おひいさまと消えた味(2)



 五位ごいさまからご紹介頂いたお家は、神田区と下谷区の間ほどの場所にございました。


 翌日、おひいさまが学校を終えた後、わたくしはお姫さまと二人、青山の停留所から電車に乗り込みました。


 家のものに知られるわけには参りませんので、車は先に帰っていただいたのです。

 お友達の家に呼ばれているから迎えはいらないというお姫さまのお言葉を、運転手のやしろさんはお疑いになるご様子もございませんでした。

 仕方がないこととは言え、嘘を付き他人を騙すのは、どのようなことであれ、やはり心が痛むものでございます。


 電車は豊川稲荷から赤坂見附を抜け、皇居をぐるりと回るようにして神田の町へと向かいます。


 萬世橋で下車をして、しばらく歩いたところにそのお家はございました。


 五位さまが冗談まじりに《別荘》などと仰るものですから、どのようなお屋敷かと思っておりましたところ、ごく質素なもので、下町などでは一般的なお家ではないでしょうか。


 周囲には同じような大きさの家がひしめき合うように建ち並び、路地は狭くまるで迷路のように入り組んでおりました。


 わたくしのようなものが口にするのは憚られることでございますが、できうることならこういった場所にお姫さまをお連れしたくはございませんでした。

 ですが、お姫さまは幼子のように目を輝かせて、雑多な町の風景をご覧になっておられたのでございます。


 泥だらけになって遊び回る子供たちの声を背に、わたくしとお姫さまは家の中へと入っていきました。五位さまにお聞きしたところでは、戸締まりなどしたことがないと仰っておりましたが、その通り入り口の戸は何の苦もなく開いてしまいました。

 喜ぶべきなのか不安がった方がいいのか、少し悩んでしまいます。


 そのお家は六畳、四畳半、二畳きりの小さな家でしたが、家具と呼べるようなものはほとんどなく、狭いはずの部屋が閑散として見えるほどでございました。

 五位さまは、時折自分が戯れに寝泊まりする程度で、無人の家だと仰っておりましたが、そのわりには荒れた様子もございません。


 お台所は奥手にございます。

 さすがに瓦斯ガスはございませんでしたが、井戸水が引かれている様子で、外観からわたくしが想像したよりもはるかに立派なお台所でございました。


 お屋敷から持参したたすきと前掛けをつけ、同じものをお姫さまにもお渡ししますと、お姫さまは立派な贈り物でも受け取ったかのように、悦ばしげにそれを身につけられたのでございます。


「では、先生。よろしくお願いします」


 口調は冗談めかしてではございましたが、真摯な瞳でそのようなことを言われ、わたくしは赤面してしまいました。


「は、はじめましょうか。まずお米を探しませんと」


 照れくささを隠すためにわたくしは早口でそのようなことを口にすると、お台所の中を見渡します。


 場所のほかにも、材料をどうするのかという問題もあったのですが、それもやはり五位さまが解決してくださいました。

 こちらで寝泊りするときのために、お米くらいは残してあると仰っていたのです。


 お姫さまの身の回りを整えるために幾ばくかのお金は預かっておりますので、お料理の材料くらい買えないことはございませんが、あまりに金額が大きくなると説明にも困ります。


 殊に、近年戦争の影響による物価の高騰で、お米のお値段もずいぶんと高くなっているとのお話ですので、お米が用意されているのはありがたい話です。


 お米はお台所の隅に置かれたお櫃の中にございました。

 ではさて、いよいよ――ということになったのですが、実際に始めてみると、わたくしが思ったよりもはるかにお教えすることは少のうございました。


 お米の研ぎ方、水加減、火加減といったことを隣でご説明申し上げれば、お姫さまはややぎこちない手つきながら、早々とそれをこなしていってしまわれます。


 お姫さまはわたくしと違ってご器用な方ですし、聡明でもございますので、たかがご飯を炊く程度のことならばそれも当然とは思われます。


 そのことを誇らしげに思いながらも、もう少し手間取って下さったほうがお教えのしがいもあるのに――などと思ってしまったのは、お姫さまには内緒です。


 ですが、お釜がコトコトと音を立てながら湯気を立ち上らせている様子を見て、期待に声をはずませながら「まだかしら。まだかしらね」と何度もお訊きになるお姿は、微笑ましくなるものでございました。


 ところで、わたくしにはひとつ失念していることがございました。それに気づいたのは、既にお釜を火から離し、ご飯を蒸らしている時のことでございます。


「いけない。どうしましょう」


 思わず声を出してしまったわたくしを、お姫さまが首をかしげてご覧になります。


「どうしたの?」


「このご飯をどうしたものかと思いまして……」


「どうって……? ああ、そうね。そうだわ」


 お姫さまの、ひいてはわたくしの目的はご飯を炊くことでございましたので、炊き上がったご飯のことを考えに入れていなかったのでございます。


 炊き上がったご飯に用はないと言ってしまえばそれまでなのですが、さりとて捨ててしまうようなもったいない真似もできません。

 今はともかく、かつては慎ましやかなお育ちをなさったお姫さまもその思いは同じであろうと存じます。


 一番よいのはこの場で食べてしまうことですが、それをしてしまえば、お屋敷に戻った後に用意されている夕食が喉を通らないでしょう。


 わたくしはともかく、お姫さまがそうなってはコックの市原さんにも申し訳ありませんし、何より理由を問われた時にお困りになるのではないでしょうか。


「本当……どうしましょう」


 わたくしにもよい考えは浮かびそうにありませんでしたが、お顔を曇らせるお姫さまを見れば、多少の無理は承知の上でなんとかして差し上げるべきだという気持ちにもなって参ります。


「いえ、大丈夫です。ひとまずおにぎりにでもしてお屋敷に持ち帰ることにいたしましょう。後はお由紀がなんとかいたしますから」


 わたくしがそう申し上げると、お姫さまはぱっと表情を輝かせました。

 ですが、それはご飯の処置が決まったことによる安堵からのものではなかったようで、


「わ、わたしにもやらせてもらっていいかしら。その、おにぎり」


「え? それは……お姫さまがお望みならば」


 ご身分からすれば、「お姫さまがお手ずからあそばすことではございません」と苦言を呈するべきだったのかもしれませんが、なにやらそれも今更という気がいたします。


 わたくしが首肯したのを見て、お姫さまは目を細めるとどこか遠いところを見るような目つきでわたくしの姿をご覧になりました。


「昔ね、小さい頃にお由紀がおにぎりを握っている姿をそばで見ていたことがあったわ」


 申し訳ないことにわたくしはその時のことを覚えてはおりませんでしたが、お姫さまは懐かしむようにそう仰ります。


「単なるご飯の塊がお由紀の手に包まれると、きれいな三角形のおにぎりになって、まるで手品か魔法みたいだって思ったことをよく覚えているわ」


「大げさでございますよ」


 お姫さまは、なにか尊いものでも見るようにわたくしの手をご覧になるものですから、つい気恥ずかしくなって、手を隠すようにしてしまいました。


「確かに大げさだけど、そう思っていたのは本当のことよ。だから、自分でもやってみたい、そうなりたいってずっと思っていたの」


 これも大げさだとは思われますが、念願が叶ったということでございましょうか。

 気恥ずかしさは消えませんが、それでもお姫さまがそう思ってくださることは、わたくしにとっても喜ばしいことでございます。


 ところが、その喜ばしいことの後には、難しい現実に直面してしまったのでございました。


「……どうしてかしら?」


「……どうしてでございましょうか」


 訊ねられ、さりとてよい答えも見当たらず、間の抜けた受け答えをしてしまいました。


 わたくしとお姫さまの四つの瞳は、お姫さまの手に――正しくは、その手の内にあるものに注がれておりました。


 それはおにぎり……と申すには、いささか不恰好に過ぎるお米の塊でございます。


 ご器用だと思っていたお姫さまでございますが、いざおにぎりを握る段になると、その器用さをどこかに置き忘れてきたかのようになってしまうのです。


 不器用であることを自認するわたくしが苦もなくできてしまうことを思えば、おにぎりを握るのに必要なのは器用不器用とは異なる《何か》なのかしら――などと馬鹿なことまで考えてしまいます。


「も、もう一回。もう一回お手本を見せて! お願い!」


「は、はあ……」


 熱のこもったお姫さまのお声に少々たじろぎながら、わたくしはご飯を一塊手にとりました。


 何度か手の中で転がせば、三角形のおにぎりができあがります。

 自賛するのはお恥ずかしいことですが、やはり冷静に見ればお姫さまのお作りになったものよりはきれいに出来上がっているのではないかと存じます。


 眉をしかめ睨み付けるようにそれをご覧になっていたお姫さまは、視線をおにぎりからわたくしの顔に転じ、もう一度お訊ねになりました。


「どうして?」


 それを訊かれても困ってしまいます。


 わたくしも頭で考えて握っているわけではございませんから、ここをこうした方がいいとかああした方がいいなどといった言葉は申し上げられないのでございます。


「あの、お姫さま? あまり形にこだわりになることはございませんよ。要は纏まっていればよいのですから」


「それはわかっているのだけれど……」


 お姫さまはご自分に厳しく、完全を期するようなところのある方ですから、頭で分かってはいてもなかなか納得もしがたいのかもしれません。


 その後二人で握り続け、炊いたご飯はすべておにぎりにしてしまいましたが、並ぶおにぎりを見れば、どれをわたくしが握りどれをお姫さまが握られたのかは一目瞭然の仕上がりとなっておりました。


 お姫さまは、情けなさそうな顔つきでしばらくそれを眺めておられましたが、


「仕方がないわね。最初から何もかもうまくいくはずもないのだから。でも、次に来たときにはもう少ししっかりできるようにしたいものだわ」


 お姫さまらしい前向きなお言葉でございましたが、それを耳にしてわたくしは驚いてしまいました。


「お、お姫さま!? 次とは……また、あそばすおつもりですか?」


 わたくしの驚きの声に、お姫さまはさも意外なことのように眉を寄せられます。


「当然じゃないの。わたしがしたかったのは、《料理》なのだから。今日はご飯を炊いただけで、それだけでは料理とは言えないでしょう?」


「それは仰る通りでございますが……」


「大丈夫よ。この次はもう少し考えて分量を決めることにしましょう」


 わたくしが申し上げたかったのはそういったことではなかったのでしたが、朗らかに笑うお姫さまを見れば、今更わたくしが何を言ってもおやめになることはないように思えるのです。


 なにやら、ひどく不安になってまいりました。

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