24 彼女が「朧月夜桜子」になった日

 牛鍋をみんなで食べた後、桔梗は自宅に、蓮華は学校のりょうに帰った。


 もう外は真っ暗だったので、仙造が車で二人を送って行ったが……亀もあくびをするほどののろのろ運転だから、もしかしたら歩いたほうが早かったかも知れない。


 牛肉をたっぷり食べた桜子は、まだ微熱があるから、大事をとってすぐに寝た。


 杏平きょうへいは、今夜は花守はなもり家で泊まり、明日、お供でついてきた社員たちとともに三重県に帰る予定である。


「すやすやと眠っとるな。たおれたと聞いた時はきもを冷やしたが、たいしたことがなくてよかったわ」


 眠っている桜子の頭をなでながら、杏平は柳一に言った。


「彼女の強さには、オレもおどろかされました」


「……この子は、あのスペインかぜの大流行で家族が全滅しても生き残った強い子や。ただの風邪ごときでは負けへん。でも、小さい体で無理をしすぎて、今日みたいに突然熱を出すことがたまにあるで、気をつけてやってくれ。桜子は、どんな時でも一生懸命な子やから」


「え? 家族が……? そ、それは、どういうことですか?」


 柳一は、おどろいて杏平を見つめた。


 朧月夜おぼろづくよ家は、杏平や桜子の祖父にあたる先代の社長がスペインかぜで亡くなったけれど、父親の梅太郎や母親の藤子は今も元気である。家族がみんな亡くなったとは、どういう意味なのか……?


「そうか。柳一君は、桜子から何も聞いてへんのか。……まあ、母親を失ってからずっとふさぎこんどった君に、同じように病死した自分のの話はしにくかったんやろうな」


「本当の家族って……。桜子は、朧月夜家の娘ではないのですか?」


「オレや父さん、母さんにとって、桜子は大切な家族や。でも、血はつながっとらん。桜子は、養女なんや」


 杏平はそこまで言うと、「許嫁として、君には知っておいてもらったほうがええやろな」とつぶやき、桜子の過去を語り出した。






 桜子は、春雨はるさめ商会しょうかいという会社を経営していた春雨はるさめ桃真とうまとその妻・蓬子ほうこの次女として生まれた。


 桜子には、四歳年上ですごく美人なミズキという姉がいて、姉妹はとても仲がよかった。


 春雨商会は、朧月夜商会と同じく四日市港で貿易をやっている会社で、朧月夜商会にとってはライバル会社だった。


 しかし、朧月夜家と春雨家は、まるで親戚のように親密なつきあいをしていたのである。なぜなら、朧月夜商会の次期社長・梅太郎の妻、藤子ふじこは、春雨商会の社長・桃真の妻、蓬子の女学生時代の先輩で、大の仲良しだったのだ。


 両家は、おたがいの子供の杏平とミズキを将来結婚させる約束もしていた。

 杏平は、美しくて賢いミズキのことを愛していたし、いずれ義理の妹になる桜子のこともよちよち歩きのころから可愛がっていた。


 桜子は、優しい両親と姉のことが大好きで、姉の許嫁である杏平のことも本当の兄のようにしたい、とても幸せな日々を送っていた。


 しかし、三年前、そんな小さな幸せをあっという間に崩壊ほうかいさせる悲劇が起きた。スペインかぜの大流行である。


 朧月夜家では、梅太郎の父親がスペインかぜで死んで、梅太郎が新しい社長になった。


 でも、春雨家の犠牲者ぎせいしゃは一人では済まなかったのだ。

 父の桃真、母の蓬子、長女のミズキ、そして、まだ九歳だった次女の桜子……全員がスペインかぜに感染してしまったのである。


 もともと病弱だった姉のミズキが真っ先に亡くなり、次に、自分も病気で苦しいのに子供たちの看病を必死にしていた蓬子が力つきてこの世を去った。


 そして、最後に、一度も風邪を引いたことがないのが自慢だった父の桃真が、桜子に看取られて、蓬子とミズキがいる天国へと旅立った。


 父が死んだ時、桜子は奇跡的に熱が下がり始めていた。


 たった一人、桜子だけが死神から逃れたのである。


 桃真の葬式が行なわれた後、県外に住んでいた桃真の弟――桜子にとって叔父にあたる人物が、春雨商会の経営をひきつぐことになり、妻と三人の子供たちをつれて桃真の屋敷に住みついた。桜子もその叔父夫婦があずかることになった。


 しかし、春雨商会の新たな社長となった桜子の叔父は、かなり乱暴な性格で、会社経営はめちゃくちゃだった。


 ライバル会社である朧月夜商会を出しぬくためにリスクの大きい取引とりひきをして大失敗し、あっという間に赤字になったのである。

 しかも、桃真が桜子のために残した遺産金を会社経営の資金として勝手に使い、それもすぐに使い果たしてしまった。


 そのことを知った数人の心ある社員たちは桜子の叔父に抗議したが、みんな解雇かいこされ、桜子に味方してくれる人間は一人もいなくなった。


 そして、桃真が亡くなって一年もたたないうちに会社経営に行きづまった桜子の叔父と妻は、そのイライラを桜子にぶつけるようになったのである。


「こんな娘、自分たちの子供と同じように大事にできるものか。家に置いてもらえるだけ、ありがたく思うんだな」


 そう言って、小さな桜子を使用人のようにあつかい、食事の用意や洗濯、屋敷中の掃除など、朝から晩まで働かせた。そして、その家の子供たちも、桜子を毎日いじめた。


 桜子が、新しい保護者となった叔父夫婦にこき使われ、ろくに食事もあたえられていないとウワサで聞いた朧月夜家の梅太郎と藤子は、激怒した。


「あんなにもいい子に、そんなむごい仕打ちをするなんて、絶対に許せない! わたしたちが娘として育てよう! 最初からそうしていればよかったんだ!」


 そう決心した梅太郎と藤子は、春雨商会をたずねて、桜子を引き取らせてくれと桜子の叔父に言った。


 亡くなった兄の娘を虐待ぎゃくたいしたうえに家から追い出した、というウワサが流れたら困ると思った桜子の叔父は、最初は首をたてにふろうとはしなかった。


 しかし、梅太郎が、


「今さら世間体せけんていを気にしても遅いでしょう。あなたの評判はすでに最悪ですよ。……桜子を養女にくれないのなら、あの子が父親から相続そうぞくした遺産金を勝手に使い果たしてしまったことを裁判所に訴え出ますが、いいのですか?」


 と、温和な彼にしては珍しくすごんでそうおどすと、あせった桜子の叔父は「チッ……好きにしろ。あんなやせ細った娘、くれてやる」と吐き捨て、桜子を手ばなした。


 こうして、桜子は、朧月夜家の娘となったのである。


 梅太郎と藤子、杏平は愛情をもって桜子に接したが、桜子は部屋に一日中ひきこもって、ずっとふさぎこんでいた。


「なんで、わたしだけが助かったんやろう……?」


 桜子は、そう自問自答しつづけていたのである。

 家族を失い、叔父夫婦にいじめられてできた心の傷は深く、自分はどこにいても一人ぼっちなのだ……と考えていた。


 杏平は、そんな妹の様子を見るに見かね、何とかして以前の明るい桜子にもどってほしいと思った。

 そして、どうしたらいいだろうと考えぬいた杏平は、ミズキが許嫁の自分にたくした遺言を桜子に教えることにした。


「桜子。生前のミズキが、オレに最後に残した言葉を教えたろ。あいつは、病気をうつすといけないからと言って、見舞いにきたオレとふすま越しにしか会ってくれやんだが……オレにこう言うたんや」


 杏平は、涙まじりの声で、許嫁の最後の言葉を言った。


「杏平さん。わたしが死んだ時は、桜子のことをわたしの分まで守ってあげてくださいね」


 ミズキは、杏平にそう頼んでいたのである。死の間際まぎわまで、可愛い妹をこの世に残していくことを心残りに思っていたのだろう。


「ミズキ姉様……」


 気弱なところもあったけれどとても優しかった姉のことを思い出し、桜子は涙をポトリ、ポトリとたたみに落とす。


 杏平はそっと指をのばして、桜子の涙を不器用な手つきでぬぐってやり、一通の手紙を桜子に渡した。


「おまえのことを心配しとったのは、ミズキだけやないぞ。この手紙を見てみ」


 桜子は、杏平から手渡された手紙を読むと、おどろいて目を見開いた。桜子が見たのは、父・桃真のなつかしい筆跡だったのである。


「わたしたちはがんばって病気と戦うつもりですが、もしも、桜子がたった一人になってしまった時は、あの子のことを助けてあげてください」


 手紙には、そう書かれていた。これは、春雨家の両親が、朧月夜家の梅太郎と藤子に送った手紙だった。


「桜子。お前は、亡くなった家族の愛情に今でも守られとるんやで。そして、新しい家族となったオレたちもそばにおる。お前のことを守ったる。桜子は、一人やないんや」


 杏平は、桜子の頭を優しくなでながら、深い愛と真心をこめてそう言った。ミズキにたくされたこの子を必ず守りぬく、と杏平は心に誓っていたのだ。


 兄の言葉を聞いた桜子は、うつろだった瞳に光を取り戻し、


(ああ……そうか……)


 と、大切なことに気づいた。


(お父様、お母様、ミズキ姉様は、今でも天国でわたしのことを見守ってくれとるんや。たとえ、もう二度と会えやんでも、わたしを愛してくれた人たちとのきずなが失われるわけやない……。そして、新しい家族も、わたしのことを愛してくれとる。……わたしは、みんなに守られとるんや。一人ぼっちやないんや)


 桜子は、杏平をまっすぐに見つめて、こう言った。その瞳には、強い決意の光が宿っている。


「ありがとう、杏平お兄様。わたしは、いろんな人の愛情に守られとるんやね。そのことがわかったから、もう一人ぼっちでさびしいとか言って、悲しんだりしやへん。

 そして、わたしみたいに、自分のことを一人ぼっちやと思ってさびしがっとる人がおったら、手をさしのべてあげられるような優しい人になれるよう、がんばる! わたしは、みんなを愛して、みんなに愛される、そんな人間になりたい!」


 自分はこれからずっと一人なのだと泣いていた女の子は、こうして生きる気力を取りもどし、新しい家族や学校の友人たちを一生懸命に愛する明るい女の子になったのである。


 この日から、彼女は「朧月夜桜子」になったのだ。






「桜子に、そんな過去が……。オレは母親を亡くして心を閉ざしてしまったというのに、血のつながった家族を全て失ったこの子は、こんなにも強く生きていたのか……。桜子にくらべたら、オレは、なんて弱い人間なんだろう」


 桜子の過去を聞いた柳一は、自分の弱さを恥ずかしいと思い、うつむいた。


「柳一君。オレは、君にそんな反省をしてほしくて、こんな話をしたんやない。人の死を悲しむ心は、弱さやないからな」


 杏平は、柳一と膝をつきあわせて、真剣なまなざしで言った。


「愛する人との別れは辛い。その気持ちはオレもわかる。許嫁のミズキと死に別れたからな。……でも、悲しみと孤独の海におぼれて、だれも愛さない人生を送っとったら、ずっと幸せに背を向けて生きていくことになるぞ。今そばにいてくれる人たちを大切にせなあかん」


 今そばにいてくれる人。

 それは、柳一にとって、仙造や菜々子、スミレたち花守家の人々。そして、いつも柳一にまとわりついて太陽のような明るさで笑ってくれている桜子のことだ。

 柳一は、天国から見守ってくれている母カスミを安心させるためにも、大切な人たちと幸せにならないといけないのだ。


「……わかりました。桜子のこと、大切にします。オレ、この子のことをいつの間にか好きになっていたみたいだから……」


 柳一は、桜子の寝顔を愛おしげに見つめながら、そう誓った。


「妹のこと、よろしく頼む」


 杏平はニッと笑うと、深々と柳一に頭を下げた。


 柳一もあわてて頭を下げ、二人はゴツンと頭をぶつけあうのであった。

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