おひいさまと消えた味(6)

「そ、そんな……!」


 ことが起きてしまったのは、それから二週間ほど後のことでございました。


 本来なら、その日はいよいよあかねちゃんたちにお姫さまのお香々をご馳走する日だったのでございます。


 前日に捨て漬けの野菜くずではなく胡瓜と蕪を漬けて、一日経た今日、出来上がる……予定でございました。


「ど、どうして? どこに……!?」


 慌てふためき周囲を見回されるお姫さまとは対照的に、わたくしはぽかんとした表情でそこを見ていることしかできませんでした。


 そこ――お台所の片隅の、日の当たりづらい場所。糠の小桶を置いてある……置いてあったはずの場所。


 今、そこに小桶はございません。昨日、確かにお姫さまのお手によって胡瓜と蕪が漬けられた糠が、桶ごとなくなってしまっていたのです。


「駄目だわ。どこにも見当たらない……」


 わたくしが呆然としている間にも、家の中を探し回っておられたお姫さまでございましたが、残念ながらそれは徒労に終わってしまったようでございます。


 そもそもこの家は、さほど大きなわけではなく、物が多いわけでもございません。わざわざ探し回るまでもなく、家の中に糠の小桶がないことは一目瞭然でございました。


 お姫さまがお台所へ戻ってきた頃に、わたくしもようやく自失から立ち直れたものの、何かを言えるわけでもなく、ただ無言でお姫さまと顔を見合わせることしかできなかったのでございます。


「まさかとは思うのだけれど、盗まれた……のかしら?」


 お姫さまはそう仰りつつも、自分でも納得のいかない様子で眉を寄せておられます。当然、わたくしも首をかしげざるを得ませんでした。


「糠漬けの桶が――桶だけが、でございますか?」


 もともと物が多くございませんから分かりづらくはありますが、見渡してみたところ、家の中の様子に変わったようなところ――何かを盗られた様子――はございませんでした。


 確かに、五位さまが戸締りなどしたことがないと仰っていたために、わたくしたちも家の戸締りに気を遣うことはなく、その気になれば誰でも家に入り込むことができ、ものを盗っていくこともできるでしょう。


 ですが、糠の桶だけというのが解せません。

 ものの少ない家でございますが、五位さまが寝泊りする時に使っておられると思しきお布団や数枚の着物など、質屋に持っていけばいくらかのお金にはなるであろうものは残されたままなのです。

 もし泥棒が入ったのだとしたら、糠になどは目もくれず、まずそちらを持っていくはずです。


「じゃあ……あの、家がなくて路上で生活する人たちがいるでしょう? ルンペンというのだったかしら。そういう人が、無人の家だと思って入り込んだときに食べ物を見つけたからつい持っていってしまったとか……」


「そういう場合でも、漬けてあるお野菜はともかく、桶ごと持っていくことはないように思われますが……。それに、もしそうだとしたら、まずお米を持って行かれるのではないでしょうか?」


 思い立ち確認してみましたが、米の入ったお櫃は普段と同じ場所にあり、中のお米も減っている様子はございません。そもそも、そういった方たちが彷徨い歩き、目に付いた家に入り込んでしまうというのも違和感を覚えてしまいます。


「だとすると……」


 言いかけ、口籠ってしまわれたお姫さまのお顔は、これまでになく暗く沈みこんでおられました。


「わたしのしていることが気に入らない人たちのしたことなのかしら……」


 突然そのようなことを仰られ、わたくしは驚きと唖然の入り混じった心持ちとなってしまいました。

 お姫さまがしていること、とはお料理のことを仰っているのでしょうか。それが気に入らない人とはつまり、香月の家の人たちになるのでしょうか……。


「ああ、違うわ。多分、お由紀が考えているようなことではないの」


 もしやすると、わたくしは考えが顔に出やすい性質なのかもしれません。お姫さまはわたくしの考えを感じ取ったように首を振られました。


「わたしの目的は料理を作ることだけれど、できあがったものを子供たちにあげているでしょう? それを、施しをしていると受け取っている人がいるのではないかしら。そういったおためごかしの慈善行為のようなものを嫌う人がいてもおかしくはないわ」


「まさか! ……いえ、たとえそうだとしても、なぜものを盗むことにつながるのです」


「抗議……かしらね。そこまではっきりとした目的ではなくて、単なる嫌がらせなのかもしれないわ。糠漬けの桶だけ盗んでいくなんて、嫌がらせとしか思えないもの」


「そんな……何かの偶然か、さもなくば近所の子供たちのいたずらでございますよ」


 暗く沈みつつあるお姫さまのお考えを、わたくしは否定しようといたしましたが、それも力無い笑みと共に一蹴されてしまいました。


「偶然で糠の桶だけがなくなる状況なんてあるとは思えないし、子供たちのいたずらにしては意志が明確すぎるわ。多くのものの中からたったの一つだけを盗っているのは、はっきりとした意図があってのこととしか思えないもの。盗っていった人なりの理屈が存在しているのよ。

 なら、その理屈は何かしら。糠の桶を盗ったことで得られる利益は何? お金の面にしろ、それが食べ物だという点にしろ、より価値のあるものが残されているのだから、食べ物としての糠漬け自体が欲しかったという可能性は低いと思うの。そうであるなら、糠漬けを盗って行ったという行為自体に――更に言うなら、糠漬けがないということ自体に意味があるのだわ。

 糠漬けがなくなったことによる変化といえば――」


 お姫さまはそこで一度言葉を切り、重苦しいため息と共に次の言葉を口になさいました。


「わたしが子供たちに糠漬けをあげられなくなる――施しをできなくなる、ということね。まさに、それを狙った行為なのではないのかしら……」


「お考えすぎでございます」


 お姫さまを励ますためだけの言葉というわけでもなく、やはりお姫さまのお言葉は、いささか穿ちすぎのような気がいたします。ですが、沈み込んだお姫さまのお心はそれで晴れることはなかったのでございます。


「確かに、考えすぎかもしれないわ。でも、考えすぎでない、と考える人もいるかもしれない。世間知らずの小娘が自己満足の慈善行為をしていい気になっているのではないか、と思われても仕方がないのではないかしら……」


 ああ……。ようやく分かりました。


 お姫さまが想定している人物は――お姫さまの行為を批判している人物は、他ならぬお姫さま自身だったのでございます。

 ご自身で自分のしていることに疑問を持ってしまったからこそ、このようにご自分を痛めつけるお言葉が出てしまうのでございましょう。


 ですが、だからこそわたくしにはお姫さまにおかけする言葉が見当たりませんでした。考えすぎだ、気のせいだと何度口にしたところで、明確にそれを否定する事実でも出てこぬ限り、お姫さまのお心はご自分をお許しにはならないと思えるのです。


「ごめんなさい、お由紀。せっかくだけれど、今日はもう帰りましょう。少し一人になって考えたいの」


 情けないことにわたくしにできたことといえば、ただお姫さまのお言葉に従うだけのことだったのでございました。

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