おひいさまと解けない暗号(2)
「おや。お帰りでしたか、お嬢さん」
贅を凝らしつつも品を失わないこのお屋敷の中にあって、その方の存在は、ひどく違和感を与えるものでございました。
着古した木綿の着物に、よれよれの
書生風とでも言うべきお姿ではございますが、そうは申しても今をときめく香月男爵家の書生にしては、いささか
誤解なさらないでいただきたいのですが、この方を悪く言うつもりなどわたくしにはございません。それでも、香月男爵家の何が珍しいのかと問われたとき、あるいはわたくしはこの方の存在をあげてしまうかもしれません。
このようなお姿から想像するのは難しいことですが、この方は
天皇陛下から
華族さまのご嫡子は二十一歳になると同時に従五位の位階を賜るのだそうで、こちらの五位さまもその折に従五位の位につかれたとのお話でございました。
ですが、こちらの五位さまは御前さまのご令息ではなく、香月男爵家のお世継ぎでもございません。
では? と申せば、男爵家が分家する以前の家――すなわち、香月男爵家からみると《本家》にあたる伯爵家のご嫡子なのでございます。
そのような方がなぜ居候のような形で香月男爵家にいらっしゃるのかは、わたくしのようなものが知りうるところではございません。
事情をご存じなのは、御前さまと当の五位さまだけのようで、そのお
いくつかの噂が耳に入ることもございますが、誹謗とも思えることがその多くを占めております。
最も多く語られ、最も多くの人に信じられているのが、「女遊びが過ぎ勘当された」といったような噂でございますが、正直に申しましてわたくしはあまり信じておりません。
確かに、
「ごきげんよう、
皮肉めいたお姫さまの言葉も、非難しているというよりは苦笑まじりとでも言う方が正しいように思われます。
お姫さまもまた、五位さまに関する風評を信じてはおられないのでしょう。そうでなければ、元より男女間のそういった行為には潔癖なお姫さまのこと、五位さまに対する態度はもっと冷え冷えとしたものになるはずでございます。
「おや、気付かれていましたか。なに、昨夜は少々酒を過ごしましてね、浅草の友人のところへ厄介になっていたんですよ」
「小父さまらしいお話ですこと。浅草のご友人ですか。それはそれは可愛らしいご友人なのでしょうね」
お姫さまのご性格からして、本当に疑っているのならこのような言葉は出てはこないでしょう。それにしても、お姫さまの五位さまに対する呼びかけは、いささか失礼ではないかとも思えてしまいます。
確かに、お年は三十をいくつか越しておられるようなので、「小父さま」との言葉もおかしくはないと存じますが、未だ学生とも思える若々しい容姿からは、とてもそのような印象はうかがえません。
「もちろん……と言いたいところですが、残念ながらどうも僕には、その手の甲斐性はないようで」
苦笑混じりに頭を掻くそのお姿は、若々しいというよりも幼いとさえ感じてしまいます。
「ところで、土産に牡丹餅を買ってきたのですがお嬢さまもどうです? 形は不恰好ですが、なかなか美味いですよ」
「まあ、お素敵」
お姫さまは素直にお顔を綻ばせました。五位さまの奔放ぶりに眉をひそめる者が多いのも事実ではございますが、五位さまの存在はお姫さまに良い影響をお与えになっているようにわたくしには見受けられます。
御前さまはお仕事でお忙しくお屋敷におられないことも多く、ご母堂さまは早くに他界なさっておいでです。
そんなお姫さまにとって、対等にものを見、お話しすることのできる五位さまは貴重な存在と申せるのではないでしょうか。あえて申してしまえば、親代わりとでも言うように。
他の華族さまのお家では、お付きの者などがご令息ご令嬢の親代わりと呼べるような存在となることもあると耳にいたしますが、とてもではありませんがわたくしにその役は荷が重うございます。
その意味でわたくしにとっても五位さまはとても力強いお方でございました。
「ですが、せっかくですけれど、今日のところはご辞退させていただきますわ」
「それは残念。やはり下町で買った牡丹餅なぞは口の肥えたお嬢さまのお口にあいませんか」
五位さまは意味ありげに片眉を跳ね上げて皮肉めいた言葉を漏らします。どこかわざとらしいお口ぶりでございましたが、お姫さまもそうと分かっているように、「まあ!」と芝居がかった調子で憤慨してみせました。
「小父さまらしくもなく下手な挑発ですわね。でも、それを仰るなら、わたしは小父さまほど様々なところでお食事をする機会に恵まれてはおりませんから、小父さまほど口は肥えていないつもりですわ」
「や。これは参りましたね」
思わぬ反撃に苦笑する五位さまのお姿は、失礼ながら可愛いと思えてしまうほどのものでございました。
「では、ご用事ですか」
首をかしげる五位さまは本当に何もご存じないようでございます。お姫さまもそれを悟ったご様子で、わずかなため息の後に「お由紀」とわたくしを促されました。
「本日、《ご本家》で開かれる雛の宴に招かれておいでなのです」
遠慮がちに口にしたわたくしに五位さまが見せた反応は、「ああ……」と唸るだけの短い言葉。お顔に感情が表れるようなこともなく、どのようなことをお考えなのかわたくしには分かりません。ですが、
「なんなら、小父さまもご一緒いたしますか?」
お姫さまがそうお訊ねになったときには、わずかではありますが確かに表情を歪めておいででした。そのお顔からは、嫌悪というよりは哀切が感じられるようにわたくしには思えたのでございます。
それにしても、お姫さまも意地の悪いご質問をなさいます。《ご本家》とは、五位さまのご生家に他ならず。そこで開かれる宴に五位さまがお出でになられるようなら、最初からこちらのお屋敷にいらっしゃらないでしょうに。
わたくしは、五位さまが次にどのような反応を見せるのか、急に心配になってしまいました。
けれど、
「残念ですが、遠慮させてもらいますよ。三十男がいまさら雛の宴というのもこそばゆいことですしね」
次の瞬間には、すっかりと普段の飄々とした五位さまにもどっておいででした。
その態度が崩れるところを見たかったのか、お姫さまは少々不満げな吐息を漏らしておられましたが、どうしたわけかわたくしはそのご様子に安堵してしまったのでございました。
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