いアップリケの……」
「はあ?」
露店のおじさんはしばらく困惑していたみたいだったけれど、すぐに思いついたらしい。パアッと明るい声で言った。
「ああ、そりゃ大洋時代の帽子だよ」
「え……」
(何、それ?)
「横浜大洋ホエールズ時代のさ。それから二回ほど名前が変わってな、今は“横浜DeNAベイスターズ”っていうんだ。変わったのはもうずいぶん前だぜ?」
「……」
どうやらこの四半世紀の間に、球団名が数回変わったらしい。お父さんの見ているJリーグだって、チームが無くなったりできたりするから、プロ野球もそういうのがあるのかもしれない。
ロッテンも、それを知らなかった。
(それじゃロッテンは、今日はずっとその横浜大洋ホエールズの時のキャップをかぶった子を捜していたってこと?)
つまり、今まわりを歩いているひとたちがかぶっているキャップが、正真正銘の“横浜の帽子”。
この時、昼間に元町に入るあたりで出会った男の子が、頭の中に出てきた。
赤いスニーカーを履いた男の子。
あの子は、“横浜DeNAベイスターズ”のキャップをかぶっていた――
赤い靴 履いてた 女の子
「先生!」
突然あたしが叫ぶと、露店のおじさんとロッテンが、ビクッとこちらを見た。
「か、神崎さん?」
「あの子、あの子がそうだったんですよ!」
「あの子?」
ロッテンの頭の中は真っ白になっていたのかもしれない。ポカンとしていた。
「あの子、ホラ、横浜のキャップをかぶっていた、あの子です! あの子がお孫さんだったんですよ!」
少し時間がかかったけれど、ロッテンもあの子を思い出していたらしい。
「あ、あの! ……でもあの子は男の子では」
「だなんて、確かめてません!」
あの子は、港の見える丘公園であたしに言っていた。
この後、どういうルートで動くのか。
同時に、あたしが思い出したのは、あの坂道で見たオジサンの顔。
喫茶店にいたあたしたちを見ていたオジサンの顔。
あれは――
「先生、行こう!」
「えっ、どこへ……」
「決まってるじゃん! 山下公園! シーバス乗り場!」
同じ“子ども”の立場だからこそ、あたしにはわかる。
あの顔は、どう見ても、恨んでいる顔なんかじゃなかった。
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