第五章『なにやら複雑な心中』
(1)
あれから三日が過ぎていた。
あれから――と言うのは他でもない。村長宅にいる深の元へ、与依のことを相談してから三日目のこと。歴は少しずつ溜まって行くモヤモヤとした感情に、もどかしい思いを抱いていた。それと言うのも、与依が昔のようによく笑うようになっていたからだ。
いや、そうなることを歴は望んでいたのだから、その通りになった以上、嬉しいと素直に初めは思ったのだ。が、今目の前で展開されているものを見ていると、何かが違うような気がして仕方がなかった。
目の前で展開されているもの。それは――
「はい。ご飯出来たよ。食べなくても良いからね」
満面の笑みを浮かべて昼餉の用意を整える与依。
「ありがとう、与依殿」
まるで父親のように上座に座らされて受け取る深。
「歴も、縁も、喰わなくていいから」
笑顔は笑顔であるものの、若干深に向けられている言葉より温度差があるような口調で、二人にも勧めて来る与依。
言葉だけ聞いていれば、『食べるな』と言うことだが、これに関しては『食べてね』と言う意味だと言うことは三日前に深によって説明されている。
三日前。深に与依の居そうな場所を教え、村の入り口で帰って来るのを待っていた歴。
ちゃんと与依と会えただろうかと、不安と焦りに頭の中を占められて、空が薄っすらと赤くなるまで、今か今かと待っていると、深は与依と一緒に帰って来た。
与依は泣き腫らしたような眼をしていたが、どこか憑き物が落ちたような、スッキリした顔をしていた。そして、はにかんだような笑みを向けられて、歴は弾かれたように深の顔を見た。
そんな歴に、深は力強く頷き返し、『村長へ村の人たちを集めて欲しいと頼んで欲しい』と言って来た。
歴はすぐに村長の元へ行き、村長はすぐに村人たちを集めた。
勿論、すぐに全員と言うわけには行かなかったが、集まれるだけの人数が集まると、皆の前で深は与依の置かれている状況を説明した。
それはにわかには信じ難いものだった。
『与依殿は、『天邪鬼』と言う妖に魅入られてしまった。そのため、今まで与依殿は己の本心とは違う、不本意な言動ばかり取って来た。本当は皆さんの心遣いが嬉しかったし、お礼も言いたかった。だが、両親を失い、信じていたものに裏切られたと絶望した与依殿は、不運にも『天邪鬼』に魅入られてしまい、叶わなくなった。
だがそれは、裏を返せば、与依殿の本心は、与依殿の言動とは裏のことだと思えば良いだけなんだ。『天邪鬼』には他人を呪ったり狂わせたりするような力はない。与依殿が『嫌いだ』と言えば『好き』だと言うことだし、『やりたくない』と言えば『やりたい』と言うことに概(おおむ)ねなる。
そして、こちらから何かを頼んだり聞いたりするにもコツがある。例えば、水汲みをして欲しいなら、『水汲みだけはしないでくれ』と言うと、『だったら水汲みをしてやれ』となる。
初めは混乱するかもしれないが、これまでの与依殿の行動は、与依殿が心の底から望んで取って来たものではない。実際、与依殿がこの村の中にいないのは、どうにもならない自分の言動で村の皆を傷つけると分かっていたから。だからと言って、自分ではどうにも出来ない。それ故、独りでいることを選び、極力村の中にいなかったんだ。
与依殿が心無い人間ではないと言うことは、皆さんの方が知っているはず。
どうかこれからも与依殿を見捨てずにいてやってはくれまいか』
当然のことながら、すぐには村人たちも頷かなかった。
そもそも、『天邪鬼』自体を目にした事がない人々に、いきなり『天邪鬼』に魅入られたと説明しても信じられるものではない。
たとえ百歩譲っても、実際に与依の言動で被害を受けた人間もいる。
原因が分かったからと言って、すぐに気持ちを切り替えられるほど、人間の心は単純ではない。そこかしこで戸惑いの声が上がっていた。控えめながら放たれる拒絶の空気。
与依は悲しげに俯き、縋るように深の着物を掴み、深は励ますように与依の肩へ手を置いた。
『対応次第で与依殿が、昔の素直な与依殿と変わらないことを俺が証明してみせる。
だから暫し時をくれ。そうすれば俺の言葉が嘘ではないと分かるはず』
そうは言っても、村人たちは互いに顔を見合わすだけだった。
そんな村人たちの反応が、歴には腹立たしかった。
十二年も素直に頑張って来た与依を見て来たくせに、たった三年迷惑を被ったからと言って、受け入れられないという態度が気に入らなかった。
村での対面があるから隠しているつもりだろうが、のんだっくれの亭主やら、人の話を聞かずに強引なことをするはみ出し者や、ほら吹きや、手癖の悪い人間はいくらでもいることを歴は知っている。そんな連中は身内だからと言って庇ってやるのに、どうして与依のことは受け入れられないのか。
だから歴は声を上げた。
『おいらもそれに協力する!』
そして現在――与依の監視も兼ねて、深・縁・歴の三人は、与依の家に寝泊りしていた。
本来ならば若い娘が独りで暮らしている家に、年頃の男が二人も居候するなどもっての外なのだろうが、当人が全く気にしていないことと、監視をしてもらわなければ困ると言う二つの点で、なし崩し的に共同生活が営まれていた。
だとしても、正直歴は嬉しかったのだ。初めは。
昔のように笑顔を返してくれるようになった与依を見ることは。
「今すぐ掃除なんてしたくないから、どっか行って」
と、家の前まで来て笑顔で言われたときは正直戸惑った。だがそれを、
「今すぐ掃除をしないといけないから、手伝って欲しいそうだ」
と、苦笑を浮かべた深が通訳し、『ああ、そういうこと』と納得した歴は、久し振りに頼みごとをされたことが嬉しくて、喜んで手伝った。
水を汲み、雑巾片手に床を磨く。埃の溜まった床を拭きながら、歴は心が躍るほど楽しかった。これから昔のように与依と暮らせると思ったら、それだけで幸せだった。
与依の父親に、与依のことを頼むと言われてから今まで、ろくに何も出来なかったが、これからは違う。少なくとも与依が自分を見て逃げなくなっただけでも大進歩だと思うと、笑わずにはいられなかった。
今はまだ、深のように巧い具合に与依の本心を汲み取れないが、時が経てばきっと慣れる。そうなれば、自分が深に代わって与依の代弁者となり、村と与依との橋渡しをして、昔のように皆で笑い合える日が来ると想像したら、楽しみで仕方がなかった。
そして行く末は――と考えて、歴の顔が緩んだ。
歴は今年十六歳。与依は今年十五歳。後二年もすれば所帯を持つことも可能。
そうなれば――とまで思考を加速させ、突然我に返って頭を振る。
一気に体温が上昇し、顔が赤くなっているのが自分でも分かった。
思わず左右を見渡し深や与依の様子を窺うが、気が付くと歴は家の中に独りだけだった。
二人はどこに行ったのかと膝立ちになれば、楽しそうな与依の声が外から聞こえて来た。
見れば、家の外で薄い布団を干して埃を叩いている与依と、それを穏やかな眼で見守り、相槌を打つ深の姿があった。
一瞬にして浮かれていた熱が引いた。何かがチクリと胸に刺さった。
だが、それさえも頭を振って、歴は気を引き締め直す。
なんたって、今までずっと使っていなかった布団だ。埃も相当なものだろうと思えば、埃を払うのは当然。しかも早急に必要なのだから、作業を分担するのは当然。
それに、与依の抱えていた問題を真っ先に見抜いたのが大人の深なのだから、与依が頼るのも当たり前。
自分は自分。村の中では誰よりも与依に近い位置に居る――と、己を鼓舞して、床掃除に戻った。
しかし実際は、時と共にあっさりと歴の自尊心は打ち砕かれて行った。
三年振りと言うこともあったのだろう。何を話せばいいのか分からないという問題もあったのだろう。
歴がどう切り出したものかと考えている間に、与依はいつも深に話し掛けていた。
「どこかに行きたいところはない……か? あってもおらは案内しないけど」
「薬草を採りに行きたいのだが、案内してもらうと迷惑なんだが……」
「そ、そう? じゃ、じゃあ、おらが明日案内してやらないから」
「そうか。それはとても助かる」
傍で聞いていたら意味が分からない会話ではあるが、そわそわしながら深の役に立とうとし、それを汲んで深が頼みごとをすると、それはそれは嬉しそうに与依が笑う。
その間に、歴の入り込む隙などなかった。
そんなやりとりが、たった三日の間にどれだけあったものか。
歴が仕事で別行動を取っていた間の出来事を夕餉のときに聞かされて、『少しずつ村人たちが声を掛けて来るようになった』と嬉しそうに話す様を見るにつけ、歴は素直に喜びを感じていた。だが、一抹の寂しさも感じていたのだ。
正直、歴は与依と話していて、反対の意味だということを分かっていながら、真っ直ぐに言葉通り受け取り、戸惑うこともある。
その度に深が通訳したり、与依の代わりに何があったかを説明してくれる。
その中で、歴は与依の変化・村人たちの変化を知らされていった。
実際、歴が畑仕事をしていると、昨日与依ちゃんがね……と、与依の話を振られるようにもなった。
比較的与依の被害を受けずに同情していた村の人たちは、恐る恐るではあるが声を掛けてくれているようだ。傍に深がいることも大きな要因であるらしい。
そんな話を聞けば聞くほど、歴は自分の胸の内に暗い感情が溜まって行くのを受け止めざるを得なかった。
与依の楽しそうな顔を見たかった。昔のような笑顔を見たかった。
昔のように村の人たちと仲良くして欲しかった。
そんな歴の願いが、今徐々に叶っている。深のお陰で希望が見出せて来た。
そうして欲しいと頼んだのは勿論、歴だ。
だからこそ、深に感謝すれこそ恨むのは筋違いだが、歴ははっきりと深に対して嫉妬心を覚えていた。
昔のような与依や人間関係を築き上げるのは自分の役目だったのに。
そう思う自分が――身勝手な自分が生まれ始めたことを歴は意識せざるを得なかった。
嫌な人間だと歴は思った。
頼んでおきながら、自分で出来なかったことを苦もなくあっさりとやり遂げてしまった深に嫉妬している。
嬉しそうに、楽しそうに、自分に向けることのない表情を向ける与依を見て、腹立たしさを覚えている。
そのくせ、そんなことをおくびにも出さずに表面上を取り繕っている自分が、酷く卑しく思えた。自分がこんなにも身勝手で嫌な人間だったのかと思うと、気が塞いだ。
そして特に今、目の前で展開しているように、与依が親しみを籠めて深に接している様を見せ付けられると、正直抑え難いほどの苛立ちを抱くようになっていた。
だがそれは、何も歴だけのことではなかった。
《……きにいらない》
自分の気持ちを抑え付けているその横で、ボソリと歴の気持ちを代弁するものがあった。
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