誠の旗に《生き様》の花が燃える

新撰組。幕末にさほど詳しくない御方でも新撰組の名はご存知でしょう。
京の都において秩序の取り締まりをし、後に旧幕府軍として戊辰戦争を戦った剣客組織です。《誠》の旗をあげ、動乱の幕末を駆け抜けた、最後の侍とも称されています。
その新撰組を題材と扱った小説や映画は数知れず。昨今では時代の需要にあわせて多様に脚色され、大幅に改変された創作も散見されます。むしろ、そうした創作物のほうが増えているほどです。
ですがこちらの長編小説は架空の人物を登場させ、その視点を借りつつも、史実から逸脱することなく厳格なほど正確に綴られています。著者さまがいかに勉励されたかが見て取れます。僅かな妥協も許さず、史書をかき集め数々の事件の細部まで研究なさっているからこそ、血臭まで漂ってくるような臨場感をもって綴れるのでしょう。

そう、もうひとつ、こちらの小説が他と違っているのは新撰組の《生き様》を克明に綴りつつも、いえ、だからこそ、というべきでしょうか。決して彼等を美化することなく、凄惨な事件は凄惨に書きあげておられます。例えば新撰組内部での粛清。

新撰組には禁令というものがあります。

     士道ニ背キ間敷事
《武士道に背く行為をしてはならない》

誠の旗の許に集った輩(ともがら)であろうと、義の無きものは排され、敵前逃亡するような勇非ざるものの在籍も許されません。除籍。ではありません。切腹です。逃げれば、昨晩まで釜の飯をともにした輩に殺されます。殺されるものは辛く、殺すものも辛く、殺せと令するものもまた辛い。されどそれだけの厳格な法度がなければ、収まらぬのもまた事実でした。
新撰組は言わば、烏合の集です。
それを統制するには美しい《誠の旗》だけでは到底足らなかったのです。

時代は綺麗事ではまわらない。

新撰組局長である近藤の作中の台詞にこのようなものがあります。
「私や、あなたは、ひょっとすると、時代の流れの中で踊っているだけの、一枚の木の葉に過ぎないのではないか。そう思うのです。国を動かし、時代を作るのは、あなたではない。いや、人ではないのです。時代を作るのは、時代。国を作るのは、国。我々は、その上を踊る木の葉の一枚、その底に敷き詰められた砂利の一粒……」
如何ほどに武技に優れた剣豪であろうとも、先見の明のある策士であろうとも、時代という荒波のなかでは一枚の葉にすぎぬのです。義を掲げ勇を刻み、時勢に抗って邁進する大きな組になろうとも、それは変わらない。変わらないと知りながら進む。それがすなわち《生き様》なのであろうと、こちらの小説を読みながら考え至りました。
これは、英雄譚のように輝かしいものではありません。木の葉一枚が荒波に揉まれ、諍い、挽き砕かれていく様を綴った、史書です。されども、砕ける木の葉にも情けがあり、慨嘆があり、後悔があり、熱意があり、《誠》があります。為るべくして為ってしまった悲劇があり、避けられなかった惨劇があります。
それこそが幕末に実在した最後の侍の《生き様》なのです。

作中に《生き様》という言葉は幕末にはなかった。新しく後に創作された言葉だとあります。故に、敢えて私はこの小説を《生き様》を書いた小説だと言いたい。激動の変革期。朝に笑った男が、夕には死ぬ時代。死に溢れた時代だからこそ、私はこれを《死に様》の小説だとは言いたくないのです。
なにより、著者は《死》を貴んでいません。潔く美しいものとは書いていない。《死》はただ《死》だと書く。

現在私は一部を読み終えたところです。ここから二部が始まります。いったん書を綴じ、これを書かせていただいております。何故、一気に読み進めないのか。重いのです。あまりにも重すぎるから、呼吸も整えずに読むことがためらわれるのです。
そうして重いからこそ、この小説は素晴らしい。そう、人の《生き様》が、軽いはずがないではありませんか。

新撰組。激動の幕末に生き、《誠》の旗を掲げて死にいく男らの、《生き様》を確とその瞳に焼きつけてください。没頭して読み耽り、気がつけば小説を捲っていたはずのあなたは、碁盤の目に張り巡らされた京の路地に佇んでいるはず。
そこに燃える花が、どれほど果敢なかろうと、惨たらしかろうと。
彼等の《生き様》に咲く《血の花》をどうか、刮目してご覧くださいませ。

九月四日追記
最後まで拝読させていただきました。
言葉がありません。土方歳三、近藤勇、沖田総司――歴史に名を連ねる新撰組の生き様はさることながら、架空の人物である綾瀬久二郎の生き様がまた、たまらなく胸に迫ります。

彼等は、生きた。
花が咲くように、旗が戦ぐように。

そうしてそれが、いまのこの時代に続いているのです。

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