夜に咲く花
増黒 豊
第一部 京のこと
第一部 序章 昔語り
明治三十七年 綾瀬春子、小樽にて
綾瀬春子が小樽に着いたのは明治三十七年の晩春である。晩春と言っても小樽の春は東京よりも遅いから、春子は東京を通りすぎた春を追い越し、小樽まで来たのであった。
待ち合い所で暫く待った後、若い男性がやって来て春子らを招じ入れた。
「お久しぶりです、小春さん」
通された部屋で待っていた老人は、春子を昔の名で呼んだ。
「お久しぶりです、杉村さん」
春子はこの老人を、今の名で呼んだ。
「そちらが——」
「ええ、息子の、
久は、今三十六歳。東京で新聞記者をしている。
記者として取材をしているうち、藤田と名乗る老人に出会い、それが父のかつての友人であることを知った。藤田という物静かな老人は穏やかな光をたたえた目で、じっと久の顔と名刺を見て、
「失礼ですが、綾瀬さんはどちらのお生まれで」
と聞いた。
「はい、明治二年、京で」
「そうですか。あの年は、非常に忙しい年でした」
旧幕府の遺臣の家でも明治になり普通に取り立てられたり、特に家柄を偽ったり隠したりすることなく生きている家もあったが、罪人の扱いを受けている家もある。彼らは世を憚り、自らがそうであることが出来るだけ露見せぬよう生きていた。
久は、父のことを、ほとんど聞いたことがない。だから、もしかすると、我が父もそのような者であったのかもしれぬとは察している。父は、自分が生まれた年に、死んだ。
母は、父について語ることがあれば、その父がどこで何をしていた者であるのかというような話はせず、
「この世で、最も素晴らしい人でした」
と言い、笑った。
「そうですか。それで藤田君と知り合いに」
「はい」
「申し訳ありません、立ち話になっていますな。どうそお掛け下さい。今、コーヒーを淹れているところです」
春子と久は、椅子に座った。
「あの年、私は貴方の父上と一緒でした。しかし途中で行き別れてしまい、それっきりなのです」
コーヒーが、運ばれてきた。
「それは宇都宮でした。私は些細なことで腹を立て、貴方の父上らと道を別にしてしまったのです。その場には、当時斎藤と名乗っていた藤田君も貴方の父上もいました」
春子が、コーヒーに手をつけた。熱いのか、口を付け、すぐにカップを置き、
「他の皆さんも?」
と訊いた。
「ええ。局長は不在でしたが副長も、原田も。原田などは無意味に私に同調し、勢いのまま一緒に席を立ち、結局思い返して引き返し、それでもばつが悪く戻れず、結局彰義隊に投じることになったそうですな」
「まぁ。あの人らしい」
久は、母の春子はは品がある方だと思っていた。身寄りがないので幼い久を育てるため、料亭で膳部を運んだりする仕事をし、金を稼いだ。疲れていても顔には出さず、無駄口をきかず、所作もきびきびとしていかにも武家の母といった具合であった。
それが、今この杉村老人の前では、娘のように笑ったり、声をひっくり返したりしている。
母の笑い声が、鈴を鳴らしたようなものであることを久はこのとき初めて知った。
「久二郎は——」
と杉村老人は久の父の名を呼んだ。そこで言葉が詰まり、窓の外を見た。視線が戻ったとき、白く伸ばした髭と禿げ頭との間に細く浮かぶ眼に、当時の強い光が戻っていた。
「とても良い男でしたよ。とても、良い男でした」
昔語りは、続く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます