第一章 京

その名を得る

 綾瀬久二郎あやせひさじろうは、弘化元年、美濃と飛騨の国境の小さな農村に産まれた。幼名は清太せいたという。十五くらいの頃には父母は既に亡く、年老いた祖父と妹と三人で、村の名主の畑を耕していた。ほかに、光輪寺という村で唯一の寺に通い、書物などを読ませてもらう代わりに寺の手伝いをしていた。

 寺の和尚は酒が好きで、暇さえあれば昼間から酒ばかり飲んでいた。祖父とは昔から親しかったようで、清太にも優しく、少し手伝いをしさえすれば、寺の書物を自由に読ませてくれたり、食い物を与えてくれたりした。ときに棒切れを用いて、剣術の真似事などにも付き合ってくれた。

 清太が四歳のときに黒船騒ぎがあり、それから世の中は大いに乱れ、清太が十六になる年に起きた桜田門外の変や、その契機となった安政の大獄などに加え、飢饉や攘夷騒動などで世情は慌ただしくなる一方であった。こののどかな山合の村への影響は都市部に比べ薄かったが、やはり世の中が騒がしくなっていることを感じないではなかった。

 清太が十八になる文久二年の秋、同じ年に同じ村に生まれ仲良く育った彰吉しょうきちという者といつものように寺に行った。

 この日は祭りの前夜で、村の男達はその準備をしていた。夕暮れ前にはその用事を済ませ、二人で競いながら寺まで駆けた。

 寺の山門をくぐったのは、清太の方が早かった。

「どうだ彰吉、力では敵わなくとも、足では俺の方が早いな」

 と喜び、石段を駆け上がる。

「和尚様」

 本堂であぐらをかき、船を漕いでいる和尚の背に声をかけた。

「おお、今日も来たのか。明日は祭りじゃ。もう、今日は手伝いはいらぬので、早く帰って休め」

「わかりました」

 にっこりと笑って、本堂を出た。しかし、彼らはまだ帰らぬ。日課が待っているのだ。

 本堂を出るとき、彰吉が脇にほうきなどと一緒に無造作に立て掛けてある木剣を持ち出した。

「清太、さっきの借りを返させてもらうぞ」

 よほど悔しかったのか、その木剣を構えた。

「なんだ、付いた勝負をまだ言うか」

 清太も、まんざらでもなさそうな様子で木剣を取る。

 力では体が大きく、仏師が岩に施した彫刻のような肉体を持っている彰吉が勝っていたが、細くしなやかな猫のような身体を持つ清太の方が技は巧い。いつもこうして、どちらが勝つともつかぬチャンバラをして遊んでいた。

 日が暮れたため、そのチャンバラは勝負のつかぬまま終わった。

 和尚に挨拶をし、帰ろうとしたが、そこではじめて二人は、日が暮れても空がまだ赤いことに気付いた。

 祭りの前なのでかがりを焚いていても不思議はない。何とはなしに二人は木剣を置き、石段を降りた。

 石段を両側から包み込むようにして生えている樹木の並びを抜け、山門まで来ると、二人は恐ろしいものを目にした。

 

 村の西口のところに、大篝が焚かれている。

 その炎で照らされた道や、畑のあぜを馬や徒歩かちで踊るように行き交う見知らぬ者。皆一様に汚い身なりに粗末な剣をいていることを見ると、盗賊らしい。

 清太は彰吉と顔を見合わせると、石段を転ぶように駆け上がり、本堂へ飛び込んだ。

「和尚様、和尚様、村が、賊に」

 世情不安により食い詰めた者が徒党を成し、村を襲っては食料や寺の品、そして女を奪う。この時代では稀なことではなかった。食料は彼らの腹を満たし、寺の品や女は売られる。その順番が回ってきただけのこと、と見られなくもない。

 和尚は本堂の脇に立て掛けられた木剣を手に村の方へ戻ろうとする二人に、

「戻らっしゃい!」

 と鋭く一喝した。

 驚いた二人が振り返ると、和尚はなんと寺の本尊を動かし、その安置される台座を剥がし、そこから古びた刀を取り出した。

「清太、持っていけ」

 それを無造作に清太に与えると、無造作に転がされた本尊に向かって経を唱えはじめた。

 黒漆の鞘に黒の柄糸の刀を腰にねじ込むと、清太は駆けた。彰吉も木剣を手に、後に続く。

 山門を飛び出すと、賊が一斉にこちらを見た。もうを終え、立ち去ろうとしていたところらしく、残っている者はさっきよりも減っている。

 二人は薄い月明かりと大篝に姿を揺らす敵の数も数えず、まっしぐらに駆け出した。

 清太の腰から、刀が抜き放たれた。二尺五、六寸ほどであろうか。玉のように赤錆がところどころに浮いているが、構う暇などない。

 賊の一人目掛け、駆けた。

「やろうってのか」

 言い終わる前に、その腕が落ちた。声にならぬ絶叫と血を吹き出し、賊は地面に転がった。

「やりやがった!」

 あとの者がそれを見、一斉に腰のものを抜き放った。

 その一人を、彰吉の木剣が襲った。

 頭を砕かれた賊は、ゆっくりと脱力し、畑の柔らかな土に倒れた。

 別の一人を、清太が斬る。しかし肩口から入った錆びた刃が骨に食い込み、斬れない。それを清太は力任せに引いた。賊の身体が痙攣を起こし、口からごぼごぼと血泡が溢れてくる。

 その間に、敵中に躍り込んだ彰吉が右、左と手当たり次第に賊の頭を砕いてゆく。

 清太は刃が食い込んだまま痙攣している賊の身体を足で押し、引き抜いた。

 そのまま腕を引き、崩れ落ちる死体の背後から飛びかかってくる一人の喉を切っ先で突き、また引き戻した。

 あとは、夢中である。しばらくして、清太は自分と彰吉以外に立って動いている者がないことに気付いた。それは永遠とも思えるほど長い時間のことであったようにも思えたし、わずかな間の出来事であったようにも思えた。

 清太は妹を探した。時々、路傍で震える男や老人を見つけては訊いたが、誰も知らぬと言う。そのうちの一人が、

「女は皆、荷車に載せられて、連れていかれた」

 と言う。清太はどちらとも付かぬ方に駆け出そうとしたが、彰吉が止めた。

「まず、和尚様に話そう」

 二人はまた、山門をくぐり寺に戻った。和尚はまだ、経を唱えている。

「無事であったか」

 経をやめ、二人の無事を喜んだ。

「村は」

 やや冷静を保っている彰吉が、村の様子を和尚に伝えた。和尚は肩を落とし、

「そなたらの家の者は——」

せんが、妹が、賊に連れて行かれたと」

 と清太が取り乱して言った。

「この辺りの賊が、女衒ぜげん(遊郭に売る女などを扱う人買い)に女を売るのだとすれば、恐らく行き先は、京。北の山向こうの村に賊が出たときは、京であったと言うからな」

 和尚が目測を着けた。死んだ清太や彰吉の父母親類のことよりも、生きているであろう千のこと、というわけである。

 清太は慣れぬ刀を握りしめ、立ち上がった。

「待て。日も暮れた。発つのは明日の朝にするがよい。——それに」

 と和尚は清太の腰に目を落とし、

「その刀、研いでゆけ」

 と言い、砥石を取りにくりやに入っていった。その身体が濡れ、暗い気を纏っていることから、この二人が賊を葬り去ってきたものと察したらしい。

 手頃な砥石を幾つか持って戻ってきた和尚は、それを清太に渡すと、村の様子を見に、そして死者の弔いに寺を出ていった。

 一通りの手配を終え、戻ったときには深夜になっていた。清太はずっと刀を研いでおり、彰吉はずっと清太の背を見ていた。和尚はもう一本、粗末な刀を手に持っており、それを彰吉に与え、

死人しびとの物を剥ぐのは仏の教えに背くが、お前たち生ある者の命を護るとあれば、お許し下さるだろうて」

 と転がされたままの本尊に向けて拝んだ。

 賊の刀である。抜いてみると大した刀ではなさそうだが、三尺はありそうかと思われる長い刀身は鋭い光を放っており、研がなくても使えそうだった。

 清太は、研ぎ上がった刀を和尚に見せた。

「ふむ。日頃、儂がお前に包丁を研がせていたのが役に立ったかのう。——どれ」

 と仕上げを施すべく清太と代わった。

 その間、和尚は様々なことを二人に話した。

 清太の祖父は昔、侍であったこと。人を殺め、主家を出奔し、この地に居付いたこと。その際若き日の和尚が、祖父より預かったのがこの刀であったこと。また、祖父と一緒に従ってきた中間ちゅうげん(武家の使用人)が彰吉の祖父であったこと。清太の祖父は綾瀬という名字で、この村では久吉ひさきちと名乗っていたが本当の名は久善ひさよしということ。

 ほかに、天下の情報や、諸勢力の中心が京に集まりつつあること。主人も家人も死んだ以上、小作人の子である二人にはもはや、帰る家も生きる術もないこと。

「あるいは、一剣いっけんにて人の生を為しうるかもしれん」

 と和尚は言った。

「儂は、そなたらの家の者、村の者を弔い、生き残った者と共にあとの余生を過ごす。しかし、そなたらは、これで朽ちるにしては余りにも若木のようでありすぎる。決して腐るな。この乱れた世の中で、己がどのようにして生を繋いでゆくのか、見定めろ」

 とも言った。和尚なりに、この行き場のない二人にこれから与えられるであろう、場渡の人足のような真似をして日銭を得て生きてゆくしかないような生とは別の道を選び取る最後の機会であると考えたのだろう。

 夜が白んできたとき、二人は小作人の格好から、和尚が引っ張り出してきた粗末ではあるがきちんとした着物に着替えた。髷を結い替え、太刀を差すと、脇差は無くとも見違えるようであった。

 幼いころから、書物や古今の面白い談話、食い物などを与え続けてきた和尚が、刀に続いて二人に最後に与えたものは、

 綾瀬久二郎。

 樋口彰介。

 という名であった。


 天に与えられた才がそうするのか、乱世がそうするのか、二人はこれより、己の剣を以てこの世を生きてゆくこととなる。

 彼らは和尚に今までの恩を丁重に謝すると、山門を後にした。

 村の中央を流れる川沿いを少し下ると、半日ほどで街道に続く道へ出る。二人はそこを目指してゆく。途中、山がにわかに赤く色付いた。山合の土地のため日の出は見えぬが、その色彩の変化で二人はそれを知った。

 若き二人は、ゆく。この道がどこに続くのか知らずとも、己の影の伸びる方へと歩を進めてゆく。

「お天道様を、道標みちしるべに」

 と言い合い、まずは西へ向かった。

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