第一章『迷子の薬師』

(1)

 夏も終わりに近付いた山中を、一人の男が下草を踏みしめて歩いていた。

 歳の頃は三十代の前半だろうか? 黒地に白で細かな文字のような模様が描かれ布を頭巾のように頭に巻き、背中には抽斗(ひきだし)の沢山ついた大きな木箱を背負い、山伏にも似たいでたちで、鈴のついた錫杖片手に進み行く。

 その先は獣道すらない。

 日もだいぶ傾き薄暗くなった山中を、男はただ一人、迷うことなく突き進んでいた。

 山を知り尽くした猟師でもない限り、闇雲に進めば遭難することは目に見えている。

 だが、男の足は止まらない。

 まるで己の進む先に目的の場所があると確信しているかのように……。

 しかし、その足がふと止まった。

 息を潜めている獣達の気配が立ち込める中、男はゆっくりと左右を見渡す。

 一体何が男の足を止めたのか?

 目鼻立ちの整った穏やかな顔に浮かぶのは、少しばかり困惑したもの。

 その静かな瞳に写るのは、代わり映えしない山中の景色。

 どこまでも続く木々に、足元を覆う草草。

 その茂みに隠れている獣達の存在を感じながらも、見ているものは獣達ではない。

 どこかで鳥が鳴き、木々がざわめく。

 あと一時(いっとき)で闇に包まれる山中にあって、男はおもむろに呟いた。

「……どうやら……完全に迷ったようだ」

 …………

 …………

 その、全く慌てた様子もなく発せられた静かな言葉に何を感じたものか、山中には耳鳴りがして来そうなほどの恐ろしい沈黙が降り立った。

 生きとし生ける物の全てが、男に対して掛ける言葉を失ったかのようだった。

「……さて、どっちに向かったものか……」

 と、男が腕を組んで呟いたとき、

《……おーまーえーは、あほかぁあああ!!》

 甲高い声の突っ込みと共に、何かが男に飛来した。

 明るければ、常人の目にも何とか影ぐらいは捉えられただろう。

 だが、様々な影が存在する山中。それも宵が迫る頃ならば、避けることなどまず不可能。

 あわや激突かと、その場に誰かがいたならば思ったことだろう。だが、実際には違った。

《なぁああああっ?!》

 男が当たり前のように上体を軽く逸らして避けたなら、飛来した何かが悲鳴を上げて通り過ぎて行った。

 バンと、けっこうな衝突音が静寂をぶち破る。

 勢い余った飛来物が、止まることなく木立に衝突した音だった。

「大丈夫か?」

 と、男が飛来物に対して当然のように安否を確認したならば、

《ダイジョーブなわけがあるか!》

 飛来物は男の目の前に飛び出ると、涙声で訴えた。

 それは、鴉ぐらいの大きさの色鮮やかな鳥だった。

 全体は黒いが、鶏冠(とさか)や首周りが極彩色で、尾羽も長く色鮮やか。その瞳は怒りの炎に彩られた真紅。その上で人語を話すとなれば、もはやただの鳥ではない。

 だが、男は特に驚いた様子もなく、噛みつかんばかりの勢いで目前に迫る鳥を軽く手で制すると、

「いや、そうは見えないがな」

 と、あっさりと言ってのけた。だが、それがいけなかった。

《あのいきおいで木にぶつかって、ブジなわけがないだろ!

 なんだってあのバメンでオレサマをよけやがる?!》

「いや、つい……」

《つい、じゃない!》

 やや困惑気味に男が答えたなら、鳥の怒りは更に爆発した。

《おまえがよけたせいで、オレサマがイタイおもいをしただろーが!

 それにたいしてのシャザイはないのか!》

「……と言うか、避けていなければ、お前の嘴は俺に突き刺さっていたと思うんだが……」

《あたりまえだ! おまえがふざけたことを言ったのだから、つっこみを入れるのはトーゼンのことだろうが!》

「つまり、俺が怪我をする分にはどうでもいいと……」

《ジゴウジトクだ! とぉおっ》

 人間で言えば腰に手を当ててふんぞり返っているところだろう。

 自信満々に羽を胴体に当て、胸を張った瞬間、当然のように落下し、慌てて羽ばたく。

 そんな鳥の言い分を聞き、男は胸中で思う。

(……ま、縁(えにし)はいつもこうだからな)

 何を言ったところで、こっちが悪くなるだけだと達観していると、

《そもそも、いまのいままでみちにまよったことに気がつかないなんて、おまえはバカか?!》

 器用に片翼で羽ばたいて体勢を保ちながら、反対の翼を男の顔面に突きつけて罵って来る。それに対し男は、やや呆れた表情を浮かべて反論した。

「……馬鹿かと言うが、人の作った道を行くより、山中を突っ切った方が早いと言ったのはお前だったはずだが?」

《んぐっ》

「それに、俺は何度も『大丈夫か?』と確認したはずだが?」

《そ、それは……》

「それにも拘らず、大丈夫だと豪語して、先導していたのはお前だったはず……」

《う、うるさい、うるさい、うるさい!

 い、いまさらそんなことを言うなんて、おとこらしくないぞ!》

「今更か?」

《い、いまさらだろ! うすうすまちがっていると思ったなら、カンゼンにまようまえに言えばいいじゃないか!》

「言って聞かなかったのは誰だったか……」

《な、なんだそのいいざまは! オレがわるかったとおまえは言うのか?! このかよわいオレがわるかったと?!》

「か弱い……」

 殆ど半眼で縁を見やれば、縁はバサバサと非難がましく翼をはためかせ、精一杯虚勢を張る。立派な嘴と鋭い爪の備わった足をしみじみと眺め、もう一度だけ『か弱い……』と口の中で呟いて、一つ大きく息を吐く。

 不毛な会話だと男は思った。ここで縁と言う名の鳥と口論をしたところで、今すぐどこかへ辿り着くわけではない。向かう方向によってはもしかしたら山道へ抜ける可能性もあるかもしれないが、もしかしたら野宿する場所を探した方がいいかもしれないと気持ちを切り替える。故に、

「ま。迷ったものは仕方がない。完全に日が暮れる前に野宿する準備でも始めよう」

 と、当然のように告げたときだった。

《はあぁああああ?! ノジュクだあぁああ?!》

 鶏冠を全開に逆立てて、縁は悲鳴染みた声を上げた。

 のみならず、人間で言えば唾でも飛ばしそうな勢いで非難の声を上げる。

《お、オマエというニンゲンは、このオレサマに、そとでイチヤをすごせというのか?!》

「鳥なんだから大丈夫だろ」

 言いながら、男は野宿に向いていそうな場所がないか探し始める。

 その行く手を遮るように回り込み、縁は喚いた。

《トリ……って、確かにトリだけど! このオレサマをそんじょそこらのトリなんかといっしょにするな!》

 だが、男は慣れたものだった。

「まぁ、普通の鳥より派手で、普通の鳥とは違って人の言葉を話すからな。その辺の鳥と同じだとは思ったこともないが……」

《だったら!》

「と言うか、俺は正直、人の多いところが苦手だからな。むしろ野宿の方が、気が楽だ」

《だれがおまえのこのみをきいたよ!》

 バサバサと翼で男の頭を叩き、げしげしと足蹴にするのを、手を翳して男が防ぐ。

「少し落ち着け、縁。痛い」

《なにがイタイだ。おまえがなさけのないことを言うからだろ!》

「そうは言っても、人の世は苦手だからな……」

《そんなものいまさらだろうが!》

「それはそうだが……」

《だいたい、ヒトの世でもくらせるように、あたまのものをもらったんだろうが!》

 と言われれば、男は頭に巻いた頭巾に手を置いた。

『遮幕朧(しゃまくおぼろ)』

 それは男にとってなくてはならない大切なものだった。

《いいか?! オレサマはおまえのいけんなどきいてはいない!

 オレサマがイヤだと言ったらイヤなんだ! わかったら、さっさとみちをさがせ!》

「はいはい……」

 完全な癇癪に、男は降参したとばかりに両手を挙げると、縁の要望を叶えるために、山中を再び歩き始めることにした。

 その後ろで、器用にも小躍りしている縁の歓声が聞こえて来る。

 それを聞きながら、仕方がないなと嘆息しつつ、男はずっと前から感じていた己の直感に従って山中を移動し始めた。

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