世界が十五センチズレたので
空伏空人
十五センチ
不意に目が覚めてしまった。
体を起こして時計を確認してみると、五時十二分だった。
二度寝を決めるには遅いし、かといって起きるには早い時間帯だ。
しまったな、変な時間に起きてしまった。こういう時ほど妙に目が冴えてしまうから困ったものだ。
「本でも読むか……」
丁度、手元には別の『可能性の世界』で出版された本がある。こっちでも出版されているシリーズで、隣り合わせの世界だからか出版されていないとか、作者が存在しないということはなかった。
むしろ、こっちの世界では出版されていないシリーズ最終巻があっちの世界では出版されていた。あらやだ、あっちの世界の方が仕事をしてるわ。
そうだそうだ、そうしよう。
せっかくこっちの世界には存在しない最終巻があるのだから、読まないのはもったいない。貸してくれた(というか売りつけられた。定価より高かった)彼女に感謝すべく、僕は部屋の扉の下にある十五センチの空間に向けて両手を合わせた。
空間にはスライド方式の戸が取り付けられている。
互いに部屋の中を覗き見ることができる現状、プライバシーの問題的にこのままにしておくのはどうなのだろうか。という彼女からの苦言により、こうして戸をつけることになった。
プライバシーもなにも、その空間から覗き込んでいるのは、大体彼女のような気もするんだけど。僕が覗き込んだのは、地震があって、この空間が出来てしまったあの日ぐらいだ。
まあとにかく、僕は戸に向けて両手を合わせて感謝を呟いて向こうから寝息が聞こえた。
…………。
いや。
まあ確かに。あっちの世界とこっちの世界には時差というものがない。太陽もあるし、そもそも同じ住所に住んでいるのだから、寝息がするのは当然か。あの戸の先で彼女が寝ているのだから。そう。おかしくない。
僕は咄嗟に最終巻をぶんどるように掴むと布団の中に潜り込んだ。
時計の秒針がコチコチと動く音が一度気になったら、中々耳から離れないように、彼女の寝息も中々耳から離れない。
うぐ、落ち着け僕。あれはあっちの世界の僕だ。『僕が女子だったら?』という可能性だ。つまり女子だ。違う。つまり僕だ。
それの寝ている姿を一目見たいなんて思うなんて、そんなの鏡を見ればいいじゃあないか。確かに彼女が『僕が女子であった可能性』であることを忘れてしまうこともある。
なにせ、骨格から違うのだ。僕の女装ではなく、僕の女体化と言えばいいだろうか。性別の変更が可能なスマホゲームのプレイヤーキャラみたいなものでもいいかもしれない。
他人の空似な感じで似ていると言えば似ているけれども、別人であるのは間違いない。彼らはきちんと男の子であり、きちんと女の子であるようにデザインされている。女の子を見ている間に男のアバターの顔が浮かんできたりすることはない。
つまり、そこの戸を開いて彼女の寝ている姿をこっそり見るというのもなんら変なことではないということだ。偶然彼女の着ている寝巻がはだけてして、それをじっくり見たとしてもそれはまあ男だし仕方ないということだ。
ん。なんだい。もちろん見るための言い訳を考えてただけだよ。
僕は読んでいた本をベッドの上に置くと、そろりと体を持ち上げた。
寝息はまだ聞こえている。ふふん、いつもいつもこっちのプライバシーなんて知ったことではないと言わんばかりに覗き込んでくるんだ。僕がそっちの部屋を覗き込んでも文句は言えるまい。
さっと戸の前に移動した僕は、そおっと戸に手を伸ばして開いた。
彼女がにんまりとした笑顔で、戸の前にいた。
僕からしてみると、この空間は扉の下にあるのだが、彼女から見ると扉の上にあるらしい。
だから、ここから僕の部屋を覗き込もうとするときは扉の前に箱を置くらしい。それはつまり、自発的に、ここを覗き込もうと思わない限り、そこに彼女の顔はないということだ。
彼女はにんまりとした笑顔のまま、鼻で息をした。
すぅ。すぅ。
それは、さっきまで聞いていた寝息にそっくりだった。というか、そのものだった。
「どうだい。そっくりだったろう?」
「いつからそこに?」
「五時間ぐらい前から」
「暇なのか?」
「なにを言う。忙しくてたまらなかったよ。きみをからかうためにずっとここに立っていたんだから」
「それを暇だって言うんだよ」
「きみが全然起きないから途中で寝てた」
「くそっ。どうしてもう少し早くに起きなかったんだ僕は!」
「期待通りの台本を読み上げる大根役者みたいな台詞口調ありがとう」
それで。と彼女はにまぁ。と更に口角を吊り上げた。
彼女は僕と違って、感情が表情にでやすい。表情を顔に出す術を知っている。
ここら辺も、彼女が隣の世界の自分である所以だろうか。『僕が表情豊かだったら?』という可能性。
ゼロを百にすればいいという話ではないと思う。
「どうして僕の部屋を覗き込もうとしているのかな?」
「……………………」
「『プライバシープライバシー。まるで僕が覗きをする前提みたいじゃあないか。馬鹿言うな。お前は僕が女子だったらという可能性の僕だろう? 自分を覗いてなにが楽しいって言うんだ。お前が気になるというのなら設置してもいいし、別に反対はしないけれども、僕が覗きをするという冤罪が理由にしないでくれるか?』」
「すみませんでした、すみませんでした。僕は覗き魔です戸の設置に反対したのは覗きをするのが難しくなるからです申し訳ありません」
叩頭。平伏。
床に額をぶつけて土下座を敢行する。ぐりぐりと床に擦りつけている額は真っ赤になっていることだろう。
彼女の表情は伺えない。しかし、おかしそうな表情をしているのは確かだ。なにせ、頭の上から浴びせられる声色が、どう考えても楽しんでいるようにしか聞こえないからだ。喜色満面というか、喜色満声だ。
「きみはあれだね。表情を動かすのは下手くそな癖にオーバーリアクションだよね。おかげですごく偽物っぽいというか、どうだ謝っているだろう。謝ってるようにしか見えないだろう! と全身でアピールしているみたいで謝られている気分にならないんだよね。もっとこう、心に来る謝り方をしてほしいね。そうだ、今から僕が足をきみの前に置くから、きみはそこにキスをしてもらおう――」
「調子に乗るなドアホ」
僕は平伏のポーズのまま戸を勢いよく閉めた。ばぁん。という大きな音。向こうから「いきなり閉めないでよビックリしたじゃあないか。主に音のせいで!」なんていう喚き声が聞こえてきたが、無視を決め込む。
「ったく、人をからかうためだけに全力を使いすぎだろうあいつは」
立ち上がるといい感じに眠気がやってきた。明らかに疲労からきた眠気だった。
これなら眠れそうだ。ノロノロとベッドの方に歩いていたら、彼女が戸を開いてひょこりと顔を出してきた。
「ねえ」
「なんだよ」
彼女は言った。
「明日もこのズレが直ってないといいね」
彼女はにこりと笑った。本心から笑っていることが分かる笑みだった。
もしかして、このズレが元通りになることを危惧して、彼女はずっとズレの前にいたのではないか。そう思えるほどだった。
僕は「そうだな」とだけ答えてベッドに潜り込んだ。次の日、戸の前には『へい、覗き魔。プレゼントだ!』と書かれた紙と一足の靴下が置かれていた。戸を開いて彼女の顔に投げつけた。
***
世界が十五センチほどズレたのは、ほんの数週間前に発生した地震が原因だとされている。
ぐらぐらぐら。
ぐらぐらぐら。
ぐらぐらぐら。
ぐらぐらぐら。
わりと長い地震だった。
「ねえねえ、世界が終わっちゃうよ。終わっちゃうよ。なにか言い残すことはない。私に告白しておくことはない?」
「ねえよ」
地震の最中、そんな電話が隣の家の幼馴染からかかってくるぐらいには長かった。
四分ぐらい続いただろうか。震度は四。震源地は不明。揺れた地域は地球全体。
それだけでも不思議で奇妙な地震だったのだけれども、その揺れを地震当時飛行機に乗っていた人たち、宇宙ステーションに滞在していた宇宙飛行士、火星探査機すらも感知していたという事実が発覚してから、更におかしくなった。
これは本当に地震だったのだろうか?
そもそも空すらも揺れていたのなら、宇宙さえも揺れていたのなら、地震ではないのでは?
じゃあ、あれは一体何震だったんだ?
誰も彼もがそんなことを考えた。一番考えたのはやっぱり学者で、一番考えなかったのはやっぱり一般人だった。
それが何震だろうがなんだろうが、揺れたという事実だけ知っておけばそれで充分だし、なにより、皆、自分の生活に忙しいからね。
かく言う僕も、これが一体どんな現象なのかは気になりはしたけども、調査したりはしなかった。たまにテレビのニュースを眺めながら「的外れなことを言ってるなあ……」と思うぐらいだ。
どうして的外れだと分かるのか。単純な話だ。僕はあの揺れが何震だったのかを知っている。
もちろん、調査はしていない。嘘はついていない。
調査をするまでもない。研究をする必要すらない。
何震の答えは、僕の部屋にあった。
「……なんだこれ」
四分近く続いた何震が終わり、家の中の様子を確認しに行こうかと思った僕は、部屋のドアノブを掴もうとしてすかった。十五センチ下の方を掴もうとしていた。
毎日開いている扉の、毎日握っているドアノブだ。もう体が位置を感覚で覚えているはずだ。間違えることがあるだろうか。首を傾げて、視線を落とす。
ドアの下にぽっかりと空間ができていた。
十五センチぐらいの高さの空間である。それが、ドアと床の間に開いていて、ドアの位置を持ち上げているようだった。
昨日まではこんな空間はなかったはずだ。さっきまでもなかった。
だからこの空間ができたのは、さっきの地震のときだと考えられる。
「……断層かなにかだろうか」
まず考えたのはこれだったが、断層というのはミルフィーユみたいな断面があるはずだし、ドアのところだけ隆起しているというのも変な話だし、そもそも、この空間には先があった。
どうやらこの空間はトンネルの入り口のようだった。
地面が隆起して、部屋の下にあったトンネルが現れたのだろうか。いや、こんなすぐ真下にトンネルがあるなんて話を聞いたことがない。
じゃあ、これはなんなのだろうか。体を屈めて、空間の奥の方を覗き込んでみる。
そこにあったのは部屋だった。僕の部屋だった。
僕は僕の部屋を見下ろしていた。
「はえっ?」
思わず見上げてしまう。ドアの上から見たような景色だったが、しかし、そこには覗き穴も監視カメラもない。
「……なんなんだ?」
もう一度、空間の中を覗き込んだ。目の錯覚だったら良かったのだが、しかし、残念なことに錯覚ではなく、そこからは僕の部屋が見えた。
あ。
いや。違う。
そこにあるのは僕の部屋じゃあない。
僕の部屋だけど、僕の部屋じゃあない。
例えるなら、僕の部屋を再現しようとしたモデルルームと言うべきか。
だからよくよく観察してみると本棚の材質がちょっと違うし、ベッドの下に落ちているゴミはないし、窓がスライド式ではなく両開きになっている。
探そうと思ってようやく気づけるような、難易度高めの間違い探しみたいな違いだが、それでも、やっぱり違う。
そして、一番の違いはベッドの横にある化粧台だろうか。口紅とか、なにか筆が並んでいる。
無論、僕は男であり(一人称が僕というだけで、実は女だった。とかいう叙述トリックはない)化粧をする趣味もない。だから、僕の部屋には化粧台はない。これは一番大きな違いかもしれない。
そして、そういうことはつまり、この部屋に住んでいるのは――。
「いは!」
にゅっと。女の子の顔が空間の下の方から生えてきた。
「うわっ!」
四つん這いになって覗き込んでいた僕は驚きで体を反らせて、背中がばきっ。と音を鳴らした。ああ、やばい。やってしまったかもしれない。
「うぐぁ……」
「あなかるか分? ははあ。ねよだんるてしクワクワとっょち。あさてっゃちい驚にとこのりなきいも私。ねんめご? なかたっゃちせか驚。どけだんるすが気なうよたっ鳴音いごすらかりたあの腰かんな今。夫丈大? 夫丈大? れあ」
「ちょ、ちょっと待て!」
「いなわ思はうそもみき? じ感なんそかういてっるいて似構結、どけだんう違。ねい近にじ感たい聞てめ初を葉言のオラパ、ねだれあ。えねるあはじ感るあはえ覚き聞、もで。だいたみう違が語言あゃじと僕とみきらやうど。ねんめご。んーう」
「なにを言ってるか分からないんだよ!」
僕は腕でバッテンをつくりながら言い返した。女の子はキョトンとした表情を浮かべた。
そして、バッテンの意味を理解したのか、快活に、いっそ清々しいまでに大口をあけて笑い始めた。
「ねい白面! ねだつやてっ界世行並。界世異。界世いなはでじ同どけるいて似。ねいしら人住の界世う違は僕とみき、らかだのう違でまここが語言もで、やい。えねだのもいなかいくまう、どけだんたっ思とかのなままのそも語言らたしかしも、らかだいたみ屋部の僕ままのそ、かういといたみ屋部の僕でるまが装内の屋部るえ見らかここ。ねだんいならか分もみきりぱっや。はーあ」
「はーあってなんだよ。もしかしてちょっと残念がっているのか?」
いや、彼女の表情はどこからどう見ても楽しんでいる表情だ。
さっきまでの言葉を考えるに、言語が違うようだから、それがため息を意味する言葉ではないと考えるのが妥当だろう。偶然僕らの言葉に聞こえたというだけだ。
言葉での交流は難しそうだ。僕は彼女の顔をじっと見る。
見れば見るほど、見覚えのある顔だった。毎日見ているような顔だった。
というか、僕の顔だった。
もちろん、そのまま僕の顔というわけではない。しっかり、骨格から女子になっている。しかしどことなく、なんとなく、彼女の顔は僕の面影があった。
だからつまり。
「僕が女子になると、こんな感じの顔になるのか?」
「そうだね。恐らくはそういう感じだと思うよ。僕の感想は『僕が男子になったらこんな感じ?』だ。僕の世界は、きみからしてみると『きみが女の子である』可能性の世界。僕からしてみるときみの世界は『僕が男の子である』可能性の世界だと考えられる。今の状況から考えると、きみと僕の世界は両隣で隣り合わせな世界だとは思うんだけど、それにしては大きな違いだね。これだとあと二つか三つ先の平行世界があったとしたら、もう僕たちは存在していない、もしくは人ではなくなっている世界があるかもしれない」
「可能性の世界? つまり、僕とお前は違う世界の同じ人間だということか?」
「うんうん。その通り。さすが僕だね、理解がはやい。そうだと確定する証拠はないけど、恐らくその通りだ。多分、さっきの地震で並行世界同士を遮っていた壁みたいなのがズレてしまったんじゃあないかな」
「地震? そっちでも地震があったのか――って」
あれ。今普通に話せてなかったか?
僕は呆けた顔で彼女の顔を見る。彼女はにまぁ。と笑った。僕がもし全力で笑ったら、こんな感じになるのだろうか。
「きみはあまり笑うようにはみえないね。笑うの苦手かい?」
「悪いか」
「良くはないね。別の世界の僕がぶっきらぼうだと思うと、なんだか自分の評価も下がっている感じがする」
「うるせえ。というか、言葉話せるんじゃあないか。さっきまでのはなんだったんだ?」
「逆さ文章だよ。逆から読むと、理解できるあれ」
「……え、なに。お前。逆さ文章を即興でやってのけたのか?」
「うん。なに、簡単なことだよ。少し練習したら誰でもできるようになる」
「…………」
練習したら出来るものなのだろうか。いや、出来るんだろうけど、かなり練習しないといけないだろうし、即興で、しかもあれだけの長さをするとなると、元々の地頭の良さが必要だろう。少なくとも、僕にはできない。
「お前、賢いんだな」
「きみよりかはね」
「今話し始めたばかりだろ」
「匂いで分かる」
彼女は自分の鼻を指さしてくすりと笑った。さすがに嘘だと思いたい。嘘だよな?
「そこで冗談だと理解できていないあたりがバカっぽい」
指摘されてしまった。彼女はにまっと性格悪く笑っていた。
かあっ、と顔が赤くなったのを感じる。しかし、言い返したところでまたなにか上手く返されそうな気がして黙ることにした。
「で、なんで逆さ文章なんて面倒なことをしたんだ? 初めから普通に話したら良かっただろう?」
「それじゃあ面白くないかなって。えへっ」
「えへっ。じゃあねえよ」
頬に指を当てて首を傾げる彼女に、思わずツッコミを入れてしまう。
どうやら彼女は僕と真反対の性格とみて間違いないだろう。
大多数の大勢になんだかんだ言って好かれるタイプで、僕はあんまり好きじゃあないタイプ。
「それで」
僕は言う。
「お前、さっき『可能性の世界』って言ってたよな?」
「言ってたよ」
「つまりは並行世界」
「そう。どうやら並行世界ってマンションみたいに縦に連なっているみたいだね。この状況からすると」
「信じられない」
「じゃあ、こっちの世界の外の光景でも見てみる? 多分、殆ど同じ光景が広がっていると思うよ?」
そう言うと、彼女の姿が消えた。どうやら箱かなにかの上に乗ってこの空間を覗き込んでいたらしい。
まあ、ここから見える角度から考えるに彼女側の空間はドアの上にあるようだし、足場が必要になるか。
彼女は部屋のカーテンを開いた。そこから見えたのは――僕の部屋から見える景色と、なんら変わらない景色だった。
「H県H市朝西区〇〇三丁目×‐××‐△△」
「え?」
「ここの住所。多分、同じでしょう?」
同じだった。寸分違わず。
どうやら本当に、並行世界と繋がってしまったようだった。
***
「へい、腐れ縁」
「なんだよ、幼稚園の頃からの付き合い」
「なんか最近、あんたの部屋から女の子の声がするんだけど、気のせい?」
「なんかいま、僕の部屋が盗聴されている可能性が浮上したんだけど、気のせい?」
「盗聴はしていない。盗み聞きはしている」
「漢字が違うだけじゃあねえか」
「今もなんか、女の子の声が聞こえる」
「待て、今僕はまだ学校にいるんだけど」
「補修?」
「赤点補修」
「それで、その子は誰? もしかして彼女が出来たとかうわあああああああん、先を越されたあああああ!」
「目指せ御局様」
電話が切られた。
後で謝っておこうと思う。
***
「さきに起きた謎の地震。あれは地面が揺れたわけでも、地球が揺れたわけでも、宇宙が揺れたわけでもない。『世界』という概念が揺れたのだ。ふうん、へえ。こっちの世界はかなり正解に近づいているみたいだね」
学校が終わって帰ってみたら、部屋に彼女がいた。
ベッドの上に寝そべって、新聞を読んでふんふんと頷いている。僕に新聞を読む趣味はない。だから彼女はこの部屋だけではなく、家の中を歩き回って新聞を取ったりしていたということになる。
並行世界でも我が物顔で歩き回れる彼女、ありえねー。
「おい。どうしてお前がこっちにいるんだよ」
「どうしてって、そこの空間を通ったからに決まってるじゃあないか」
扉を後ろ手で閉じる。彼女の姿を誰かに見られるわけにもいかなかったからだ。
彼女は僕の姿を見ると新聞を畳んでベッドの上であぐらを組んだ。今日の彼女は短めのズボンを履いている。
「どうやってここに来たかは聞いてない。どうしてここにいるのかを聞いてるんだよ。あとそこは僕のベッドだ。勝手に座るな」
「きみのベッドということはつまり、僕のベッドでもあるわけだろう?」
「あるわけないだろう?」
「いいじゃあないか。今日は女の子の匂いがこびりついたベッドで寝れるんだよ。フローラルだよ?」
「どうしてもお前はそっち系の話に持っていきたいんだな」
「そっち系の話は苦手かい?」
「少なくとも好きじゃあないな」
「僕は大好きだ」
「知ってた」
「猥談といえばそう言えば、きみには彼女がいるのかい?」
「猥談と彼女を繋げるな。思考が明らかにオッサンだぞ」
「女子高校生とオッサンは思考が似通ってしまうものなのさ」
「はっ。つまりオッサンが制服を着たら女子高生になれる可能性も?」
「ないよイメージさせないでよ、うわあ汚物だあ、環境破壊兵器だあ、見ただけで心が死んでしまうぅ!」
じたんばたんと彼女はベッドの上で見悶えている。どうやら制服を着たオッサンを想像してしまったらしい。
バカめ。考えてしまったお前が悪いのだ。こういうのはな、考える前に一旦思考をストップさせるのさ。『制服を着たオッサン』という文章であり文字であり、それ以上でも以下でもないと考えるのさ。
彼女は忌々しげに僕を睨んでいる。若干顔が青くて、目尻に涙が浮かんでいる。どれだけ気持ち悪いモノを想像したのだろうか。ちょっと気にな――おっと、いけない。考えるな。考えるな。
「うぅ……あ」
と。彼女は急に呻くのをやめた。まるで目の前を飛んでいる蚊を追いかけるがごとく、暫く視線が動き回る。
どうしたのだろうかと様子を見ていたら、にまぁ。と彼女は笑った。あれは悪いことを考えているときの表情だ。
すっと顔をよせて、耳元でささやく。
蕩けるような囁き。
「薄くなった頭髪……脂ぎった肌……汗で体にべっとりとひっついた服……スカートから溢れる濃いすね毛が生えた太い脚……薄汚い厚い唇……脂肪を溜め込んだ太い胴……」
「うわあ、うわあ、うわあ、うわあ、うわあ」
想像してしまった。
オッサンというか、汚っさんのセーラー服姿を想像してしまった。
うふん。と腰を捻って、しなをつくっているところとかが最高に気持ち悪い。
僕の勝手な想像で、そのおじさんは存在しないのだけれども、それでも充分に破壊力がある。オロロロロロロロ、と胃の中の内容物を吐きだしたくなる。
ぞわ。ぞわわ。と鳥肌たつ全身を抱きかかえるようにして、僕は床の上で悶絶する。この世には存在しなくてもいい存在はあるのだと実感した。
彼女の方を見てみると、腹を抱えてベッドの上で悶絶していた。ああ、なるほど。胃が気持ち悪いのか。腹が気持ち悪いのか。そうだよな、そうだよな。好意的に解釈しておいてやろう。顔がどう見てもゲラゲラ笑っているけど、それは気のせいだろう。
「あ、あれだね。くくっ、僕からすればふふっ、オッサンがセーラー服を着て短いスカートを履くのが普通なけけけっ、並行世界がないことを祈るばかりだよあーははははははははははははっ!」
足をバタバタ動かしながら彼女はひたすら笑う。
少ししてから満足したのか、「あー」と声を漏らして起き上がった。
「それで、なんの話をしていたんだっけ?」
「どうしてお前がこっちにいるのかって話」
「ああ。退屈だから、きみと僕の間にどれだけの差異があるのかを調べてたんだよ。例えばベッドの下にきみはエロ本を入れてないけど、僕は入れている」
「普通逆だと思うんだけどなあ」
「ならきみもベッドの下に入れるんだね。人に探られないように、パソコンの中にデータ保存しておかないで」
「ロックかけてたはずなんだけどなあ!?」
「パスワード一緒だったよ。そこは変わらなかった」
にまりと彼女は笑う。
どうしてそこは一緒だったのか。あとで変えておかないと。
「あと彼女はいないようだね。僕はいる」
「悪かったな――」
つまりどうやら自慢をしにきたらしい。ようやくそれに気づいた僕はちょっと性格悪く言い返そうとして、違和感を覚えた。どう言ったらいいのか分からなかったから、その違和感をそのまま口にする。
「――彼女?」
彼女は笑顔を崩さない。
「そうだよ。彼女。女の子と付き合ってる。百合百合してるぜぇ。レズレズしてるぜぇ。女の子が好きだという部分も、きみと僕は、同じらしい」
「いや。同性が好きだという部分で違うと思う」
***
「ねえ……」
「なんだいなんだい、深刻そうな表情で。可愛い」
「あう……あの、最近あなたの部屋から男の子の声がする気がするんだけど」
「ん? ああ。大丈夫、あれは僕だ。僕の声」
「男の声も出せるの?」
「野郎と、もとい、やろうと思えば」
「洋画(吹き替え版)に出てくる屈強なハゲ軍人みたいな声だ……でも、私が聞いたのは、もっと情けない、まるで金曜夜に放送しているアニメの主人公みたいな声だった」
「バカっぽくて運動ができなさそうで情けない声か。間違ってないね。まあ、安心して。やましいことはないから。ああ、そろそろ罠にかかるころだろうから、戻るとするよ。僕は嘘をつかないって知ってるだろう?」
「それが嘘だってことは分かる……」
***
結局、彼女は一時間もしないうちに帰っていった。
本当に僕と自分の差異を確認しに来ただけらしい。いやはや全く、繋がっているからって、別の並行世界に侵入しようなんていう考えが末恐ろしい。
入ったときにこの空間が閉じてしまったら。あちらの空気とこちらの空気は構成要素が違って呼吸ができなくなるかもしれない。別の並行世界で誰かに会ってしまったらどう説明したものか。そもそも同じ世界に二人いても大丈夫なのか。
僕ならそういう疑問がふつふつと湧いてきて、そんな危なっかしいことは絶対にできない。
まあ、そこら辺も僕と彼女の差異というものなのだろう。
そして、僕は安全が確保されていると分かれば普通に乗り込める性格である。
「よっと」
空間から飛び降りる。やはり彼女側の空間は少し高めに設定されているようで、ちょっとばかりの浮遊感の後、着地。
途端に花束を顔面に押しつけたような匂いがした。女子の部屋の匂いだ。
他人の家の、他人の匂い。
それはあんまりしなかった。
実際、この部屋は別の可能性の世界にある、僕の部屋で、僕の家なのだ。
他人ではない。でも、自分の家と言い切ることはできない。
だから、妙な疎外感はあるし安心感もある。そんなに仲良くない実家暮らしみたいな感じだろうか。多分違う。
背中にある部屋の扉は開こうとは思えなかった。開いてはいけないと思った。
僕が知って良い並行世界の情報はこの部屋までだ。それ以上は知らない方がいい。そう思った。
部屋の中を見回して、彼女がいないことを再確認して、パソコンに向かう。
彼女は、パスワードは同じだと言っていた。ならば、僕も彼女のパソコンを開くことができるということだろう。
あいつだって僕のパソコンの中身を見たんだ。僕だってあいつのパソコンの中身を見ても文句は言われないだろう。
パスワードを入力する。「●●●●●●●●」。やっぱり同じパスワードだった。デスクトップ画面は、僕と一緒でアイコンが取っ散らかっていない。
違う点は、僕はデフォルトで設定されていたデスクトップ画面にしているのだけれども、彼女は自分でつくった画像を登録しているようだということ。
真っ黒な背景に、白い文字。
「後ろ後ろ。後ろ見てって」
と書いてあった。
見た。
後ろの壁には『きみのパソコン、幼馴染モノばっかだったけど、どんだけ幼馴染が好きなのさw』なんて書いてあった。
こっちでも笑いの表現で「w」が使われるらしい。
「あっはー! 引っかかった引っかかったぁ!」
口元を引くつかせると、ベッドの下から彼女がずるりと出てきた。満面の笑みだった。もう楽しくて仕方ねえなって感じだった。
対して僕はがっくりと肩を落とす。またしてもやられた。
「おいおい、人のパソコンを勝手に覗くなよ。同じ僕とはいえ、違う世界の僕なんだぜ? プライバシーというものがあるだろう?」
「それは正論だけど、お前にだけは言われたくねえなあ」
「それは私も思う」
「思うんだ」
「だから今回のことは水に流そう。ついでに私の所業も水に流そう」
「あ、お前。それはズルいぞ」
「ズルくないズルくない。むしろこの状態で私の罪だけ問おうとしているきみの方がズルい」
「ぬぐっ」
「ま。きみがこの世界に来た時点で負けだってことさ。どうする? せっかくだから街の風景とか見てくる? それとも、あの空間が閉じるのが恐いから、さっさと帰る?」
「帰る」
「あらま。ついでに母さんとかも見ていけばいいのに」
「知らない方がいいと僕は考えてるから、いい」
「きみにしては、賢い判断だ」
「ともかく。僕は帰るよ。もう勝手に僕の部屋を漁るなよ。僕もお前のプライバシーには考慮するから。あの地震――じゃないな。なんだろうな、世界が震えているのだから、世界震か? あれがまた起きても――」
困るしな。と。
言おうとしたその時だった。
ぐらぐらぐら。
ぐらぐらぐら。
また、世界が揺れ始めた。
「おっと」
「もしかして、またあの地震か?」
「かもね。ほら、空間を見てみてよ」
彼女は空間を指さした。見てみると、空間の先にある僕の部屋も揺れていて、空間の枠はぎちぎちと悲鳴をあげているようにも見えた。
空間は今にも閉じてしまいそうだった。それに気づいた僕は、すぐに走りだして、扉の前に置いてあった足場代わりだろう箱の上に載って、空間に飛び込んだ。
やはり、僕の部屋も揺れているようだった。
ともすると、この地震は世界震で間違いないようだった。
なら、この空間はどうなってしまうのだろうか。もっと広がるのだろうか。それとも、閉じてしまうのだろうか。
空間の方を見てみると、彼女も同じように空間を覗き込んでいた。
ひらひらと手を振っている。
どうやら彼女の中では――僕より賢しい彼女の中では、この空間は閉じる可能性が高いとされているようだった。
「だって、この空間は異常だろう? 普通、あってはならないものなんだ。大きくなって増えるんじゃあなくて、小さくなって無くなるべきものなんだよ」
さらりと別れを受け入れているようだった。
僕だって別に、涙ながらの感動的な別れがあるとは思ってもいないけれども、しかし淡泊な別れというのも、これはこれで虚しいものだな。
「それじゃあ、お別れだね。この数週間、思いの外楽しかったことだけは伝えておくよ」
「まあ、僕もそれなりに楽しかったことだけは宣言しておくよ」
「最後まで見れないというのは口惜しいばかりだけど仕方ない。それじゃあ、告白頑張ってくれたまえ」
「……ふえ?」
良い笑顔で言ってきやがった。突飛なものだったものだから、僕はしばし硬直。彼女は首を傾げる。
「あれ、きみ。隣の幼馴染が好きなのだろう? 僕と同じように、同じ女の子が好きなのだろう?」
「……いつから気づいてた?」
「隠してるデータの殆どが幼馴染モノだったことと、メガネだったこと。それと、僕の彼女も幼馴染だってこと。隣の子だろう? 同じ同じー」
「…………」
開いた口が塞がらない。
どうやら彼女が百合百合していてレズレズしている相手は、僕の好きな相手だったらしい。
うわあ、うわあ。
「なんか嫌だ!」
「そんなこと言うなよ。せっかく情報をあげようと思ったのに。きみがいない間に、きみの世界の幼馴染に会ったんだけどね」
「会ってんじゃあねえよ。きみにしては、賢い判断だとか偉そうなことを言ってた癖にお前は会ってんじゃあねえかよ」
「僕は別に、きみにしては賢い。と言っただけで、全般的に見て賢い判断とは言ってないよ。会ったところで、別に問題はないよ。皆自分のことに忙しいんだ。僕の素性なんて気にしないよ。この地震が、地震でないことに対して、さほど興味を抱いていないようにね」
それで分かったけど。と彼女は続ける。
その間も世界震は続く。前回と変わらず、長い揺れだ。
これが前にもあった揺れと同じだと分かるやつは、一体どれだけいるのだろう。
「僕の世界の彼女が内向的で、そっちの世界の彼女は外向的。という点を除けば、大体は同じだった」
「内向的なあいつとか一回見てみたいな」
「穴が塞がらなかったら、見に行ってみなよ。おどおどしてるから、小動物的に可愛いから。まあ、そっちの世界のわんこみたいな彼女も可愛かったけど」
「分かるか?」
「分かるさ。もう、彼女という時点で可愛らしいし。もう抱きしめたい気分だった。まあ、それはともかく、同じっていうことは、つまり、彼女は僕のことが好きだということだ。脈ありだよ」
「うえっ」
「告白しなよ。勝ち確状態に持ち込んであげたんだからさ。ここで逃げだしたら、男じゃないよ」
「…………」
「ついでにもう一つ情報だ。彼女はうなじを指でつつつーと撫でると猫みたいな声を漏らして、力がでなくなるよ」
「その情報をどう活用しろと!?」
思いっきり叫ぶと、世界震は終わり、いつの間にか空間もなくなっていた。
扉の位置は十五センチもとに戻っている。元通りだ。
「うわぁ、ビックリしたようもう!!」
その扉を勢いよく開けて、幼馴染が僕の部屋に入ってきた。さっきまで扉の下の空間に向けて喋っていた僕は、今扉の前に蹲っている状態になるわけで――勢いよく入ってきた幼馴染が僕がどこにいるのか気づいたのは、僕をドアで殴った後、僕の脚を踏んづけてコケたときだった。
「ぐおおおぉ……」
「いったあぁ……」
頭と足をおさえて蹲る僕と、膝を抱えて蹲る幼馴染。
バカがアホに引っかかって両方が被害を受けているマヌケな光景だった。
「なんてところに蹲ってるのさ!?」
「なんの了承もなしにドアを思いっきり開けて飛び込んでくるお前が悪い」
「おばさんには了解を得たよ?」
「僕には了承なしですが?」
「いつも暇だし、部屋にいるでしょう。だからいいかなって」
「事実なだけに反論が難しい」
蹲ったままでの会話である。
中々マヌケっぽい。でも楽しい。
彼女のうなじが目の前にあった。さっきの、別の世界の僕との会話を思いだす。
「それで、なんの用だよ」
「ん。用があるのはそっちじゃあないの?」
「は?」
僕は別に、用はないのだけれども。
幼馴染は不思議そうに首を傾げる。
「さっき地震が起きる前にさ、知らない人が来たんだよ。あんたと雰囲気が似ている感じの女の子。あんたの親戚? その子がね、あんたが私に用事があるって言うから来たんだけど。なんか真剣そうな表情してたって」
「なんてことをしてくれてんだあいつは」
「あと、帰り際にうなじをつつって舐められた」
「なんてことをしてくれてんだあいつは!」
「ねえ、あの子なに。どういう子なの? というか、用事ってなに。なんかあの子が言うにはこくは――」
僕は目の前にあるうなじをつつっと撫でた。
「うひゃう!?」
幼馴染は体をのけぞらせて、猫みたいな声をあげた。
可愛い。
うなじを手で覆い隠して僕の方を見た。その目は涙で潤んでいる。
「なにすんのさ!」
「いや、悪い悪い。ちょっと試してみたくなって」
どうやらあいつの情報は間違っていないらしい。
なら、もう一つの情報も間違ってはいないだろう。
そう思うと緊張がはしる。
目の前にいる幼馴染が、好きな子が、僕のことを好きだというのだから。
言い淀む。なにを言ったらいいのか分からなくなる。
しかしここで告白しなかったら、どこで告白をしろというのだ。別の世界の自分がおぜん立てした告白の舞台だ。これを、無下にするわけにもいかない。
「……あ、あのさ」
「…………」
「用事って言うのはさ、その」
「…………」
「告白っていうか、な。僕さお前のことが……?」
反応がなさすぎる。
奇妙に思った僕は、俯いていた顔をあげた。
幼馴染は斜め上を見上げて呆然としていた。ぽかーんとしている。
なんだろうか。と僕は彼女の視線の先を見てみる。
彼女の視線はドアの上の方に向けられていた。そこには十五センチぐらいの空間が開いていた。
前回は下に十五センチズレていて。今回は上に十五センチズレていたらしい。
一階二階があるのなら、三階があったっていいだろう。
空間からは、僕と幼馴染にそっくりな顔の大人が、僕らを覗き込んでいた。
世界が十五センチズレたので 空伏空人 @karabushi
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