25 恋の始まり (最終回)
「桜子。もう学校へ行く気なんか。あと一日ぐらい寝とったほうがええんやないか?」
翌日の朝。
「熱は完全に下がったし、ピンピンしとるからだいじょうぶやよ、お兄様!」
すっかり元気になった桜子は、えっへんと胸をそらす。
「相変わらず、じょうぶなやつやなぁ。でも、無理はしたらあかんで。柳一君、桜子が無茶をせんように見張っといてやってくれよ」
杏平にそう頼まれて、柳一は「はい、わかりました」と言いかけたけれど、菜々子の「おまかせください!」という大きな声でさえぎられてしまった。
「桜子お姉様のお世話は、わたしがちゃんとしますから!」
菜々子は、自信満々にそう言った。でも、いつも桜子にお世話されているのは菜々子のほうである。
仙造やスミレ、それに柳一はおかしくてクスクスと笑いだし、菜々子は「な、何がおかしいのよ⁉」と怒った。
(柳一さんが、楽しそうに笑っとる。こんなにもやわらかな表情の柳一さんを見るのは、初めてや。本当によかった……柳一さんが笑ってくれるようになって)
桜子は、ずっと、柳一の笑顔を見たかった。悲しい顔よりも笑った顔のほうが素敵にちがいないと思っていたのだ。想像していた通りの柳一の優しげな笑顔を見ることができたのがすごくうれしくて、桜子も柳一たちといっしょになって笑った。
「も、もう~! 桜子お姉様までぇ~!」
「あはは。ごめん、ごめん」
(桜子は、すっかり花守家の家族の一員になっとるみたいやな。それに、学校を休んだのを心配して見舞いに来てくれる友達もおる。これで、安心して三重県に帰ることができるわ)
杏平は、東京でも持ち前の明るさでみんなに愛されている桜子の姿を見届けることができて、満足だった。今度、ミズキの墓参りに行った時、「妹は元気にやっとるから、安心しろよ」と報告しよう。
「じゃあな、桜子。また困ったことがあったら、電話しろよ。すぐにかけつけるからな」
杏平はそう言い残して、三重県へと帰って行った。
杏平を見送った後、病みあがりの桜子と柳一のことを心配した仙造が、
「今日は、三人ともわたしの車で学校まで送ってあげましょうか?」
と、言ってくれたけれど、二人は丁重にことわった。仙造ののろのろ運転では、絶対に遅刻してしまうと思ったのだ。
「そうですか……。では、事故に気をつけて行って来てください。近ごろの野良犬や野良猫は、車を追いぬかすほどの猛スピードで走りますから、犬や猫にも注意したほうがいいですよ」
桜子と柳一は、(もしかして……犬や猫にまで追いぬかされたの⁉)と思い、複雑な表情で顔を見合わせた。仙造は、なんで車を買ったのだろう?
その横では、あきれた顔の菜々子が「それはお父様の運転が非常識なほど遅いからでしょ……」とつぶやいていた。
ちなみに、何でも真に受けやすいスミレは、次々と自動車たちを吹き飛ばして街を
「途中まで、いっしょに行くよ」
桜子たちといっしょに家を出た柳一がそう言うと、菜々子は「え、ええ⁉」とおおげさな身ぶりでおどろいた。
「どういう風の吹き回しですか、お兄様? わたしは、桜子お姉様と二人っきりがいいのに……。ブツブツ……」
「ろ、露骨に嫌がるなよ! 兄に対して、それはちょっとひどすぎると思うぞ⁉ 桜子はまだ病み上がりだから、その……心配じゃないか」
柳一がちょっと気恥ずかしそうに言うと、桜子はドキッとした。柳一が自分のことを心配してくれるなんて、前までは考えられなかったことだ。夢みたいにうれしい。
「桜子。杏平さんも気にしていたけれど、本当に休まなくてもいいのか? 風邪がぶりかえしたら、大変だぞ?」
「心配してくれてありがとう、柳一さん。でも、もう運動場を百周できるぐらい元気やから、だいじょうぶです。それに、わたしは飛び級生でみんなよりも一歳年下やから、がんばって勉強せんと、授業についていけへんようになるし」
「そっか……。それにしても、桜子はなんでわざわざ飛び級までして、故郷から離れた東京の女学校に入ったんだ?」
「え? それは……」
しまった。柳一に、「あなたに会いたくて、東京にやって来ました」と自分の気持ちを伝えようとしていたのに、熱を出してたおれたせいで、すっかり忘れていた。
看病をしている時に、「あなたのことをかけがえのない人と思っている」とは言ったけれど、ちゃんとした告白はまだだった。
(今、ここで勇気を出して告白しようかな? でも、菜々子さんがおるし……)
桜子がそんなふうに悩んでモジモジしていると、
「あーーーっ‼ しまった‼ お弁当を忘れちゃった‼ 桜子お姉様、急いで取ってくるから、待っていてください!」
菜々子が急に大声を出して、あわてて家にもどって行った。
「菜々子の間がぬけた性格、女学校を卒業するまでになおらないかもなぁ……」
大声にビックリして心臓がバクバク言っている胸をおさえながら、柳一はため息をつく。
桜子もおどろいたけれど、ちょうどいいタイミングで菜々子がいなくなってくれて、柳一と二人っきりになることができた。
言うなら、今しかない。
「柳一さん。あの……。わたしが……東京に来たのは……」
桜子は、耳まで真っ赤になりながら、わずかに声を震わせて言った。
すごく、ドキドキしている。柳一に恋した時と同じように、桜子の小さな胸は高鳴り、
「桜子……?」
桜子が緊張して何かを告げようとしているのが柳一にもわかり、つられるように心臓がドキドキしてくる。これは、菜々子の大声におどろいたせいではない。
そして、とうとう桜子は一歩踏み出して柳一に近づき、つま先立ちで背筋をピンと伸ばした。
小さな桜子は、背が高い柳一の表情が見えづらい。だから、ほんの少しでも、彼の顔を見ることができるようにと、おチビなりに必死なのだ。
桜子は、柳一をまっすぐに見つめながら、いっきにまくしたてるように告白した。
「柳一さんのおそばにいたかったから、東京にやって来たんです。死に物狂いで勉強して飛び級したのも、柳一さんのもとへ早く来たかったからです。わたしは、一年前、あの海岸で柳一さんに恋しました。さびしそうに海の前で『消えたい』と言っていた柳一さんに、あなたは一人じゃないよ、わたしがおるよと言いたくて……。それで、あの、その……」
息をするのも忘れるほど必死に話しすぎたせいで、だんだんと頭の中が真っ白になっていき、桜子はそれ以上言葉が続かなくなってしまった。
でも、柳一には、桜子の想いが十分に伝わったようだ。
(この子は、そこまでオレのことを……。今まで他人を遠ざけて生きてきたオレにできるだろうか? 桜子みたいに、だれかを全力で愛することが……)
柳一は、顔を真っ赤にしながらも柳一を見つめ続けている桜子の汚れなき瞳から目をそらさず、じっと考えた。真剣な気持ちでしてくれた告白に、自分も真剣に答えないといけない。
(いや、ここで迷ってどうするんだ、柳一。杏平さんと約束したじゃないか、桜子を大切にするって。オレは、この子のことをかけがえのない存在だと思っている。この強い気持ちがあったら、桜子のことをずっと大切に守れるはずだ!)
柳一があまりにも長い時間だまっているので、だんだん勇気がしぼんできた桜子は、
「や、やっぱり、こんな告白をするなんて、はしたなかったですか? 教頭先生は、恋なんて不良のすることやっておっしゃっとったけれど、柳一さんもそんなふうに思って……」
と、泣きそうな顔になりながら小声で言った。
「いや、オレの両親も恋愛結婚だから、そんなことは思わないよ」
桜子を泣かせそうになってあせった柳一はそう言い、桜子に歩み寄った。
そして――。
(え? り、柳一さん……?)
五〇センチも身長差がある柳一が、身をかがめて、桜子の頭に顔を近づけた。
何をされるのだろうと思って桜子はドキドキする。
「君が、これからもそばにいてくれたら、オレはうれしい」
柳一の返答は、短くてちょっと素っ気ない言いかただった。緊張のあまり声がうわずってしまったらかっこ悪いと思い、長いセリフが言えなかったのだ。
でも、そのかわりに、柳一は桜子の頭の赤いリボンにそっと
男女が手をつなぐことすら
「柳一さん……」
桜子の心は一瞬で花やぎ、愛で満ちあふれていく。体がふわふわして、気をぬいたら空へと飛んでいってしまいそうだ。うれしい。想いが通じて、泣きたいぐらいうれしい……。
「柳一さん。いつか、わたしの故郷の海をもう一度いっしょに見ましょう。海はね、悲しい涙の色なんかじゃないんです。海は幸せを運んできてくれるんです。それから、銀座の街をいっしょに歩きたいな……」
「うん……。二人でいろんなところへ行って、いろんなものを見よう」
二人はそう言って、もう一度見つめ合った。恋の始まりをおたがいに自覚しながら。
「わたしがちょっといない間に、何だかいい
忘れ物を取りに行って、もどってきていた菜々子が、物かげに隠れながらそうブツブツ言っていることなんて、二人は気づきもしないのであった。
大正時代は、今から百年も昔のこと。でも、いつの時代でも、人を好きになる心は満開の花々のように美しい。
百年前のカップルの桜子と柳一の恋は、今ようやく始まろうとしていた。二人は、きっと、美しい恋の花を咲かせることだろう。
もしかしたら、明日、あなたと街ですれ違う人が、二人の子孫だったりするかも知れない。
了
最後までご覧いただき、誠にありがとうございます!
「大正浪漫ってステキだなぁ~」と少しでも感じてもらえたら、この上ない幸せです。
感想等ございましたら、コメント欄や私の近況ノートにぜひぜひお書込みください。作者が泣いて喜びます。
大正浪漫の小説はまだまだ書き足りないので、今後も書いていきたいなぁと思っています。その時は、ぜひお付き合いくださいm(__)m
名月 明
花やぐ愛は大正ロマン! 青星明良 @naduki-akira
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