おひいさまと消えた味(4)


 お姫さまの《お料理修行》は、その後も続けられました。


 回数が多くなっては家のものに不審がられてしまうでしょうから、そう頻繁に行うわけにも参りませんでしたが、週に一度程度の割合で神田の外れへと通っていたのでございます。


 二度目に行った時から既に、お姫さまはわたくしが何を申し上げるまでもなくご飯を炊くことができるようになり、苦手とされていたおにぎりも、何度と通っている内にずいぶんと整った形のものができあがるようになっておりました。


 できあがったものは、最初の日と同じように近隣の子供たちに食べてもらうことが多く、すっかり子供たちとは仲良くなってしまいました。


 なんと、お姫さまは子供たちから《おにぎりのおねえさん》などと呼ばれるようになってしまったのでございます。

 仮にも男爵令嬢ともあろうお方が、そのような呼ばれ方を甘受してよいものかとも思うのですが、当のお姫さまがむしろ誇らしげにさえ思っているご様子なので、わたくしから何かを言い出せるわけもございません。


 お姫さまの方でも、子供たちのことをずいぶんとお気にかけるようになったご様子で、ある日、また五位さまの《別荘》へと向かう電車の中でこのようなことを言われたのでございます。


「ねえ、お由紀。香の物は作れないかしら?」


 わたくしは突然のお言葉に驚き、「お香々でございますか?」とただ繰り返すだけの言葉しかお返しできませんでした。


「そろそろ別の料理も習いたいと思っていたところなのだけれど、あまり大仰なものはまだ無理かもしれないし、お料理らしいお料理にしてしまうと今までのように子供たち全員で分けるのは難しいでしょう?」


「それで、お香々こうこでございますか」


「ええ。香の物なら細かく分けられるし、子供たちのお腹の負担にもならないと思うのよ。……やっぱり、作るのはそれなりに難しいのかしら。例えば、うちのお膳に出てくるようなものとか」


「お膳に上がっているものは糠漬けでございますから、糠床さえ用意できれば、あとは漬けるだけの簡単なものでございますが……ですが、やはり難しいと思われますよ」


「それは、その糠床を用意するのがということ? お由紀に手伝ってもらっても、今のわたしには無理かしら」


「ああ、いえ。糠床も作ること自体は簡単でございます。難しいと申し上げたのは、手間のことです。糠床は作ってから漬けられるようになるまで二週間ほど時間が必要ですし、それまでにも毎日一度は糠をかき混ぜないとすぐに悪くなってしまいます。それほどのお時間は作れませんでしょう?」


 わたくしが申し上げると、お姫さまは「そうね……」と呟き考え込まれてしまいました。そして、しばらくの後に何かにお気づきになったご様子で、はっとわたくしの顔をご覧になったのですが、すぐに表情を暗くしてまた押し黙ってしまわれたのでございます。


「何か思いつかれたのですか? お由紀にお手伝いできることでしたら……」


「いえ、なんでもないわ。やっぱり香の物は難しそうね。何かいい手段を思いつくまでは保留にしておきましょう」


 お姫さまは、口に出してはそう仰りましたが、何かお心を秘されておられるのは、わたくしから見ても疑いようのないことでございました。


 その後、いつものように萬世橋で下車した後に、わたくしはお姫さまにお断りして、一軒のお店に寄らせていただきました。


 購入したものを腕に抱えお店から出たわたくしを見て、お姫さまが「それは?」とお訊ねになります。


「もちろん糠でございますよ。糠漬けをお作りになるのならこれがなくては始まりませんもの」


 わたくしは極力なんてことのないように、当然のことを当然のように言う口調で申し上げましたが、お姫さまは「で、でも……」と口籠もってしまわれました。


「お姫さまが学校でお勉強なさっている間、わたくしの体はあいております。糠をかき混ぜに来る程度の時間はあいておりますよ」


「い――」


 お姫さまは何かを口にしかけ、すぐにそれを飲み込んでしまわれました。


 その言葉が「いけない」だったのか「いやだ」なのかは分かりかねますが、咄嗟に口にでかかったのは否定の言葉だったのではないでしょうか。

 ですが、それを最後まで言い切ることはなく、しばらくの逡巡の後にわたくしにお訊ねになりました。


「本当に、いいの?」


「はい、構いませんよ。学校に居させていただいたところで供待ち部屋で無為な時間を過ごすだけですもの。その間にお姫さまのお力になれるのなら、お由紀としても嬉しゅうございます」


 迷いもなくわたくしがそう申し上げると、お姫さまは「そう……」と呟かれ、また黙り考え込んでしまわれました。

 そして、その後にお姫さまのお顔に浮かんだのは、自嘲とでもいうような苦笑とも冷笑ともつかない笑みでございました。


「駄目ね、わたしは。こういう時は真っ先にお礼の言葉を言うべきなのに、それがすぐには浮かんでこなかったわ。ごめんなさいね、お由紀。でも、ありがとう」


「はい。恐れ入ります」


 お姫さまは、いささかお考え違えをしているのではございませんでしょうか。


 自分が《駄目》であると認めることができ、謝ることのできるお方が真に駄目な人物とはわたくしにはとても思えません。

 そして、そういうお姫さまだからこそ、わたくしが自ら進んでお手伝いを申し上げることができるのでございます。

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