(2)


 与依が、行ってしまった――

 その事実が、上手く飲み込めなかった。

 半身をごっそりと持っていかれたような信じられない喪失感を、歴は今味わっていた。

 大切な者を失うということがどう言うことなのか、歴は今、思い知っていた。

 頭の中が真っ白で、一切何も考えられない。

 ただ呆然と、自分を完膚なきまでに拒絶した与依の言葉だけがグルグルと頭の中を駆け回り、颯爽と去って行った与依の後ろ姿だけを目で追っていた。

「ええい。いつまで掴んでいるつもりじゃ! い、いい加減に放さんか!」

 歴の意識が、連れ去られて行った与依に向けられていると知った村長が、力の抜けた歴の手を払い除けて、自由の身になったとしても、歴は無反応だった。

 どうでも良かった。村長なんてものは。本当に心の底からどうでも良かった。

 ただ、与依を失ってしまったことが――与依に拒絶されてしまったことが、想像していた以上に衝撃だった。

 与依は歴にとって特別な存在だった。初めは可愛い妹のようなものだったが、今となってはそれ以上の存在だった。

 その気持ちは少しでも与依に届いているものだと思っていた。

 あのとき――与依が穴に落ちたとき、与依は紛れもなく歴に助けを求めた。

 牢の中で、与依は歴に救いを求めた。

 『天邪鬼』なんかに魅入られたとしても、普段の言動があべこべになっていたとしても、与依が自分のことを頼りにしてくれていたと知ったなら、それだけで歴の力になった。

 頑張らなければならないと思っていた。

 守らなければならないと思っていた。

 本来ならば、与依の父親がしたかったことを、歴は成し遂げなければならないと思っていた。何故なら、それを託されたのは他ならぬ歴だったから。

 だから歴は頑張って来た。絶対に守らなければと思っていた。

 それなのに――

 歴の足は限界だった。ふとした瞬間、がくりと崩れた。膝をつき、座り込む。

 歴は何も出来なかった。

 助けることも、庇うことも、守ることも、立ち向かうことも――

 怖かったのだ。目の前で父親を斬られて、血の流れる様を眼にしてしまって、動けなかったのだ。

 怖気付いた自分が情けなかった。無力な自分が情けなかった。何も出来なかった自分が情けなくて腹立たしくて――

「ぅわああああああああああああっ!!」

 次の瞬間には叫んでいた。

 悔しかった。何も出来なかったことが。むざむざ与依を連れて行かれたことが。与依の父親と交わした約束が守れなかったことが。

 もしも自分に力があったら、男たちに立ち向かう勇気があったら、自分がもっと強かったら!

 何かが変わっていたかもしれない。与依を連れ去られなかったかもしれない。与依に拒絶されなかったかもしれない。

 何もかもが今更のことだったとしても、それでも悔やまずにはいられなかった。

 叫ばずにはいられなかった。叫んだところで力が手に入るわけでもないし、与依が帰って来るわけでもないし、強さを得られるわけでもない。

 だが、歴は泣きながら叫んだ。硬い地面に爪を立て、拳を叩き付けて、ただただ叫んだ。

 その耳に――

「こ、これで村は元通りだ。もう何も煩わしいことはない」

 ははは――と、場違いに乾いた笑い声を上げられたなら、歴の中で何かがブツリと切れた。

「お前が!!」

 振り返りざまに村長へ殴り掛かる。

 村長が両手を自分の顔の前で交差させ、「ヒッ」と息を飲み込んだときだった。

「歴!」

 全ての動きを止める一言が放たれた。

 止まるとは思わなかった。

 左手で村長の襟足を掴み、交差させた腕ごと殴り飛ばすつもりだった歴は、絶対に誰にも止められないと思っていた。だが、その動きは本能に止められた。

「れ、歴。よせ。止めるんだ。村長を殴ったところで何も変わらない」

 その声は、歴の父親の物だった。

「お、お父……」

 不意に歴は、先ほどとは違う意味で泣きたくなった。

「……り、良(りょう)。

 そうじゃ、そうじゃ、医者を呼ぼう。おお。今すぐ呼んで来てやるぞ」

 するりと、歴の手から力が抜けたのを見て取ると、これ幸いと最もなことを口走りながら牢を出て行く村長。それを完全に無視して、歴は父親の元へ駆け寄った。

「お父……」

 歴は、父を呼ぶ声が震えているのを嫌でも自覚した。

 蒼褪めた顔に浮かぶ無数の脂汗。そして、大量の血を吸った着物と、赤く染まった手を見たなら、与依に続いて父親まで失うのではないかと思ったのだ。

 そうなったら自分は耐えられない。きっと、母も耐えられない。

 そう思うと、歴の胸は不安で埋め尽くされた。

「お父……」

 それ以上、言葉にならなかった。

 そんな我が子に、引き攣った笑みを浮かべながら、良は言った。

「……歴――。馬鹿な大人たちを許してくれ」

「お父……」

「愚かな村長を――許してやってくれ」

「な、何で?」

「やり方はどうであれ……村長は、村を守りたかったんだ」

「でも!」

「……ああ。方法は間違っている。それは……解っている。だから、与依の一家は犠牲になった。……でも、他の村人たちはこの村で暮らせるんだ。何も知らずに……」

「でも!」

「それにな……村長だけが悪いわけじゃない。村という、小さな集団では、村長の言うことは一番なんだ……」

「でも!」

「……許せないのは解る。だがな、俺たちはその指示に従ったんだ。

 与依の父親は従わなかった。村長の言うことは絶対だが、従わないことも出来た。選べたんだ……でも、俺たちは選ばなかった」

「だってそれは……」

「たとえ命令だったとしても、俺たちは従った。責めるなら、俺たちも責めなければならない。村長だけの問題じゃないんだ」

 当然のように痛みはあるのだろう。時折顔を顰めながら諭すように話されて、歴は何をどう言っていいのか解らなくなった。だからこそ、「お父……」と、父親の手に自分の手を重ねて呼び掛けると、

「だからな――お前は間違えるな」

「!!」

 逆に力強く腕を掴まれて、凄まれた。

 そこには笑みなどなかった。真剣な眼が歴を射抜いていた。

「お、お父?」

 戸惑う歴に、父は言った。

「お前は、与依を追え!」

「で、でも」

「でもじゃない。お前は与依を追わねばなんねえ!」

「でも、おいらは与依に拒絶されたんだ……」

「そんな情けない顔をするな! あれが与依の本心だと本気で思っているのか?!」

「!」

「与依は今、『天邪鬼』なんてわけの分からない物に魅入られているんだろ?

 口に出して言う言葉はあべこべになっているんだろ?!」

「!」

「だったら! 追わなくてどうする?!

 与依は、俺たちを助けるために自ら男たちと一緒に行ったんだ。助けを求めれば、俺たちが傷つくと知って、だからあえて突き放すようなことを言ったんだ」

「!」

「仮に、本心であれを言ったとしても、お前に何の関係がある?!

 情けない話だが、活が……与依の父親が与依のことを頼んだのは、俺じゃなくお前だ。

 お前は、与依が何と思おうとも、守ってやらねばなんねえ。

 本来ならばこんなこと、お前たちに話すべきではなかった。

 穴の中で見つけたものもシラを通せば済む話だったし、こんなところへ連れてくる必要もなかった。誤魔化しようはいくらでもあったんだ。

 だが、それをしなかったのは、どこかでずっと自分の過ちを感じていたから。

 俺は、己の過ちを懺悔して、心の負担を軽くするためだけに、お前たちに村の秘密を暴露した弱い男だ。

 だがな、お前は違う。お前はいつも、活に頼まれたことを守ろうと頑張っていた。

 その姿は俺がちゃんと見て来た。そんなお前が与依を救わずに誰が救う?

 このままここで与依を失えば、お前は二度と本来のお前に戻れなくなる。俺たちの――村長のようになるんだ! 悪いことだと判っていながら、いくらでも理由をこじつけて正当化する。そんな大人に、お前はなりたいのか?」

「い、やだ」

「だったら、追え! 今なら追いつける。たとえそれで死ぬことになったとしても、お前が後悔しない人生を送れると思うなら、今すぐ追え!」

 刹那、歴の中で何かがパリンと音を立てて弾けた。

 突然、目の前の霧が吹き飛ぶように、頭の中が冴えた。

「おいら、追う。追い駆ける」

 そうだ。与依は『天邪鬼』なんだ。『天邪鬼』はあべこべなんだ。

 だとしたら、与依は拒絶したわけではない。助けを求めていたことになる。

 自分はまだ何もしていない。

 与依の父親との約束を、何も果たしていない。

 それなのに、与依を永遠に失うわけにはいかないのだ。

「お父、死ぬなよ。おいらも絶対に死んだりしないから。

 必ず与依を連れて帰るから。だから、死ぬなよ!」

「ああ。良い顔だ。行って来い」

 力強く背中を叩かれ、歴は父親の元から飛び出した。

 それを見送り、良は一度だけ大きく息を吐くと、口元に笑みを浮かべて静かに瞼を閉じた。

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