おひいさまと消えた味(8)
五位さまが何を見せたかったのか。
それは、実際に神田のお宅まで行ってみると、わたくしのような鈍い人間にも一目瞭然のことでございました。
「そ、そんな……!」
慌てられるお姫さまと、呆然とそれを眺めるわたくし。
まるで、二週間前の出来事を繰り返しているかのようでございました。違うところがあるとすれば、わたくしとお姫さまの他に五位さまがいらっしゃることと、なにより――。
糠床。
なくなったと――盗られたと思われた糠の小桶が、わたくしたちが置いた場所に確かに存在していることでございました。
「あ……ある。本当に……?」
驚きつつも不安にかられたお姫さまが桶の中を覗かれましたが、そこにはちゃんと糠が詰め込まれておりました。
「ど、どういうことですの、小父さま!」
掴み掛からんばかりにお姫さまが詰め寄られると、五位さま自身でも少し驚いたような表情を浮かべておられました。
「いや、ここまで劇的になるとは僕としても予想外でしたよ」
「ですが、五位さまはこうなることをお感じになっておられたのではないのですか?」
「ええ。まあ、代わりが用意されているのだろうな、とは思っていましたよ。聞いている限りだとそういう人物であるように思えましたからね」
「そういう人物? ごめんなさい、小父さま。できましたら、わたしにも分かりやすいように最初から説明していただけると嬉しいのですけれど」
お姫さまのお言葉は、わたくしもまったくの同感でございました。
お姫さまの少し挑みかかるような視線と、わたくしのおそらくは懇願するような視線とに挟まれ、五位さまは困惑した様子で頭を掻かれておられました。
「いや、確かに劇的になったら面白いとは思っていましたが、実際にそうなってしまうとなんとも気恥ずかしいものですね」
お言葉通り気恥ずかしげになさっておられた五位さまでしたが、二三の咳払いの後に表情を改められ、お言葉を紡がれ始めました。
「最初に、お嬢さんが考えた《慈善行為への抗議》についての問題点を話しましょうか。これは一見、ありえそうな意見に見えますが、今回の一件に関して言えばどうしても奇妙と思わざるを得ない点が存在します。それは、一言で言ってしまえば『子供はそんなことを考えない』ということですね。話を聞く限り、お嬢さんがおにぎりをあげていたのはみな子供で、それもせいぜい十になるかならぬかの年齢でしょう。そんな子供たちから、慈善行為をしているお嬢さんに対して嫌がらせをしてやろうなんて考えは出てきませんよ」
ぽかんとして五位さまのお言葉を聞いていたわたくしたちでございましたが、やがて五位さまのお言葉の意味が理解できますと、お姫さまが猛然と抗議をなさいました。
「そ、そんなことは分かってますわ! なにもわたしだって、子供たちがそのようなことをしているとは思ってません。子供たちから話を聞いた親の誰かが、嫌悪感を抱いてしまったのではないか、と言っているのです」
「その可能性がないとは言わないが、実際にはどうでしょうね? 子供たちからお嬢さんの話を聞いた親が、それを《慈善行為》だと理解するだろうか。おそらくは、作りすぎたおにぎりを分け与えたという言葉を額面通りに受け取るのではないでしょうかね」
「なぜ、そのようなことが言い切れるのです?」
「根拠は下町の社会。コミュニティ性と言ってもいい。このあたりはまだそれほどでもありませんが、もう少し行った下谷の裏町のほうになると、食べ物に関する扱いはすごいものです。食事時に近隣の家に行って、勝手におかずを持ち出すなんてことも珍しくないのですからね。食べ物はみんなで分け合うものだという考えが根強いわけですよ。お嬢さんが子供たちにあげたものが、値の張る菓子だとか衣服だとかそういったものならいざ知らず、手作りの不恰好なおにぎりなわけですからね。慈善と思われるかは疑問です」
「……不恰好は余計です」
ふくれ面でそう仰るお姫さまでございましたが、その声色からは安堵しているような響きも見受けられました。
「一番の問題は、お嬢さんを直接見たことのある大人があまりにも少ないということです。見る人が見れば、お嬢さんが良家の令嬢であることは分かるでしょうが、それが子供たちに理解できるとは思えません。もちろん、自分たちと違っていることは分かるかもしれませんが、その《違い》を明確に他者に説明できたりはしませんよ。つまり、この近辺にお嬢さんのことを《身分の高い人物》だと知っている人間は極めて少ない。慈善活動というやつは、身分のある人間のすることですからね、お嬢さんがそういった身分にあると知らなければ、慈善という考えも出てこないはずですよ。そういった行為を嫌う嫌わない以前の問題ですね」
「分かりましたわ、小父さま」
お姫さまは「降参です」と大きくため息をつかれましたが、そのお顔はむしろ晴れ晴れとしたものでございました。
「わたしの考えが独り相撲であったことは認めます。ですけれど、だとしたらなぜ糠の桶が盗まれたりしたのでしょうか?」
「その点については、お嬢さん自身が半分答えを言っていますよ。
《多くのものの中からたったのひとつだけを盗っているのは、はっきりとした意図があってのこと》《盗っていった人なりの理屈が存在している》《糠漬け自体がほしかったのではなく、糠漬けがないということ自体に意味がある》。
うん、まさに僕も同感ですね。ただ、お嬢さんはそれによってもたらされる結果を《子供たちに糠漬けをあげられない》と解釈したようですが、僕はこう思いました。
《お嬢さんが糠漬けを食べられない》とね」
「あ……」
まるで盲点をつかれたとでもいった風にお姫さまが驚きの声をあげられます。
確かに、言われてみればその方が自然な考え方と言えるのではないでしょうか。
お姫さまのお気持ちはともかくとしても、名目上は《余った》食べ物を子供たちにあげていたのですから、お香々もそのように考えるのが当然と言えば当然でございましょう。
「その考えを進めていくと、糠を盗っていった人物には、お嬢さんが糠漬けを食べると困る理由があったのではないかと仮定することができるわけです。では、その理由とはなんでしょうね? 例えば……糠漬けがまずくて食べられたものではなかったから――とか?」
意地悪く笑って仰る五位さまでしたが、それを受けたお姫さまは、挑発を受けたというよりはできの悪い冗談でも聞かされたように呆れかえっておられました。
「そんな馬鹿馬鹿しい理由はございませんわ。仮に、糠漬けの味が極めて悪く食べるに耐えられないものだったとしても……いいえ、他のどのような理由であろうと、その責任は作ったわたしにあるのですから。それをわたしが食べて、誰かが困る理由などあるわけがございません」
当然のように言うお姫さまに、五位さまはもっともだと言う風に頷かれました。
「まあ、そうなのですがね。ですが、実際に糠床がなくなった事実は事実。それを行った人物が、お嬢さんに糠漬けを食べて欲しくなかったと思っていたのではないかとの仮定は、現状では最も自然な考えであるように思えます。そこで、ひとまずこの仮定も事実として受け止めてみることにしましょうか。とは言っても、お嬢さんの言葉も無視はできません。糠漬けを食べたお嬢さんがどんな事態に陥ろうと、それは作ったお嬢さん自身の責任であって、誰かが困るような類の話ではない。当然と言えば当然ですね」
「……結局、何が仰りたいのです?」
正直、わたくしも五位さまのお話を聞いている内に、頭が混乱して参りましたので、お姫さまがそう仰ってくださったのは、とてもありがたいことでした。
「まあ、慌てないで。これからゆっくりと説明しますから」
ところが、五位さまはにこやかにお笑いになって、そう仰るばかりです。やはり、いささかいじわるに思えてしまいます。
「ある人物は、お嬢さんに糠漬けを食べられたくなかった。食べられると困る事情が存在した。この仮定を一つの前提とし、一方で糠漬けに関してはお嬢さん自身に責任が存在し、誰かが困るような事態にはなり得ないという前提も存在します。相矛盾する二つの前提を整合させるための最も単純な回答と言えば、ある人物に糠漬けに対して責任をとらねばならない事態が発生してしまった、ということになるでしょう。つまり――」
一度お言葉を切った五位さまは、次に出すお言葉を探そうとするようにしばし考え込まれました。その間、ほんの数瞬でございましたでしょうが、わたくしにはそれがずいぶんと長い時間のように思えてなりませんでした。
「つまり、ある人物のせいで糠漬けが食べられない代物になってしまった、ということでしょうかね。自分のせいで糠漬けが食べられなくなってしまった。だから、それをお嬢さんに食べられては困る。食べられなくするために糠漬けを盗んだ。――まあ、僕がここに来るまでに考えていたのはこんなところですか」
語りきった風にお言葉を終えた五位さまでございましたが、わたくしの――おそらくはお姫さまも――混乱は深まるばかりでございました。
「ま、待ってください小父さま。その《ある人物》とは、一体どなたなのです? いえ、それ以前に、どうして糠漬けを食べられない状態などにしてしまったというのです?」
「《ある人物》の特定に関しては、何も難しい話ではないでしょう。そもそも、お嬢さんがここで糠漬けを作っていると知っている人物が少ないのですからね。糠漬けに何かをしようと思うのなら、糠漬けの存在を知らなければならない。僕が聞いた限りでは、明確に糠漬けの存在を知っている人物はたったの二人でしたから」
「まさか……!」
その呟きはお姫さまのものだったのか、それともわたくしのものだったのか、自分でも分かりかねてしまいます。それほどにわたくしは困惑し、なおかつお姫さまと同じ心境でいたのでございます。
五位さまの仰る二人とは、あかねちゃんとそのお母さんに間違いはございません。
ですが……。
「その二人のどちらかが、わたしの作ったお香々に何かをしただなんて、ましてや盗んでしまうなんて、とても信じられません」
わたくしも同感でございます。あかねちゃんはもとより、そのお母さんも親切で善良な方であるように思えるのです。
あるいは、お二人のお人柄を知らなければ、わたくしたちは……少なくともお姫さまは、とうに真相に行き着いていたかもしれません。幾人かが伝え聞いたかもしれない可能性を除けば、糠漬けのことをご存じなのはこの二人だけだったのですから。
それでも、わたくしの中にある印象が、その事実を必死になって否定してしまうのでございます。
けれど、五位さまが仰るところによれば、それこそがわたくしたちの勘違いの元だったのだそうでございます。
「いいですか、お嬢さん。それはね、あなたがこの一件を悪意に発するものだと理解しているからですよ。すべてが善意に端を発すると考えれば、何も難しい話でもない。
そもそも僕はね、糠のことを知っているのはこの二人なのだから、この二人のどちらか、あるいは両者が《犯人》なのだろうという考えから、すべてを結論づけていったんですよ。
話を元に戻しますが、《糠に何かをした》人物と、《糠を盗って行った》人物は別であると考えた方がより自然なんです。そうでなければ、自分で糠漬けを食べられなくしたのに、それがお嬢さんの口に入るのを恐れたことになってしまいますからね。《糠に何かをした》人物は、それによって糠漬けが食べられなくなるなど考えていなかった。しかし、それに気付いた人物が《糠を盗って行った》わけです。
この図式を、あかねちゃんとそのお母さんの二人に当てはめるのならば――」
「……あかねちゃんが糠にいたずらでもしてしまったということですの?」
「いたずらとは少し違うかもしれませんが……まあ、その類のことではないですかね」
そのお言葉を聞いて、わたくしの脳裏によみがえる言葉がございました。
「ごちそう……! あかねちゃんがお姫さまにごちそうすると言っていたあれは……」
わたくしの声に対して、五位さまは微笑みながら頷いてくださいました。なにか、心の奥底を捕まれてしまうような、そんな笑みでございます。
「まさに僕もその点を考えていました。糠漬けの話を聞いたあかねちゃんは、糠の中に漬けておけば、野菜が――食べ物が美味しくなると理解したのではないでしょうか」
またしてもわたくしの頭に思い浮かぶ出来事がございました。それは、お姫さまも同様であられたようでございます。
「まさか、あの泥団子のようなものを糠の中に入れてしまった……!?」
そう。あかねちゃんにしてみれば、お姫さまに《ごちそう》をしたいがための行為だったのでしょうが、それでは糠床も台無しになってしまいます。そして、それをお母さんが知ったとすれば、相当お慌てになったのではないでしょうか。
「その可能性ももちろんあると思います。ただ、いくら子供とはいえ、泥団子が食べられないことくらいは理解しているでしょうから、もらったお菓子とかそういったものであったかもしれませんよ。
けれど、結局は同じことなんです。あかねちゃんはお嬢さんが糠を作っているところを実際に見ている。子供というのは、大人のやることをよく見てその真似をしようとしますから、あかねちゃんもお嬢さんがやったように糠をよくかき混ぜたのでしょうね。おそらくは、遊び回ったままの泥だらけの手で」
それは……確かに同じかもしれません。わたくしはあかねちゃんの姿を、特に泥だらけとなっていた手を思い出し、納得しておりました。それで実際に糠が駄目になってしまったかどうかはともかく、娘のしたことを知ったお母さんが大層お慌てになったであろうことは間違いがないように思えるのです。
「では、糠の桶を盗って……いいえ、持って行ったのは、あかねちゃんのお母さまだったということですか」
誤解と共に、これまでの緊張がすっかりと解けたお姫さまは、まるで魂でも抜け落ちてしまったかのように力無く仰ったのでございました。
「とすると、今ここにある糠はお母さまが……?」
「そうなるでしょうね。彼女としては、娘のしでかしたことの責任を取らねばならない立場にあったわけですから、せめて代わりを用意するというのは頷ける話です。事情がお嬢さんやお由紀さんに伝わらなかったのは……まあ、会うこと自体が少ないので、言う機会がなかったのでしょうかね」
五位さまが仰らなかったお言葉を、わたくしは理解できるような気がいたしました。
あかねちゃんのお母さんは恐れていたのではないでしょうか。
お姫さま――ご身分が高いお方の不興を買ってしまうことを。そのために、つい言いそびれてしまったのではないのでしょうか。
その考えがわたくしの穿ちすぎであるにしろ、お姫さまがもっと違う立場――例えば、あかねちゃんのお家の単なるご近所であるなどでしたら、今とは異なる、もっと単純な出来事で終わっていたように思えるのです。
「情けない話ですわね……」
お姫さまはそのお顔に、たっぷりの自嘲と少しの苦渋をまぜて小さくお笑いになられました。
「独り相撲どころか、身勝手な自分の考えに振り回されて、見たこともない人の悪意のことばかりを考えていたのですから。そのせいで目に見える善意にも気付かなかっただなんて、情けないを通り越して自分でも哀れに思えてしまうほどですわ」
そんなお姫さまを、五位さまは柔らかく微笑んで見ておられます。
「最初に言ったでしょう、社会勉強だと。確かにお嬢さんは失敗したかもしれませんが、今回の件で何かを失ったり壊してしまったりしたわけではないのですからね。ひとつずつ学んでいけばいいだけの話ですよ」
「はい。大変、勉強になりました。恐れ入ります、小父さま」
いつになく神妙なご様子で――と申しあげるのはいささか無礼かと存じますが――素直に、深々と頭をお下げになるお姫さまでございました。
今更わたくしが言うまでもなく、お姫さまは聡いお方です。この度のような失敗を犯すとしても、そこから学び、成長なさってゆかれることは間違いございません。それこそ、わたくしなどには思いも寄らぬほどの早さで。
そのことを頼もしく、誇らしげに思う反面、一抹の寂しさをぬぐい去ることはできそうにございませんでした。
できうることなら、お姫さまの成長をずっと見守っていたいと望むのは、身勝手な――望外の願いなのでございましょうか。
急にわたくしは、お姫さまのお小さい頃が――それこそあかねちゃんほどのお年であった頃がずいぶんと遠き日に思え、往事を懐かしむような心地となってしまいました。
「……あら?」
噂をすれば影。と申すのは、的はずれでございましょうか。
ふと転じたわたくしの視線の先――家の玄関先では、ほんの少し開かれた戸からあかねちゃんが幼い顔を覗かせていたのでございます。
「あら、あかねちゃん。お久しぶりね、いらっしゃい」
同じくその様子に気付いたお姫さまが、あかねちゃんを迎え入れようとなさいます。
しばらく逡巡していたあかねちゃんでしたが、やがて怖ず怖ずと家の中へと入り、怯えさえ見える様子でお姫さまを見上げたのでございました。
そして、その小さな口が開き、こう言ったのでございます。
「あのね、おねえちゃん。あかね、おねえちゃんにあやまらなきゃいけないの……」
〈おひいさまと消えた味――了〉
おひいさまの言うとおり 田代裕彦 @tashiro
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