おひいさまと消えた味(7)
それからしばらく、お姫さまは落ち込まれたまま日々を過ごしておられました。
すっかりと口数が少なくなり、お部屋にこもってはなにやら難しい本を読んでおられます。
もちろん、神田のはずれにある五位さまの《別荘》へ足を向けることはただの一度もございませんでした。
どうにかして差し上げたいと思いつつも、わたくしにできることなど高が知れております。
せめて糠の桶がなくなった理由でも分かればと思い、考えもし、お姫さまが学校に行かれている時間を利用して一度は神田まで足を向けてもみましたが、手がかりのようなものさえ見つけることはできません。
その折にあかねちゃんに出会い、「おにぎりのお姉ちゃんは来ないの?」と残念そうに問われた時は、思わず答えに窮してしまいました。
あるいは、もう二度と来ないかもしれない。
などと真実を告げることもできず、曖昧な答えでお茶を濁し、まだ何か言いたいことがある風にも見えたあかねちゃんを置いて、逃げるように帰ってしまったのでございます。
下手の考え休むに似たりと申すのでしょうか、わたくし一人で考え込んでいても答えが出せるとは思えません。
ですが、話が話なだけにどなたかに相談できることでもなく。
できるとすれば、唯一――。
「……あの、五位さま。もしよろしければ、ひとつ相談に乗っていただきたいことがございますが、構いませんでしょうか」
失礼とは承知しつつも、お屋敷で五位さまをお見かけした日、わたくしは居ても立ってもいられず、話しかけてしまっておりました。
突然のことで少し驚かれた様子の五位さまでございましたが、すぐに微笑まれると、
「お由紀さんに頼られるとは嬉しいですね。いいですよ、時間だけはたっぷりと余っている身ですから」
そう、わたくしにとっても嬉しいことを仰っていただきました。
場所を五位さまのお部屋に移し、「さて?」と五位さまが問われたのを見て、わたくしは今回のことのあらましをあらかた話させていただきました。
わたくしがすべてを話し終えると、五位さまは「ふうん」と感情のこもらぬ嘆息を漏らした後で、
「まあ、お嬢さんの言っていることにも一理あるとは思いますがね」
と、なんとも無体な(そう申すのはわたくしの身勝手だと分かってはおりますが)お言葉を口にされたのでございます。
「身分のある人間の中には、何を思ったのか突然、慈善活動に力を入れ始める人物は少なくありません。ただ、その評判となると、あまり芳しいものとは言えないでしょうね。同じ身分のあるものからは冷笑を持って受け止められ、施しを受ける側からは『余計なこと』だと疎まれるといった具合にね。
これは慈善をする方の心がけのせいもあるのでしょう。お坊ちゃんお嬢さんの気まぐれか、せいぜい体のいい人気取り程度にしか考えていない輩が多すぎる。そうでない人間の真摯な活動がかすんでしまうほどにね。これでは、される方も素直には喜べないと思いますよ。まして、何の苦労も知らず育ってきた人間が、さも苦労を知ったふりをして慈善だ救済だとわめいているのだから、反感を買ってしまうのも無理はない。
そういった意味で、お嬢さんがしていたことに嫌悪感を持って、嫌がらせのひとつもしてやろうと考えた人間がいたとしても奇妙なことだとは思いませんね」
淡々と事実を語る口調でそう仰る五位さまに対して、わたくしは思わず「そんな……」と声をあげておりました。
身勝手なことを承知の上で申し上げれば、やはりわたくしは五位さまにお嬢さまの考えを否定していただきたかったのです。
自分ではそのつもりはなかったのですが、恐れ多くもつい恨みがましい視線で五位さまのことを見てしまっていたようでございます。
「弱ったな。そんなお顔をなさらないでくださいよ」
苦笑を浮かべながらそう仰る五位さまを見て、ようやく自分の無礼に気づいたわたくしが、慌ててお詫びいたしますと、五位さまは闊達に笑ってお応えくださいました。
「まあ、今のは一般論というやつです。お嬢さんの場合は少々特殊な状況だと思いますからね。一般論をそのまま当てはめるのは、難しいかもしれない」
「あの、それは?」
光明が見えたと思い、思わず前のめりになりそうになるわたくしを、五位さまが手で制されました。
「ひとつお訊ねしたいのですが、事件の日――糠の桶がなくなった日からどのくらいの日数が経ちましたか?」
「え? それは、二週間ほどになると思われますが……」
質問の意図が分からぬままに五位さまにお答えすると、五位さまは愉快そうに――あえて申し上げれば、いたずらを思いついた幼子のように――お笑いになったのでございます。
「お由紀さん。もしよかったら、これから神田まで出かけませんか? もちろん、お嬢さんもお誘いして。外出の理由は僕が適当に見繕って、許可をもらっておきますから」
突然の申し出に、わたくしは目を丸くしてしまいました。けれど、五位さまに何かお考えがある様子なのは間違いなく、
「何かお分かりになったのですか?」
そうお訊ねしたのですが、五位さまは意味ありげにお笑いになるだけで、詳しいことは何も仰りません。
ただ一言、
「うん。僕の考えが正しければ、もうそろそろだとは思うのですがね」
やはりわたくしには何のことかさっぱりでございました。
このようなことを申し上げるのも失礼ですが、少し……意地の悪いお言葉です。
結局、わたくしは(そしてお姫さまも)五位さまに押し切られる形で、その日のうちに神田の家まで向かうことになったのでございます。
数刻後、五位さまにお姫さま、わたくしを含めた三名は、銀座から神田へ向かう電車の中へおりました。
銀座の街を見物するという名目で社さんの運転する車で銀座まで来たわたくしたちは、お帰りをお待ちしていると頑なな社さんをどうにか説き伏せて、帰りは市電を使うことにしたのでございます。
もちろんこれは、わたくしたちの目的の場所が銀座ではなかったからのことでございました。
「小父さま? 結局、どういうことなのか教えていただけませんか? 今更あの家に行ってどうしようというのです」
お誘いするときも「そんな気にはなれない」と仰るお姫さまとひと悶着あったのでございますが、渋々といった体でお屋敷を出た後も、その不満は消えてなくなったわけではないようでございました。
ただ、そのお姿は、不平を鳴らし苛立っているというよりは、怯えて足が竦んでいるようにも見えるのでございます。
五位さまはそのようなお姫さまをどこか楽しげに眺めて、
「社会勉強ですよ、お嬢さん。あなたがどれだけ狭い考えの中にいるのかお教えしようと思いましてね」
あまりにもあからさまな挑発の言葉に、わたくしばかりかお姫さままでも鼻白んでしまいましたが、そこはさすがにお気のお強いお姫さまのこと、
「……わかりましたわ。そこまで仰るのなら、もう四の五の申しません。しっかりと教えていただきましょうか」
逆に挑みかかるようなお言葉でしたが、五位さまはどこまでも愉快そうでございます。
「僕の考えを話してしまってもよいのですがね。でも、それだと信じてもらえないかもしれないし、僕自身にも絶対の確信があるわけではないですから。実際に見てもらってからのほうが説明もしやすいでしょう」
「見て? 一体、何を見せていただけるのですの?」
「うん? それはまあ、見てのお楽しみというやつです。ほら、あなたがたが知り合ったという女の子――あかねちゃんでしたか――その子も言っていたそうじゃないですか。『たのしみはとっておくもの』だって」
五位さまの笑い声を背景に、お姫さまが「そんなことまで話したのか」とでもいう風な呆れ返った視線を向けられたものですから、わたくしは恐縮することしかできなかったのでございました。
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