おひいさまと解けない暗号(5)
翌朝。
学校へ向かう車中で、ようやく見いだすことのできた暗号の答えをお姫さまにお伝えいたしました。
「そう」と言うだけのわずかな反応ではございましたが、そのお顔がほころんでいたところを見れば、どうやら間違ってはいなかったようでございます。
続いて、雑誌を読ませていただいたことに礼を申し上げ、たいそう面白く読ませていただいたことを告げると、
「あら。お礼を言われるようなことではなくてよ。でも、興味を持ってくれたのなら嬉しいわ」
お姫さまはそう微笑まれました。
やはり、五位さまが仰っていたように、同じ興味を持つものを周囲に欲しておられるということなのでございましょうか。
わたくしなどには荷の重い役と存じますが、少しでもお姫さまのお心が安んじられるのならば、わたくしとしても喜ばしいことでございます。
……などと、暢気に構えていられたのはこの時まででございました。
その日の夕刻、学校からお帰りになる車中で、お姫さまが突然このようなことを仰ったのです。
「今度はわたしからの挑戦よ、お由紀」
いきなり何を仰るのかとわたくしが驚いていると、お姫さまはわたくしに封筒を差し出されました。
目を丸くしながらもわたくしはそれを受け取り、促されて封筒を開くと、中から出てきたのは二枚の便箋。
一枚は、一枚箋にしないための白紙でございましたが、問題はもう一枚の方。
そこに書かれていたのは、やはりひとつの和歌でございました。
『とはのやま べつりのみちの とほきむじやう まだむくもみず あまのひらめき』
それを目にした時、わたくしは一日と少し時間が逆戻りしてしまったのではないかとさえ思ってしまいました。それほどに、例の《暗号》が書かれていた便箋によく似ていたのでございます。
もちろん、書かれている内容はまったく異なっておりますし、筆跡も違っております。
流麗でありながらも、硬く険しさを感じさせる字は、まぎれもなくお姫さまの手によるものでございます。
「あの、お姫さま。これは……?」
鏡を見ることが叶わぬので確認のしようもございませんが、この時のわたくしは間違いなく情けない表情を浮かべていたことと存じます。
「もちろん、《暗号》よ。葉山さんのお話を聞いて、わたしも考えてみたの。それを、お由紀に解いてほしいのよ」
驚きました。
誰もがひと目で分かるような簡単な暗号に四苦八苦していたわたくしに、さらなる問題を突きつけることもそうなのでございますが、それ以上に驚かされたのは、その時にお姫さまが浮かべていた表情についてでございます。
一見すればこの度のことは、同窓生と同じお遊びに興じてみようという稚気から出たものでございましょう。
ですが、この時のお姫さまの表情からは、そのような軽々しさはまったくと言ってよいほど感じられなかったのです。
この時、お姫さまのお顔に表れていたものを一言で言い表すとすれば――
不安。
「そこには、今わたしがあなたに一番言いたい言葉が書いてあるわ」
日頃気丈なお姫さまとも思えない、まるで親に置き去りにされた迷い子のような表情。それでいて、何かを訴えかけるような表情だったのでございます。
「あ、あのっ、お姫……さま?」
何を想っておられるのか、その一端だけでもお話しいただきたかったのですが、お姫さまはそれ以上もう何も話すつもりがないようで、視線を窓の外へと向けてしまわれたのです。
お姫さまの視線の先で、市電が荷馬車をゆっくりと追い越して行きました。
***
どうしたものでしょう。
わたくしはすっかりと困り果ててしまいました。
お姫さまに暗号を渡されてから(お姫さまのお言葉をお借りするなら《挑戦》を受けてから)数日、暇を見つけて考えてはいたのですが、いっこうに答えらしきものは見つかりませんでした。
経緯からすれば、お姫さまの考えた暗号は、葉山のお嬢さまが考えた暗号を元にしているのであろうことは想像がつきます。
同じように和歌の形を使っているのがその証拠と言えるのではないでしょうか。
だとすれば、《本歌》にあたる歌が、やはり百人一首の中に存在しているのではないかと思い、お姫さまにいただいた雑誌を眺めてみれば、案の定ございました。
『おほえやま いくののみちの とほければ まだふみもみず あまのはしだて』
葉山のお嬢さまのお考えになったものに比べれば、いくぶん形を変えてはおりますが、これがお姫さまの暗号の本歌にあたるものと思って、間違いはないように思われます。
と。
わたくしに分かることと言えば、精々この程度だったのでございます。
葉山のお嬢さまのもののようにそれぞれの句の頭一字を抜き出してみても、『とべとまあ』となりまるで意味が通りません。
本歌と異なっているところに意味があるのだと考えてみても、『とはの』『べつり』『むじやう』『むく』『ひらめき』であり、これだけで何かを表しているようには思えませんでした。
もしこれが、面白づくの単なるお遊びであるのならば、わたくしの答えは簡単でございます。
「分かりませんわ、お姫さま。降参でございます」
と、そう言ってしまえばよいのです。
お姫さまの目的がただ暗号を考えることだけなのでしたら、そう申し上げてもわたくしに失望なさることもございませんでしょう。
それどころか、少しばかり得意げなお顔になり、
「仕方ないわね、では答えを教えて差し上げますわ」
そう仰るはずでございます。わたくしは、それをどれほど願うことでしょう。
ですが、わたくしにはそうではないという確信に近いものがございました。理由を問われてもお答えできることではないのですが、強いて申しあげるなら、あの時にお姫さまが見せた表情からくる不安感が、これは解かねばならないことだとわたくしに告げているように思えたのでございます。
不安と焦燥に嘖まれ、暇さえあれば――いえ、暇がなくとも、つい暗号のことばかり考えるようになっていたとしても、下手の考え休むに似たりとでも申すべきでございましょうか、わたくしの思考はいつまでたっても同じところをぐるぐると彷徨っていたのでございます。
「お由紀さん? どうかなさったのですか」
突然、声をかけられ、わたくしははたと我に返りました。
いえ、突然というのはわたくしがそう思ってしまっただけのこと。単に、お屋敷の廊下に呆然と立ちつくしていたわたくしが、近づいてくる人の存在に気付かなかっただけなのでございましょう。
暗号を渡されてから数日後の日曜のことでございます。
呼ぶまで下がっているようにとお姫さまから命じられ、部屋の外へ出たところで、また暗号のことを思い出してしまったのです。
慣れないことをしているせいか、どうもわたくしは考え事をしていると他のことが疎かになってしまうのです。端から見れば放心しているように見えてもおかしくはなく、声をかけるのも当然でございましょう。
「あ、こ、これは。五位さま」
我に返ったわたくしが声の主を見やれば、そこには怪訝そうな顔をした五位さまが立っておいででした。
五位さまはいつも通りのよれよれの木綿の着物で、左手に紙の包みを、右手には食べかけの大福を持っておられます。このお姿を見ただけでは、とても華族さまだとは思えませんが、逆にとても五位さまらしいお姿だとは思います。
「どうしました、お由紀さん。何かお悩みごとでも?」
「いえ、そのようなことは……」
否定しつつも、わたくしの言葉尻は濁ってしまいました。
お姫さまの作られた暗号を《悩みごと》などと言うのは大仰なお話ではございますが、その件でわたくしが頭を悩ませていたのもまた事実なのでございます。
「お嬢さんに無理難題でも押しつけられましたか?」
「いえ、そのようなことは決して」
さきほどよりもはっきりと否定の言葉を口にしたわたくしですが、どうしたわけか五位さまには肯定の返事と受け取られてしまったようでございます。
「さては、お嬢さんが暗号でもお作りになられましたか」
「な、なぜそれをご存じなのです!?」
わたくしが目を見開いて驚きの声を上げると、五位さまはからからと愉快そうにお笑いになりました。
「いや、ただの勘だったのですがね。でも、いかにもあのお嬢さんのやりそうなことじゃあないですか」
「そうでしょうか……?」
わたくしは首を捻ってしまいましたが、お姫さまにそういった稚気があると言われれば否定できないかもしれません。
「どうです、その暗号を僕にも見せてはもらえませんか?」
「あ、いえ。それは……」
躊躇してしまったわたくしを見て、五位さまはきょとんと意外そうな表情をお浮かべになりました。
「おや? 駄目ですか?」
駄目ということではないと思われます。お姫さまも余人に明かすなとは申されておりませんでした。
ですが、五位さまにお見せしたら、五位さまは暗号を解かれてしまうのではないかと思えるのです。暗号に悩まされるわたくしにとって、それは幸いなことなのかもしれません。
しかし、暗号を渡される時、お姫さまは《挑戦》というお言葉をお使いになられました。ここでわたくしが五位さまのお力に縋るのは、お姫さまのご意志にそぐわないことではないのかと思えてしまうのでございます。
そのようなわたくしの考えがお分かりになったのでございましょうか、五位さまは微笑を浮かべてわずかに首を振られました。
「ああ、心配には及びませんよ。もし僕が答えを見つけられたとしても、それをあなたにお伝えしなければよいのでしょう?」
そのお言葉が引き金になった。と申すのは、わたくしの欺瞞かもしれません。わたくしの中には、確かにどなたかのお力に縋りたい気持ちが存在していたのですから。
結局、わたくしの心が弱かったということになるのでございましょうか。
しばらくの後、わたくしは五位さまのお部屋の中で、お姫さまから渡された便箋をお見せしてしまっていたのでございます。
五位さまは、わずか三十三字の文字を、それはそれは長い時間をかけてご覧になっておりました。そして、便箋から目を離すと、ご様子を緊張した面持ちで眺めていたわたくしに視線を向け、力無く笑われました。
「さすがに僕もこれだけでは答えは出せません」
わたくしは五位さまのお言葉に体の力が抜けるのを感じ、同時に自身の卑劣さにも気付いてしまいました。
五位さまにお答えを期待するのは公平さに欠けると分かっていながらも、そうならなかったことを残念に感じてしまったのです。
惨めな気持ちに陥るわたくしに、改めて五位さまが問われました。
「お由紀さんは、これをどうお考えになっているのです?」
問われ、わたくしは自分の考えを五位さまに申しあげました。などと申しても、わたくしの考えなど高が知れております。せいぜい、この暗号が葉山のお嬢さまの作られたものを元にしているのであろうこと、この暗号の本歌が『おおえやま』に始まる小式部内侍の歌であろうこと、その程度でございました。
わたくしの考えを聞かれた五位さまは幾度かうなずかれ、
「そうですね。僕も同じ考えです。だとすると、本歌と異なる部分に意味があると考えるべきでしょう」
「はい。ですが、本歌と異なる部分を抜き出してみても、そこに意味があるようには思えないのでございます」
「『とはの』『べつり』『むじやう』『むく』『ひらめき』ですからね。確かに、これだけでは意味は通じない。しかし……」
五位さまはそこで一度言葉を切ると、わたくしを正面からしっかと見据えられました。
「僕が思うに、おそらくあなたは既にお嬢さんから答えを与えられているのではありませんか」
意外な言葉でございました。「なぜ」と、わたくしは声には出しませんでしたが、五位さまはわたくしの態度からその言葉をお感じになられたようでございます。
「お嬢さんの性格が理由です。彼女は、公平な人物でしょう」
言うまでもございません。わたくしが肯定するまでもなく、五位さまはお言葉を続けられました。
「誰にも分からない暗号など意味がありません。多くの人には分からないが、ある特定の人物には確実に意味が伝わるものを暗号と呼ぶのです。だとしたら、お嬢さんはあなたに――少なくともあなたにだけは分かる暗号を作ったでしょう。暗号を解くための鍵は、あなたとお嬢さんの間に存在するものにあるはずですよ」
わたくしとお姫さまの間に存在するもの?
わたくしには、そのようなものがあるとは思えませんでした。しかし、五位さまは確信を抱いておられる様子で、
「英語で手紙を書くのなら、受取人に英語の知識がなくてはならない。同様に、お嬢さんが暗号を作るとき、受取人としたあなたの知識を想定しなかったはずがない。お嬢さんは、あなたに確実に存在するであろう知識を元にして、この暗号を作ったはずだ」
「そんな……わたくしに知識などと大それたものは……」
わたくしが口に出した言葉を、五位さまは手を挙げて制されました。
「お由紀さん。謙遜と卑下は似ているようで違うものですよ。謙遜は美徳かもしれませんが、自分を卑下する人物は見ていて気持ちのいいものじゃあない」
「も、申し訳ございません」
鋭い目つきで叱責を受けたわたくしは、慌てて頭を下げ不明を恥じ、お詫びをいたしました。すると、五位さまもまた、なぜか恥ずかしげに苦笑を浮かべられたのです。
「いや、これは柄にもないことを言いました。僕の方こそ申し訳ない」
五位さまはこほんと咳払いをされた後、
「話がそれてしまいましたね。余計なことは言わずに、結論を言ってしまいましょう。つまり、僕が言いたいのは、お嬢さんがあなたに渡した雑誌のことです。少なくとも、今回の暗号に限って言えば、あなたの考えはすべて雑誌に書かれていることに拠るものだ。そうでしょう?」
五位さまの仰る通りでございます。
わたくしが、お姫さまの暗号が小式部内侍の歌を元にしたものだと分かったのも、本歌との違いを見いだすことができたのも、みなお姫さまに頂いた『少女界』があったからこそでございます。
「意味が通じないと思える『とはの』『べつり』『むじやう』『むく』『ひらめき』、これらの言葉を繋げるものは、あの雑誌の中に存在する。僕はそう考えます」
五位さまのお考えは理にかなっており、なるほどと思えます。思えますが、それらの言葉を繋げるものなど、わたくしに見いだすことができるものなのでしょうか。
とはの……べつり……むじやう……むく……ひらめき……。
わたくしは、幾度かその言葉を頭の中で反芻いたしました。その内に、わたくしの中に痼りのようなものが生まれたのです。気になる点とでも申しましょうか、その言葉をつい最近どこかで見たことがあると、そう思えました。
そしてわたくしは、ついにそのことに気付いたのでございます。
はっとして顔をあげると、五位さまが微笑を浮かべわたくしをご覧になっておりました。
「何かお気づきになったようですね」
「は、はい。五位さまのお陰でございます」
わたくしは居ても立ってもいられなくなり、後から考えれば大変ご無礼なことではございましたが、お礼もそこそこに五位さまから辞去するお許しをいただきました。
「お由紀さん」
お部屋を去ろうとしたわたくしは、不意の五位さまの声に呼び止められました。
「お由紀さんは、暗号の元になった本歌の意味をご存じですか?」
「はい、それは頂いた雑誌に書いてございましたので」
確か、『大江山を越え、生野を行く道がないので、その先にある天橋立の地はまだ踏みもしていないし、母からの文も見ていない』というような意味であったと覚えております。
「では、小式部内侍がそのような歌を詠んだ理由などは?」
そこまでは『少女界』には書いておりませんでしたので、わたくしが素直に首を振ると、五位さまは「そうですか」と一言、口の端をつり上げるような笑みをお浮かべになられたのです。
「小式部内侍の母親は、歌人として有名な和泉式部でした。そのため、小式部内侍は歌の代筆を母親に頼んでいたのではないかという噂があったのです。そして、実際に『母親に代筆を頼む文は出したのか、文は帰ってきたのか』という質問をされた時にその歌を詠んだのだそうですよ。巧みな掛詞や縁語を使用した見事な歌で、意地の悪い質問者に反撃をしたというわけです。それ以後、小式部内侍の歌人としての名声も高まったという話です」
「はい」と、わたくしは短く答えるだけでしたが、五位さまが仰りたいことがわかるような気がいたしました。
「なにやら、誰かさんを思い出すような逸話じゃあありませんか」
肩を震わせて笑う五位さまのお言葉は、決して馬鹿にするようなものではございませんでしたが、そこにからかうような響きがあったのも確かでございます。
それでもわたくしは、胸を張ってこうお答えいたしました。
「実に、お姫さまらしいことだと存じます」
自立心に富み、自分の道をご自身で作ろうとなさるお姫さまにお似合いの歌だと心から思います。そして、わたくしはそんなお姫さまを誇りに思っているのでございます。
わたくしは五位さまに一礼し、お部屋を辞去させていただきました。
その時。わたくしが戸を閉めさせて頂いたその瞬間、中から五位さまの声が聞こえてきたのでございました。
***
「しかし、それだけじゃあないと思うがね」
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