おひいさまと消えた味(1)


「ご、ごめんなさいっ」


 その言葉が聞こえてきた時、わたくしは一瞬、自分の耳を疑ってしまいました。


 ある新緑の日曜日のことでございます。

 お屋敷で細々とした用事を済ませ、お部屋にいるであろうおひいさまにご用はないかお伺いに参ろうとした時に、そのお声が聞こえて参りました。


 お部屋の中からではございません。首を巡らし声の方向を探りますと、どうやら御膳所から聞こえたようなのでございます。


 なぜお姫さまが御膳所などに、との疑問もございましたが、それ以上にお姫さまのお言葉とその声の響きに驚かされました。

 ここ数年、耳にしたことのないお言葉だったのでございます。


 無論、お姫さまが謝ることがないという意味ではございません。淑女教育の賜物と申しあげるべきなのでしょうか、そのような場合でも慌てず騒がず粛々とご自分の非をお認めになられるのです。


 ところが今のお姫さまのお声の調子といったら、まるで悪戯が見つかった幼子のような慌てふためきようだったのでございます。


 お姫さまのお声を聞き誤ることなどないと思いつつも、その声がまことにお姫さまのものであるか信じがたい心地となってしまいました。


 ですが、ぱたぱたと足音を鳴らして(これもまた、きわめて珍しいことでございます)廊下を駆けてあそばすのは、まぎれもなくお姫さまでございました。


「あの……お、お姫さま?」


 御膳所に視線を向けたまま駆けてあそばしたお姫さまは、正面から近づくわたくしにお気づきになられなかったようで、声をおかけすると「きゃっ」と可愛らしい悲鳴と共にわたくしに向きなおられました。


「あ。申し訳ございません」


 ずいぶんと驚かせてしまったようでございます。

 胸を押さえ息をつくお姫さまに、わたくしが軽く頭を下げると、苦笑に近い微笑みをお浮かべになられます。


「ううん。いいのよ、わたしが勝手に驚いただけですもの」


 そう仰るお姫さまのご様子は普段となんら変わることはなく、どうやらわたくしの登場で日頃の落ち着きを取り戻されたようでございます。


「あの、お姫さま? 御膳所に何かご用でもあそばしましたか?」


 ところがわたくしがそうお訊ねすると、途端にお姫さまは頬を赤らめ顔を強張らせておしまいになられました。


 訊いてはいけないことだったのでございましょうか。立ち入ったことをお訊ねしたと、お姫さまにお詫びしようとわたくしが口を開くよりも早く、


「あ、あのねっ、お由紀ゆき


 いやに真剣な面持ちで――思いつめたとさえ表現してもよいほどの色を両目にたたえて、お姫さまはぐっとわたくしに迫って参られました。


「は、はい。い、いかがあそばしました?」


「あ、あのね……」


 なにか言いづらいことであるのか、お姫さまはそこまで口にしたところでご自身の逡巡を示すかのように、幾たびか視線をさまよわせましたが、しばしの後に決意が固まったと見え、再び正面からわたくしを見据えたのでございます。


「お由紀、あなた……お料理できたわよね?」


「はい?」


 大変失礼なことながら、つい聞き返すような返事となってしまいました。

 それほどわたくしにとっては意外なお言葉だったのでございます。少なくとも、お姫さまがこれほどまでに真剣な面持ちでお訊ねになることとは思えませんでした。


「あの、お料理と仰いましたか?」


 念のためにご確認させていただきましたが、お姫さまは表情を崩そうともせずに「ええ」と短く、ですがはっきりと頷かれました。


「そ、その……お、教えてほしいのよ……」


 恥じ入るように身を縮めてそうお姫さまは仰ります。

 前後の文脈からすればその意図は明らかではございましたが、お恥ずかしながらわたくしはすぐにお姫さまの意図をつかむことができず、それどころかますます混乱してしまいました。


 教える? 何を? ……お料理?


 いくつかの言葉が頭の中をぐるぐると回り、おぼろげながらお姫さまの意図がつかめかけた瞬間、はたとわたくしの頭に閃くものがございました。


「まさかお姫さま、御膳所で……」


 驚きのあまり半ばで途切れてしまった問いでございましたが、お姫さまにはわたくしの申し上げたいことが正確にご理解いただけたようでございます。


「ええ、市原いちはらに……」


 お姫さまのお言葉も途切れておいででしたが、わたくしにもその先に続くお言葉は分かるような気がいたします。


 市原というのは、当家でコックを務めてらっしゃる方のお名前でございます。お姫さまはその市原さんに、今と同じように仰ったのでございましょう。


 つまり、料理を教えてほしい――と。


 それに続く市原さんの反応も、わたくしの想像の内にございました。


「叱られてしまったわ」


 申し訳なさそうに、それでいて困ったようにお姫さまは仰ります。


 やはり。

 と、そう思わざるを得ません。そもそも御膳所自体、ご身分のおありになる方が立ち入るような場所ではございません。

 少なくとも、上流階級の方々の中にはそうお考えになってらっしゃる方が多うございます。そこへ持ってきて料理を教えてくれなどと申されては、市原さんもさぞお困りになったのではないでしょうか。


「それだけならまだしも、泣き出されてしまって……本当に参ったわ」


 ああ……。市原さんは、ご自身のお仕事に誇りを持っていらっしゃる立派な方ですが、少々物事を悪い方向へ考えてしまう癖がおありのようなのです。

 お姫さまにお料理を教えてくれと言われ、自分の仕事に不満を抱かれているとお疑いになってしまったのでしょう。


「でも、確かに少し配慮が足りなかったわ。市原には悪いことをしてしまったわね。後でちゃんと謝っておかないと」


 思案顔で仰るお姫さまを見て、わたくしは自然と頬が綻んでいくのを自覚しておりました。


「そのお心だけでも、きっと市原さんはご満足されますよ」


「そうだといいのだけれど……」


 そうに決まっております。微苦笑をお浮かべになるお姫さまのお顔を見て、わたくしはそう思わざるを得ませんでした。


 ところで、話が御膳所や市原さんのことへ及んだために、わたくしはお姫さまがなんと話を切り出したのか、この時まできれいに忘れておりました。


「そんな次第だから、お由紀だけが頼りなのよ」


 そのため、そう言われてわたくしはすっかりと慌ててしまいました。わたくしは顔と両手を激しく振って、言葉より先に体で自分の意志を懸命に表したのでございます。


「いっ、いけません。駄目、駄目でございます。わたくしはお姫さまにお教えできるような料理など存じ上げません」


 ただ単に料理が出来るか否かと問われれば、「はい」とお答えするべきでございましょう。ですが、その料理を口にするのがお姫さまであると言うのならば、「いいえ」とお答えするしかありません。


 わたくしが料理をしていたのは、一般家庭と比べても裕福とは言えない生家でのことだったのですから。


 香月のお屋敷に上がってからも、当初は使用人の数が少なかったために御膳所のお手伝いをしたことはございます。

 けれど、それとてお手伝いにすぎず、御前さまやお姫さまのお口にあった料理なぞ出来るはずがございません。


 そのようなわたくしが、当のお姫さまにお料理をお教えすることができるかどうかなど、自明の理でございましょう。


 ところが、お姫さまはわたくしのそのような心を知っているかのように、


「いいの。それでいい……いえ、それがいいのよ、お由紀」


 笑いながらそう仰りました。けれど、正反対に鈍なわたくしにはお姫さまのお心は分からず、つい小首を傾げてしまいます。


「あの、つまり……つまりね」


 お姫さまは再び恥ずかしげに身を縮めると、


「ご飯の炊き方を教えてほしいのよ」


 上目遣いでわたくしをご覧になりながら仰りました。

 普段のお姫さまらしからぬ様子ではございますが、それだけに新鮮でもあり、お可愛らしくもあります。


「お由紀なら、知っているでしょう?」


「それは……もちろん存じ上げておりますが」


 呆気にとられたまま、流されるようにしてお姫さまにお答えすると、「よかった」と手を打ち合わさんばかりに瞳を輝かせたのでございます。


「なら、お願いできるかしら……?」


 顔色を伺うようにしてお訊ねになるお姫さまのお言葉に、わたくしは困惑を自覚せずにはいられませんでした。


 確かに、ご飯の炊き方くらいならばわたくしにもお教えできないことはございません。ですが、それをしてしまってよいのかという疑問が沸き起こり答えに窮してしまったのです。わたくしの逡巡を見て取って、


「お願い、お由紀だけが頼りなのよ。この通りだから」


 なんと、両手を合わせて拝むようにわたくしに頭をお下げになったのです。


「おっ、おやめください、お姫さま!」


 お姫さまに――自分の主人に頭を下げさせているところなどを誰かに見られでもしたら、どのようなお叱りを受けるか分かりません。


 いえ、わたくし自身のことはさておいても、ご身分のある方が下々のものに簡単に頭を下げるような行為は慎むべきことなのでございます。


 わたくし自身は《そういうものだから》としか理解していなかったことでございますが、以前に五位ごいさまからこのようなお話を伺ったことがございます。


 身分の差を乱す行為は、人間の価値や尊厳という話以前に、現在の社会を構成しているもの(五位さまは社会的なシステムと仰っておりました)を乱すからこそ罪とされるのだと。身分の高いものは下々のものに傅かれていても、そのシステムの内での《役割》を演じているに過ぎず、それが人間の貴賎というものではない。だが、それだけに身分の高いものは庶民のためにも、《高貴さ》を貫く必要がある――。


 というようなお話でございました。

 正直、わたくしには五位さまの仰ることの半分も理解できていないとは存じます。ですが、お姫さまがわたくしに頭を下げるようなことがあってはならない。それが、わたくしやお姫さまのみならず様々な人のためであると、そういうことなのではないのでしょうか。


「そのようなことを軽々にあそばすものではございません」


 わたくしはしかつめらしい表情でお姫さまに申し上げました。当然、わたくしが考えているようなことは、お姫さまは当にご承知なのでしょう。素直に「ごめんなさい」と頭をお上げになったものの、


「でも、お由紀が頼みっていうのは本当のことなのよ」


 その時、ふわりと柔らかく微笑んでおられたお姫さまでございましたが、意思の強さを表しているような両目に、わたくしは射抜かれていたのでございました。


 ご翻意は望むべくもないと悟らざるを得ませんでした。

 それに……本当のところを申しますと、このようにお姫さまから頼みごとをされるのは、わたくしにとっても嫌なことではございませんでした。


「他ならぬお姫さまのお頼みですから、聞き届けて差し上げたいところなのですが……」


「何か問題でも?」


「場所でございます」


 お姫さまの望みはお料理なのですから、そのためにはそれなりの設備がある場所を用意せねばなりません。ですが、先ほどのご様子からしても、当家の御膳所をお貸しいただくのは無理な相談でございましょう。


「ああ、そうね。確かにそうだわ……どうしましょう」


 考え込まれるお姫さまでございますが、わたくしには考えてどうにかなるようなこととも思えませんでした。


 ところが……。


「それ、僕がご紹介しましょうか?」


 いつの間にいらしていたものか、わたくしの背後には、にやにやと楽しげに笑う五位さまのお姿があったのでございました。

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