まず拝読して「俳句の世界ってこんなに色鮮やかなんだ」と驚きました。
正直に申し上げると、俳句にさほど触れてこなかった私にとって俳句の世界はもっと水墨画のようにモノクロで、侘びだとか寂びだとか、どこか枯れた趣のある世界だと思い込んでいました。今になってみればそれはたった一面を見ていただけに過ぎなかったわけですけれども。
作者様の俳句は、
時には日なたぼっこする猫のように飄逸なところがあったり
時には初夏の入道雲のように躍動感に溢れていたり
時には月夜に鯨の歌が響く幻想的な物語が重なって見えたり
時には枯木に灯る星あかりに世界の不思議や美しさを垣間見たり
一言でいえば『変幻自在』といったところでしょうか。
穏やかでいて、でも常に挑戦しているような。個人的には"枠に囚われ過ぎない自在の境地"といった言葉がしっくりときます。
ともすれば抒情も強すぎると刺激的になってしまうものですが、この作者様の描く世界はまるで一幅の絵を眺めているときのように穏やかで、吟味された一語一語から伝わる繊細な余韻は心に優しく沁みいるようです。
この浪漫と抒情漂う優しい世界を、
現代社会を生き抜く全ての皆さまに、
オススメさせていただきます。
第一句「春の雨湯のごとたぎちけぶりけり」を開いた瞬間、これは、と電流が走りました。
――これは、文句なしにうつくしい。求めていた日本語だ。
というわけで、数日かけて全句拝見致しました(2018年11月16日時点)。
芯の通った、さびさびとした日本語。それでいて時にひょうげたユーモアやまろやかな愛らしさもあり、俳諧のさまざまな妙味を、さまざまな角度から万華鏡のように楽しませて頂きました。
また、参考句や典拠がたいへん多岐に渡っていらっしゃることに敬服。私が漢詩を囓っていた経験があるので、とくにそのエピソードが出てきたときは嬉しくなりました。
以下、個人的に好きだなあと思った句を挙げさせて頂きます。
春の雨湯のごとたぎちけぶりけり
朧月或緑の龍ひそむ
逝春をしづかにわらふ人は誰
腥きもの埋もれけり雪の中
さびしかろ雪降る池に舞ひおりて
目眩く夏は穂麦の朱きより
ここに来て人恋しさや三十三才
春の山古事記の民も遊ぶらん
振向いて見返る猫や月の下
もみづるや饂飩に七味唐辛子
猫はさぞ後の世かけてひなたぼこ
あなかしこ蚯蚓の跡を御目汚し
逝春や岸を離るゝ鴨の声
毒親の縁断ちし身や鰒汁
呼合ふや霜々の聲星の聲
春めくや馥郁として帋の屑
青空や水田にゝほふ桃の花
梅が散り桜が散るや山笑ふ
春深し仔犬隠るゝ草の陰
若葉よりしたゝる月の雫かな
あぢさゐやおとなの猫を隠すほど
日傘女盛りを逃さじと
夏痩の肋浮き出る痛さかな
地には花天には星の秋来る
月かけて香たちのぼる夜ふけかな
星空をささへてたてる枯木かな
夜の星枯木にはなを咲かせけり
梅活けて唐猫かはん冬ごもり
小説を書いていると、なんだか言葉たちとにらめっこばかりしていて、必要以上に彼らと距離が近くなっているなあと感じる時があります。だんだん疲れてきて、その言葉の持つ意味や響きや色や匂いを感じるアンテナが鈍くなっていくのがわかるのです。
そんな時、私は青丹さんが詠まれた俳句たちに会いにきます。
肩の力が抜けて、ほっとするのです。言葉たちから一歩、二歩と離れて、彼らの姿を広い視界にとらえることができます。そうして、そこに描かれた世界にゆっくりと入っていける。
きっとカクヨムで頑張っている皆さんのなかには、私のような方も少なからずいるのではないでしょうか。もしもあなたがそうなら、ぜひ、こちらにお立ち寄りください。活字好きな人には、青丹印の言葉のサプリは効果抜群ですよ!
余談。季語って不思議ですね。はるか昔の人たちも、現代の私たちと同じ季節に触れ、その息吹を感じ、心を動かされていたんだなあと、そのことを強く教えてくれる、私にはタイムマシンのように思えました。現在と過去を繋ぐ、季語という名のタイムマシン。