およそ時代小説という枠組みでさえ、ほとんど描かれることのない新石器時代が舞台の本作。そこでは未だ神秘の樹林に暮らすヒトと、不毛の荒野に文明の道を切り開く人の対立があった。
圧倒的な筆致で描かれるあるがままの自然の姿は、野蛮な闘争を繰り返す文明の歴史という呪われた営みの根本を問う。そこには正邪善悪や美醜はなく、正しき神と教義という幻想も決して手を伸ばすこともない。
『神(テティ)はただ在るのであり、人のためだけの神などいない』
この言葉こそまさしく無為自然を生きる森の民と、本作が提示する『無謬の正義、絶対の神』という世界を今なお蝕む呪いへのアンチテーゼであると私は考える。
あるべき姿、正しい姿など存在しない。人もモノも、ただ在るがままに在るだけなのだ──雄大で残酷なシベリアの樹林は、傲慢の落とし子たる人をそう導いているように感じられるのだ。
森羅万象には魂が宿り、それらへの知恵と敬意こそがヒトという獣に生きる資格を与える。そしてそれを忘れた時、ヒトは神に見捨てられる……そうした人間中心主義がもたらす災厄への警句を、文学という媒体に落とし込む。まさに常人には真似られぬ、不世出の才人の為せる離れ業である。
御託はここまで。本作がもたらす残酷で美しい世界への旅路は、きっと忘れられない旅になることだろう。
遥か昔、遠いシベリアの地には、本当にこんな文化や歴史があったのではないか。
そうだと言われたら信じてしまうほど、血肉と魂を持った人類の生き様がリアルに綴られた、壮大で凄まじい物語です。
五感に訴えかけてくる、厳しくも美しい自然を深く味わうように、毎日少しずつ拝読していました。
約60万字という長い物語ですが、素晴らしく心地よい、稀有なほどの没入感がありました。
あらゆる自然物に宿った神霊と共に生きる森の民の元へ、太陽神を信仰する開拓者・エクレイタ族の使者がやってくるところから、お話は始まります。
互いに穏やかな友好関係を望みつつも、温暖な南の地から極寒の地へと先立って派遣されていたエクレイタ族の開拓団長の裏切りにより、二つの民族の間で凄惨な争いが起きてしまい——
文化が違うということは、人が生きるための礎が違うということです。
何を信仰するのか、何を食べて何を着るのか。
身体を形作る全てが、そこに宿った魂の在り方が、根本から違うのです。
そんな中、森の民の狩人・ビーヴァとエクレイタ族の使者・マシゥの間で結ばれた友情が、とても純粋で尊いものに思えました。
ビーヴァがとても魅力的です。実直で、温和で、女心にはちょっと疎いけど、家族と友を大切にし、誰よりも自然に寄り添って生きるこの青年が。
マシゥが彼に惹かれた理由がよく分かります。
目を背けたくなる残酷な展開や、胸を締め付けるほどの哀しい別離もありました。
でも、確かに血の通った登場人物一人ひとりの命運から、ひと時も目が離せませんでした。
読み終えた今も、彼らの生き様が脳裏に焼き付いています。
ビーヴァたちが、頭の中に住み着いています。
この作品に出会えて良かった。幸せな読書時間でした。
素晴らしい物語を、本当にありがとうございました!
自分自身も書く人間であるからには言葉を尽くしてこの物語について語りたいところではありますが、どうにも、揺さぶられすぎると、脳の言語をつかさどる部分もどうにかなってしまうようです。この一説を目にする度に涙が止まりません。
モミとサルヤナギの木立を歩いて行け
よからぬ考えを抱かず、滑らかな心で歩いて行け……
長いとか短いとか分量とかあんまり考えないでください。時間というのは気づいたら溶けているもので、それ以上でもそれ以下でもありません。取り敢えず読んでください。一緒にタイガへ行きましょう。悲しくても辛くても、ムサ(人間)のことわりとしがらみに巻きつかれようとも、どれだけ絶望に塗れてケレ(悪霊)と成り果てようとも、変わらずにあまたの命を抱くあのタイガへ。
間違いなく、すべてが、きっとあなたの目に、耳に、鼻に……五感に訴えかけてくるでしょう。あなたはそこにいる。そうして木々の間を駆け、水に触れ、冷たい空気に体を震わせ、生きていく。あなたも世界の一部となって、共に同じ時を経ていくのです。
神霊に近い狼と人間に近い犬が互いに相容れ難いように、
森の民と麦の民は同じ地で共に生きられないのだろうか。
神々の命に満ちた森に住まう民、アロゥ氏族のビーヴァは、
はるか南方の農耕定住の王国からの使者、マシゥと出会う。
マシゥたちエクレイタの民は新たな畑作の地の開拓を目し、
ビーヴァたちの住まう厳寒の大森林へと近付いたのだった。
ビーヴァの目に映る森のひとびと(動物たちのこと)の姿。
マシゥが畏れ、同時に敬いの念をもいだき始める自然現象。
夏の森の濃密な命の匂い、神々が遊んで織り成すオーロラ、
友と共に見た湖の星、神々の歌う声、もふもふ、ふさふさ。
万物を神霊とするシャーマニズムを通して描かれる世界は、
触れたことはもちろん見たこともないものではあるけれど、
圧倒的な臨場感で以て読者に迫り、目撃させ、体感させる。
ここに体を置いて、魂だけでそこへ飛んでいくかのように。
己の属する社会と異なるものと出会ったとき、何を為すか。
あるいは、問いを変えるならば、何も為さずにいられるか。
争いを捨てて生きてきた森の民は闘わねばならなくなった。
闘いの形を巡って葛藤する人間の姿を神々はただ見ている。
ビーヴァの透明感とマシゥの誠実さ、狼と犬のふさふさが、
やるかたなくも展開されてしまう過酷な物語の救いとなる。
毅さと弱さ、賢さと愚かしさ、表裏一体の価値観の狭間で。
悲劇と友情が語り継がれ、平穏が続くことを願ってしまう。
厳しくも優しい森に抱かれながら、青年ビーヴァは穏やかに生きていた。氏族の王と、乳兄妹である王の娘ラナと、頼もしい母タミラと、仲間たちと。ビーヴァはある日親を熊に殺された一匹の白い仔狼を拾います。
一見偶然であるような出会いは、実は必然であった。セイモアと名付けられた狼とビーヴァを巡り合わせた原因が明らかになるとき、森の民の穏やかな生活は一度崩壊します。南にある国からの使者として訪れた青年マシゥとビーヴァが築いた友情も。
物語の舞台であるシベリアの自然が雄大で美しいだけ、南からの開拓民の暴虐の凄惨さが際立ちます。目を覆いたくなるほどです。けれども自然の美しさと人間の行いの醜さは表裏一体で、一方があるからこそ一方が引き立つ。まるで光と影のよう。
物語の終わりは完全なハッピーエンドではない。喪われたものは戻らない。けれどもビーヴァとマシゥが属する民族や風習の違いを越えて親友となったように、森の民たちは痛みを乗り越えて再生へと向かってゆく……。
全てを読み終え、序章を読み返すと、白い狼に語りかける娘の言葉は一度目とはまた違った意味を持ってあなたの胸に迫ってくるはずです。
〈森の民〉は熊や狼を神と崇め、厳しい自然の中でともに暮らす人々。
四つの氏族を束ねる次代のシャム(巫女)ラナと、狩人のビーヴァは乳兄妹として育った。
ビーヴァは、親を殺された白い狼の仔と出会う。
その頃、南から来た太陽神を崇めるエクレイタ族のマシゥは、友好を求める王の使者として〈森の民〉との接触を図る。
〈森の民〉たちを取り巻く世界には、知らぬうちに、既に変化が生じていた。
自分たちも熊や狼と同じ森の一員であると考える民と。
自然を切り拓き、自分の物として所有し耕作しようと考える民との衝突。
恐らく、世界中の至るところで、起きた事態だと思います。
〈森の民〉の物語だとは思うのですが、私は完全にマシゥ側から読んでいました。
エクレイタの他の開拓民たちは〈森の民〉を蛮人と見下しますが。
マシゥは、信じる神が違っても、お互いに尊重しようとする。
ビーヴァたちの生き方こそがこの地では相応しいと認め、友情を育もうとする。
けれどもその裏で、彼の知らない策略が――。
エクレイタがこの地に来なければ、接触しようと考えなければ。
ビーヴァたちは、ずっと、今までと同じように暮らせていたのだろうか?
長い物語ですが、私は『第一章 狼の仔』ラストまで読んだら、先が気になってやめられなくなりました。
いきなり58万字にチャレンジするのは躊躇う場合は、同じ著者さまの短編集『掌の宇宙』や、本作品の前日譚『不思議な小太鼓』を読んでみてはいかがでしょうか。
この方がこの題材で書く作品なら58万字でもいける、と感じると思います。
キシムが一番好きです。
ビーヴァとマシゥの二人旅(ソーィエとセイモアもいますが)は、個人的に、ル・グィン『闇の左手』を思い出しました。
普段なじみのない新石器時代、シベリア。その時代に生きる人々の様子がとても緻密に描き出され、物語が進んでいきます。その知識と表現に感銘を受けました。読み進めるごとに今まで知らなかった世界が広がっていき、彼らのいとおしいほどに穏やかで慎ましい暮らしがいきいきと目の前に見えるようです。素敵です!
その一方、物語では自然と現実の厳しさ(小説の中で現実というのも変な話ですがそれだけ真に迫っています)が容赦なく登場人物を翻弄していき、胸に迫って切なくなります。ままならないこと、取り返しがつかないこと…その厳しさに変わらざるを得ない主人公二人と周りの人物たち。けれどその中で人と人、人と人以外のものとのささやかな心の交流が何か小さな希望となっていて、ノンフィクション作品のような面白さを感じました。
また、動物たちのしぐさの描写が細かく、特に犬たちはしっぽの様子や鳴き声がかわいくて仕方ないです!
ハラハラしながらも、今後の展開を楽しみにしています。