あにもの/福澤徹三(『幽』vol.26「怖の日常」より抜粋)

あにもの

あにもの


 清掃会社に勤めるSさんの話である。


 三十五年前、彼が小学校四年の夏休みだった。その日の朝、三つ年上の兄とふたりでサイクリングにいった。


 目的地は、当時住んでいた実家から一時間ほどの山あいにある貯水池だった。


 貯水池へ近づくにつれて道路を行き交う車は減って、民家もまばらになった。道の両側は緑が濃い森で空気が澄んでいる。


 ふたりは軽快に飛ばしたが、夏だけに陽が高くなると暑さで体力を消耗する。


「どっかで休もうよ」


 Sさんの提案で、路肩の原っぱに自転車を停めた。地面に腰をおろして水筒の麦茶を飲んでいると、兄が森の奥を指さして、


「あれ見てん。あんなとこに家があるぞ」


 そこには藁葺き屋根の民家があった。当時でも藁葺き屋根は珍しかったから、ふたりは好奇心に駆られて、その家に近づいた。


 どうやら廃屋のようで藁葺き屋根は崩れかけ、土壁は草に覆われている。


 ガラスが割れた玄関の引戸からなかを覗いたが、ひとの気配はない。


「探検しようや。なんか、ええもんがあるかもしれんぞ」


 兄がそういって引戸を開けた。


 玄関は土を踏み固めた土間で、そのむこうに自在鉤のさがった囲炉裏がある。板張りの床はあちこちが腐っていて、うっかりすると足を踏み抜きそうだった。


 雨戸は閉まっていたが、天井の破れ目から漏れる陽射しで室内はぼんやり明るい。


 居間とおぼしい部屋の畳は、長い年月で風化したのか藁のようにささくれだっている。部屋の隅にはチャンネル式の古ぼけたテレビや桐簞笥がある。


 さらに奥へ進むと、大きな仏壇のある座敷があった。仏壇の扉は開いていて、黒ずんだ位牌がならんでいる。


 Sさんはだんだん不気味になって、


「怖いけん、もうもどろうよ」


 といったが、兄は応じず仏壇を覗きこんだり、押入れを開けたりしている。


 やがて兄は押入れから古びた木箱を持ってくると、陽射しで明るい場所に置いた。


 木箱は二十センチくらいの大きさで縦横を紐で縛ってあり、蓋に筆文字が記されている。


 ふたりはその前にしゃがみこんだ。


 木箱を縛った紐はすっかり朽ちていて、兄が指でつまむとすぐにちぎれた。


 蓋の筆文字はかすれているうえに、むずかしい漢字があってよくわからない。かろうじて「兄物」と読めた。


「あにものて、なんなん」


「わからん。けど兄のものやけ、おれのもんやないんか」


 兄は笑って蓋を開けた。


 木箱のなかには、ボロ布を棒状に巻いたものや半月形の櫛、獣の骨らしきものが入っていた。骨のせいか饐えた臭いがする。


 兄は落胆した表情で蓋を閉めると、ようやく腰をあげた。


 ふたりは廃屋をでてから、サイクリングの続きを楽しんだ。


 家に帰ったのは午後だったが、しだいに兄の様子がおかしくなった。暗い表情でむっつり押し黙って、話しかけても返事をしない。


 兄は夕食に手をつけず、早くから布団で横になっていた。心配した両親が声をかけたが、やはり反応はない。そのうち布団のなかで、うんうん唸りだした。


 急病を思わせる様子に、熱を測ったら四十度近い。母はあわてて、かかりつけの医師に往診を頼んだ。


 医師は日射病か夏風邪だろうといって、兄に注射を打ち薬を服ませた。


 治療のおかげか、翌日になって熱はさがったが、兄の反応はあいかわらずだった。


「兄ちゃん、大丈夫?」


 Sさんが訊いても返事はなく、うつろな表情で視線を宙に泳がせている。


 かろうじて食事や寝起きはするが、突然おびえた表情であとずさったり、物陰に隠れたりする。父は首をひねって、


「熱のせいで頭やられたんかの」


 困惑した両親は、兄を総合病院に連れていった。そこで精密検査を受けたが、病名はわからず、回復の兆しもなかった。


「もしかしたら、あの箱のせいかもしれん」


 Sさんはそう思ったが、両親に𠮟られる気がして、なにもいえなかった。


 兄の様子がおかしくなって一週間ほど経った頃、家で法事があった。


 菩提寺の住職は高齢で眼が不自由とあって、若い僧侶が仏壇の前へ案内した。


 Sさんは両親や叔父たちと法事にでたが、兄は自分の部屋に閉じこもっていた。


 やがて住職は経を唱え終わると、膝をそろえたまま、こちらにむきなおって、


「どなたか―かぶりなさったの」


 かぶるとは、なにかに祟られるという意味らしい。両親は驚いて兄の容態を伝えた。


 住職は、すぐに兄を連れてくるよう命じた。兄はなぜか猛烈に抵抗したが、父や叔父たちにひきずられてきた。


 住職は不自由な眼で兄を一瞥すると、


「なんばしよった。最近なんか、いらんことしたじゃろが」


 兄はおびえた表情で、ぶるぶる震えている。Sさんは我慢できなくなって、廃屋にあった木箱のことを話した。


「あほがッ。そげなことするけたい」


 思ったとおり父は怒声をあげたが、住職はそれを制して経を唱えはじめた。


 とたんに兄は胸を搔きむしり、畳の上をのたうちまわった。固唾を吞んで見守っていると、兄は不意に白眼を剝いて倒れた。


 すこし経って意識をとりもどした兄は、きょとんとした表情であたりを見まわして、


「おれ、いままでなんしよった?」


 兄はすっかり正常にもどっていた。だが、いままでの記憶は曖昧で、あの廃屋や木箱のことは、まったくおぼえていなかった。


「その木箱の箱書は、兄の字に口が欠けとる。やけん喋られんごとなったとじゃ」


 住職は苦笑したが、Sさんがその意味を理解したのは何年も経ってからだった。


 最近になって、Sさんはネットの衛星写真であの貯水池の周囲を調べてみた。


 むろん藁葺き屋根の廃屋は見つからなかったが、その一帯は心霊スポットだとネットの記事に書かれていたという。

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