おひいさまと解けない暗号(4)


 その日の帰路、淑子よしこさんから伺ったお話を車中でおひいさまに申し上げたところ、すっかりと呆れられてしまいました。


「あなたも、その淑子さんを見習って本のひとつも読んだほうがよろしいのではなくって」


 お姫さまが呆れたのは、他でもないこのわたくし自身のことでございます。


 わたくしが、葉山のお嬢さまが淑子さんにお渡しした《暗号》を解けないことに苛立っているようですらございました。

 それほどに簡単なものなのでございましょう。実際、淑子さんも《実に他愛のないもの》と仰っておられたのですから。


 わたくしのお役目にとって――もっと極端な言い方をしてしまえば、わたくしの人生にとって――知恵働きをすることは、さして重要なことではないと存じます。

 そのため、《暗号を解く》ことができずとも劣等感を抱くようなことはございませんし、また学がなく頭の働きも鈍いほうだと自認してもおりますが、こうまで簡単なこと(だと言われていること)がわからないとは、さすがに少々自分が情けなくなってしまいます。


 やはり今からでも本のひとつも読むべきだろうかと自省しておりましたところ、お屋敷に戻りお部屋に下がったお姫さまが、


「この雑誌を持って行ってくださらない?」


 机の上に数冊まとめて束ねてある雑誌を指し、そのようなことを仰いました。


 読め、ということなのでございましょうか。どのように反応すべきかわたくしが思いあぐねておりますと、お姫さまのお顔に苦笑が浮かびました。


「読めと言っているわけではなくてよ。見ればわかると思うけれど、整理しようと思ってまとめておいたの」


 ああ。つまり、片づけろとそういうことなのでございましょう。「かしこまりました」と一言、雑誌の束を手にお部屋から下がらせていただこうとしたわたくしに、


「でも、お由紀が読むと言うのならば止めはしなくてよ」


 そうお声をかけられました。


 どうしたものかと思い、手にした雑誌の表紙を眺めつつ廊下を歩いていたら、曲がり角でどなたかとぶつかってしまいました。慌てて顔を上げると、なんということでしょう。その方はよりにもよって五位さまでございました。


「も、申し訳ございません」


 わたくしがしばらく顔をあげることもできずにいると、頭上から聞こえてきた五位さまの声は、困り果てたようなものでございました。


「大したことでもないのにそう大仰に謝られてはこちらが参ってしまいますよ」


「は、はい。申し訳ございません……」


 消え入るような声と共に顔を上げると、五位さまの視線がわたくしの手元に注がれていることに気付きます。


「ああ。お嬢さんの雑誌ですか」


「はい」


 うなずき、処分するように言われたと申し上げようとしたところ、わたくしの言葉よりも先に、五位さまは苦笑を浮かべつつ妙に得心のいったような声で仰ったのです。


「なるほど。読むように言われましたか」


「えっ?」


 わたくしは弾かれたように顔をあげ、失礼にも五位さまのお顔をまじまじと見つめてしまいました。幸いなことに、五位さまはわたくしの無礼な態度もさして気になさる様子はございませんでした。


「おや、違いましたか。これは失礼」


 そう仰った五位さまのお顔……いえ、お顔ではなく、なんと申しますか……雰囲気のようなものから、わたくしは五位さまが何らかの事情をご存じであるように感じたのです。


 そう感じた瞬間、わたくしは我知らずのうちに五位さまにこうお訊ねしておりました。


「あの……お姫さまがわたくしのことに関して、五位さまに何か仰っておられましたか?」


 その一瞬、五位さまはわずかに表情を硬くしたように感じましたが、あるいはわたくしの勘違いかもしれません。


「いや、特にこれといったことは伺っていませんよ。でも、どうしてそのように思われるのです?」


「いえ、それは……」


 どうしてでございましょうか。

 自分のこととはいえ、そう感じてしまった理由をすぐに言葉にするのは難しいように思えました。

 強いて言うのであれば、今わたくしが手にしている雑誌の束を目にし、それがお姫さまのものであると知った時、《処分を命じられた》と考える方が普通であるように思われるのです。

 わたくしとお姫さまが使用人と主人という関係である以上、貸与や贈呈よりはよくある話ではないでしょうか。


 そのようなことをわたくしがつたなくご説明申し上げると、五位さまは得心がいったようにゆっくりと頷いてくださいました。


「なるほど。それは確かにあなたの仰る通りかもしれませんね。では、僕からの答えはこうです。『お嬢さんは僕に雑誌の話はしたが、あなたの話はしなかった』」


「え? それは一体どのような……?」


「つまり、お嬢さんは自分の読んでいる雑誌のことで共に話し合える人物が家の中にいればいいのにという希望を漏らしたことがあるのですよ。付け加えるなら、それを僕に求めていたわけです。とは言っても、僕も少女雑誌や婦人雑誌に精通しているわけではありませんのでね」


 五位さまは肩をすくめて苦笑を浮かべておられます。では、お姫さまはその役目をわたくしに期待なさったということなのでございましょうか。


 まさか、とは思います。自問してみても、そんなはずはないとしか思えぬのでございます。


「それで、実際にはお嬢さんから読むように言われたのですか?」


「あ、いえ。そう仰ったわけではございませんが……読んでも構わない、と」


「ふむ」


 五位さまはただうなずかれただけで、お顔にもお言葉にも、何らかの感情――特に、嫌悪や軽蔑といった悪しき感情――が含まれていたわけではございませんでした。


 五位さまはその風体からも分かるようにとても自由なお方ですし、おそらくはそのお考えも先進的なものではないかと存じます。だと言うのに、わたくしは次の瞬間には、まるで言い訳でもするかのように口を開いていたのでございます。


「じ、実は本日、このようなお話を伺いまして――」


 気付いた時には、淑子さんから聞いたお話を五位さまに申し上げてしまっておりました。自分のことながら、なぜこのようなことを口にしたのか、分かりかねてしまいます。


 わたくしの説明は、途切れ途切れの聞くに堪えないものであったと存じますが、五位さまは途中で口を挟むようなこともなく、耳を傾けて下さいました。


 そして、わたくしが最後まで語り終えたのち、


「なるほど、それでこの雑誌を……いや、それは単なる偶然かな」


 と、独り言のように呟かれました。わたくしには五位さまのお言葉が何を意味しているのか分かりませんでしたが、そのご様子からひとつのことだけは分かったのでございます。


「五位さまも、あの《暗号》はお分かりになるのですか?」


「え? ああ、それはまあ」


 当然のようにうなずかれるお姿を見て、わたくしは再び情けない気分を味わってしまいました。


 いえ、五位さまと自分を比べるなど愚かなことと分かってはおります。

 勉学と言えば、尋常小学校に四年通っただけのわたくしと、大学までお出になった五位さまでは比べるにも比べようもないのですから。


 とは言え、自分が愚かだと思い知らされるのは、心地よいものであるはずもございません。


「ときにお由紀さん。あなたは、かるたをなさったことはありますか?」


「はい? かるたでございますか……?」


 五位さまの仰る《かるた》が、お正月などに行う札を取り合うお遊びのことなのでしたら、もちろん幾度かしたことはございます。


 近年そういった機会も少なくなってしまいましたが、お姫さまがまだお小さいころなどは、お姫さまと使用人一同でかるた大会などをしたものです。


「ああ!」


 その時、わたくしは思わずはしたなくも大声をあげてしまいました。


 そうなのです。葉山のお嬢さまがお考えになったという暗号をどこかで見たことがあると思っていたのですが、かるたに使われる百人一首のうちの一首であることに、この時ようやく思い至ったのです。


 手に雑誌を持っていたために実際にはできませんでしたが、手を拍ち叩かんばかりのわたくしに、五位さまは微笑みながらひとつうなずかれました。


「お分かりになったようですね。それに気付けば、もう答えは出たようなものです。他に分からないことがあったとしたら、おそらくその雑誌に書かれていると思いますよ」


          ***


 その日の晩、お部屋に下がらせて頂いたのちに、お姫さまから頂いた雑誌を読ませて頂くことにしました。


 本を読むなど一体いつ以来のことでございましょうか。

 記憶を辿ってもなかなか思い返すことができず、明確な記憶となると尋常小学校の頃まで遡らねばなりませんでした。


 お姫さまに頂いた雑誌は『少女界』という、その名の通り年若い少女たちのための雑誌のようでございました。


 わたくしのような年増が少女雑誌を読むというのもなにやら気恥ずかしくなってしまいますが、本を読むことに関して言えば日頃この雑誌を読んでおられるお嬢さま方よりも、わたくしの方がはるかに幼い場所にいると思われますので、あるいは似合い――それどころか分不相応かもしれません。


 お姫さまに頂いた(正確にはお姫さまが処分なさろうとしていた)雑誌はすべてこの『少女界』でございました。

『少女界』はどうやら月刊誌のようで、今わたくしの手元にあるのはちょうど十二冊、きっちり一年分でございます。


 このあたりも几帳面なお姫さまらしいと言えるのではないでしょうか。


 わたくしが手に取った一冊には、『新年特大号』の字。

 しばらくページを繰っておりますと、先刻に五位さまが仰ったお言葉の意味がようやく分かりました。

《なるほど、それでこの雑誌を》とのお言葉でございます。


『新年特大号』らしくと申すべきか、この号では百人一首の特集が組まれておりました。


 まさに、今のわたくしのためにある雑誌のように思えてしまいます。

 けれど、《単なる偶然》と五位さまも仰っていたように、《新年、かるた、百人一首》との連想はそう奇異なことでもないように思われます。


 どの雑誌でも、新年号であれば似たような特集が組まれているのかもしれません。そうであれば、一年分まとめて処分しようとしたお姫さまの雑誌の中に、ちょうど話題となっている百人一首の記事が存在していたとしても、偶然の一言で片づけられることでございましょう。


 その号で特集されていた歌の中から、さほど苦もなく例の一首を見つけることが出来ました。


 すっかりと忘れていたわたくしが申し上げても何の説得力もございませんが、天智天皇のお作りになられたとても有名な歌でございます。


『あきのたの かりほのいおの とまをあらみ わがころもでは つゆにぬれつつ』


 これに対して、葉山のお嬢様が考えた《暗号》は、


『ときのたの しりほのいおの よまをあらみ しがころもでは つゆにぬれつつ』


 というものでございました。


 比べてみれば瞭然ですが、最後の一句以外では、頭の一字が異なっております。つまり、そこが《鍵》ということなのでございましょう。


 ためしにその字を抜き出してみれば、『としよし』となります。

 最後の一句だけが法則と違うというのも奇妙なお話ですので、仮に最後の句の頭の字が、他の句と同様に本歌と異なっていると仮定してみれば、『としよしつ』。


 葉山のお嬢さまは、これで場所を示そうとなさったのですから、『図書室』となるのが正解なのでございましょう。


 なるほど。

 分かってしまえば、これが分からなかったわたくしが馬鹿にされる(いえ、わたくしが勝手に劣等感を抱いていただけで、誰かに馬鹿にされたわけではございませんが)のも無理はないと思える簡単なものでございます。


 ずいぶんと時間がかかってしまいましたが、どうにか正解と思える答えに辿り着くことが出来て安堵すると共に、分からなかったことが分かるようになることは、とても心地の良いものなのだという実感を味わっておりました。


 その意味では、この雑誌はわたくしにとって宝の山と呼べるかもしれません。


 雑誌を読むなどもちろん初めての経験でしたが――いえ、だからこそと言うべきなのでしょうか、とても興味深いものでした。


 拝見するところこの『少女界』は、今のお姫さまよりもいくつか年若いお嬢さま方に向けて書かれているように見えます。


 そう思って確認してみれば、発行された年が数年前の年号になっておりました。その当時にお姫さまがお読みになっていたものなのでございましょう。


 とは申しても、幼稚や陳腐と思えるものではございません。わたくしの程度が低いだけの話なのかもしれませんが、大変面白く読ませて頂きました。


 たとえば、百人一首の特集ひとつとっても、わたくしはその歌に込められた意味や想いなど考えたこともございませんでしたので、目から鱗が落ちる思いでございました。


 他にも、紫陽花あじさいはよく見る花でございますが、その花に込められた意味が無情であると知ったのも初めてのことでございますし、和裁洋裁手芸などの記事は、作り方や完成図が絵入りで詳しく解説されておりました。


 また、女学生の生活が写真入りで記事になっており、それを見てはお姫さまも学校ではこのようなことをなされているのかと、なにやらわたくしまで楽しげになってしまいました。


 すっかりと夢中になってしまい、気付いてみれば明け方とも呼べる時間になっておりました。


 これはよろしくありません。

 日々のお役目に差し支えるようでは、本を読む女がどうのこうのと言う以前の問題でございます。これからは少し控えねばならないでしょう。


 ですが。

 もしお許しがいただけるのでしたら、他の本も読ませて頂きたいと思ってしまったのも、事実なのでございます。

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