あわいの街・雑司が谷で、ピンク色の人生に出会おう

私が仕事で雑司が谷に行ったとき抱いた印象は「あわいの街」でした。
たとえるなら、赤と白の水彩絵の具を溶かした水が混ざり合うとき、真ん中にできるメヨメヨっとした部分、みたいな街。
路面電車(都電荒川線)が走り、しっぽりした喫茶店や古本屋があって、まるで都心とは思えないのどかさですが、池袋に近いので北の空を見上げるとドカーンとサンシャイン60が建っていますし、東京メトロ副都心線の雑司が谷駅はとてもキレイで都会的です。
猥雑な繁華街と閑静な住宅地、彼岸と此岸、生と死、それらが混じり合う境目に、雑司ヶ谷という街があるように思ったのです。
そうそう、無数の死者が眠る雑司ヶ谷霊園は、それだけで彼岸に近いように感じます。そういえばサンシャイン60だって、巣鴨プリズンの跡地なのでした。雑司ヶ谷霊園に眠る東条英機らが処刑された場所でもあります。

そして「猫を飼う」は、雑司が谷というあわいの街に実にぴったりくるお話だなあと思いました。
(ちなみに同行していた先輩が「雑司ヶ谷霊園には猫が多い」と教えてくれました。
木陰が多く墓石も冷たいので気持ちがいいのだろう、とのこと。私は会えませんでしたが!)

はたして生と死には、境目があるものでしょうか。
ハルオは死について、「死ぬのってそんな感じなんだろうか。急に、まちがった曲がり角をまがってしまって、落とし穴に吸いこまれてしまうような」と言っています。彼はある瞬間にくっきり生と死が分かれるものだと思っていたようです。
かく言う私も先ほど「境目」という言葉を使った通り、生と死の間には境界線がないことを忘れていました。境界線があってほしかったのかもしれません。死ぬのは怖いですし、普段の人生の中にそっと紛れ込んでいてほしくはないものです。
けれども「猫を飼う」では、犯人さがしのパートと不思議な体験をするパートが徐々に混ざり合い、生と死も渾然一体となっていきます。というよりも、生と死とは本来そういうものなのでしょう。先ほどの水彩絵の具の喩えを使い回すなら、私たちの「生」は真っ赤ではなく、「死」の白が混ざったピンク色なのだということに気づかされるのです。
その感覚は少なからず恐ろしいのですが、それゆえに生を実感させてくれるものの美しさやぬくもりが、際立って輝くようなラストがすばらしい作品でした。

ちなみに、先ほどのハルオの問いにはある人物が答えてくれるのですが、その言葉がとても素敵だなと思ったので、ぜひ本編でお確かめください。

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