猫を飼う
オカワダアキナ
第1話 ねこ探しています
〈幕前〉
元旦、死んだ友人から年賀状が届いた。
亀山三四郎という古風な名前の男で、暮れにクモ膜下出血で死んでしまった。それは何の前ぶれもない死だった。亀山とは高校時代クラスが同じでよくつるんでいたが、ここ何年かは年賀状のやりとりぐらいでしばらく会っていなかった。そのためか、どうも奴が死んだという実感は薄い。
亀山は例年通り、律儀に年賀状を準備していたらしい。早くにきちんと投函したのだ、まさか自分が死ぬとも知らずに。
『謹賀新年 元気にしているか。
じつは、おれは結婚した。驚いたか?
まあ、おれたちももう三十だものな。
よかったら今度遊びに来てくれ。
嫁さんはケーキを焼くのがうまい』
ボールペンのふにゃふにゃした字で、そう書き綴られていた。いかにも新婚夫婦らしい写真がぴかぴかに印刷されている。嫁さんの名は毬子さんというらしい。大晦日に執り行われた葬式で死んだ顔や泣いた顔をさんざん見たあとでは、この年賀状もたちの悪いイタズラのように思える。亀山の死はいよいよ非現実的だ。
そしてその年賀状の新しい住所の下に、さらにふにゃふにゃの小さな字で書き添えられていたのは、こんな言葉だった。
『鶴森、お前の筆は進んでいるか?』
おれは鶴森ハルオという。
中学生のころ太宰治に憧れて小説を書き始め、(一度も入水はせずに)いつのまにか三十になった。物書きのはしくれのつもりだが、おれの書いたものは金にならない。大学時代にとった地方の小さな文学賞を唯一の栄光とし、書くことにしがみついてはいるものの、まるで仕事はない。今やおれの文章に関する仕事はフリーペーパーの星占いコーナーだけである。誰も読まない、記憶に残らない星のお告げを、ちまちま書いている。
もちろんそれでは飯を食えないから、ぼんくら私立中学で国語の非常勤講師をやっている。客観的にみれば、そっちが本業ではある。
需要のない小説を書いており、かつて一度だけ賞を獲ったことがあり、非常勤で国語を教え(時給二五〇〇円)、星占いのアルバイトをしている——。それがおれの現状だ。
死んだ友人からの年賀状を読んでセンチメンタルになったわけではないが、三月、おれは教員の仕事を辞めた。
そろそろ潮時だとは思っていたのだ。非常勤なんて、いつまでもやる仕事ではない。公立の教員採用試験を受けるか、いっそ別の仕事でもやってみるか、いや、本当はもっと、物書きとして……。
おれも三十である。辞めるなら、今だと思った。このタイミングを逃したらいつまでもずるずると過ごしてしまうだろう。おれだって、いつどこで亀山のように突然死するかわからない。
そのようにしてなんとなく、木の葉が枝から落ちるように、仕事を辞めた。しばらく自分の文章と向き合って過ごそうと思う。
一 ねこ探しています
暑い。
アパートのおれの部屋は一階で、熱気がこもる。部屋に備え付けのエアコンは調子が悪く、かたかたと不吉な音を立てるばかりで役立たずだ。まったく、いつのまにこんなに暑くなったのだろう?
せっかく仕事を辞めたというのに、おれの小説は遅々としてすすまなかった。仕事を辞めたのが三月で、ぶらぶらするままもう七月だ。煙草の量ばかりが増えて、それもまた生活を圧迫しつつあった。おれの生活は早くも停滞していたのである。
昨晩、元同僚の梅打に近況を愚痴っていたら、梅打の奴め無責任にげらげら笑ってこう言った。
「そういうときは女子だ女子!」
などとけしかけて、おれをウサギ耳のオンナノコのいる店やらストリップ劇場やら連れまわし、すっかり散財させられた。ちくしょう、ストリップといったって、古い劇場で踊っていたのはばばあばかりだった。それでもおっぱいにさわらせてもらう賃として、ばばあのヌード写真なんぞ買ってしまった自分の調子のよさに呆れる。(いまいましいので、そのポラロイドは本棚に突っ込んでおいた)
めずらしく深酒したため、昼になっても頭痛はひどかった。真っ裸で布団に転がって、きのうの踊り子の真似してちょいとくねくね足を開脚して踊っていると、コンコンとドアを叩く音がした。
「すみませーん……」
女の声だった。そういえば我が家は呼び鈴が壊れているのだった、仕方なしにドアをノックしているらしい。
さては宗教勧誘かと身構えたが、わりにきれいな感じの若い女の声だったので、ドアを開けてみようと思った。ひまだから話を聞いてやってもいい。神を信じますかときかれたら、おれが神だと言ってやる。
「はい」
ドアを開ければ予想通り、立っていたのは若い女だった。青い水玉模様のワンピースを着た小柄な女である。猫を抱えていた。
「こんにちは。鶴森さんのお宅ですよね。あの、猫を探してきました」
そう言って、女はおれに猫を差し出す。
……猫? 探してきた? 神でも壺でもなく、予想外の語句が飛び出してきたので面食らった。
「ねこ?」
差し出された猫はでっぷり太った黒猫で、ふてぶてしい顔つきである。左右の目の色が異なっており、青と茶の視線にじろりと射抜かれた。
「はい。貼り紙を見て来たんです」
「貼り紙って、何です」
「これです」
女が紙きれを見せる。猫の写真と一緒にこんな文言が印刷されていた。
ねこ探しています。
黒猫。オス。右目が青で左目は茶色。
名前はソーダといいます。
見かけたら連絡ください。
鶴森ハルオ
雑司が谷三丁目 ◯△ー△ 甘木荘一◯二
たしかにおれの名前と住所である。しかしおれはこんなチラシをつくった覚えはないし、そもそも猫なんて飼っていない。
「……なんですかこれ、何かの間違いでしょう」
「でも、貼ってあったんですよ」
誰かのイタズラだろうか。しかしいったい、誰が、何のために。
「猫ちゃん、大鳥神社にいましたよ。よかったですねえ、見つかって」
女は笑って言う。
「いや、僕は猫を飼っていないんです」
「そうなんですか? じゃあ、これは」
「知りませんよ。このチラシ、どこに貼ってあったんです?」
「どこって、すぐそこの電柱や掲示板や……」
あわてて表に出てみれば、たしかに電柱に貼り紙がしてあった。振り返ればアパートのブロック塀にまで貼ってあるではないか。
「なんだこれは。いつからこんなものが」
「さあ……。私はチラシを見かけたあとに、たまたま神社でこの猫ちゃんを見つけたものですから」
誰かが勝手におれの名前と住所を使って、猫探しのチラシを作っている。おれのまるで知らない猫である。なんと手の込んだイタズラだろう。
「ともかくね、僕の猫じゃないんです。僕は猫を飼っていないし、このチラシにも覚えがない。誰かのイタズラでしょう」
「そうですか」
女は残念そうな顔をした。
「この猫、どうしましょうか」
「どうするって……、持って帰ってくださいよ。僕の猫じゃないんですから」
女は猫を抱いたまま、どうしようかしら、元の空き地に戻せばいいのかしら、保健所に連れて行かれないかしら、そもそもイタズラなのかしら、不思議だわ、などと呟く。
……いやな予感がした。
「鶴森さん、この猫ちゃん、預かっていただけませんか?」
女はパッと笑顔になってそう言った。
「ええ? なんで僕が」
「お願いできませんか。ほんの何日かでいいですから」
「困りますよ。猫が心配なら、あなたが預かればいいじゃないですか」
おれは思い切り迷惑そうな顔をしたのだが、女はまるで意に介さず、鈴の鳴るような声ですらすらと言う。
「私のアパート、ペット禁止なんです。ね、これも何かのご縁というか、人助け、猫助けと思ってお願いします。私、猫が好きなもので、なんとなく放っておけないんです」
「いや、でも……」
「私が新たに貼り紙を作って、飼い主を探します。近所の方に、聞き込みもしますから」
そう言うと、女はひょいと猫をおれに手渡した。まるで自然な仕草だった。瞬間、女の髪からふわりと花の香りが漂った。
思わず、猫を受け取ってしまっていた。
「……重たい」
女はニッコリ笑った。
「ありがとうございます。ご安心ください、しっかり謎は解明してみせますから!」
「や、謎って、そんな大層な」
「いえいえ、これは立派な事件ですよ。鶴森さんは猫を飼っていないのに、猫を探すチラシが勝手に貼られていたのです。しかも、その猫はちゃんと存在しているのです。とても不思議です」
「はあ」
「鶴森さんも、誰がなんのためにこんなことをしたのか、気になるでしょう?」
「……まあ、それはそうですけど」
じゃあ決まりです、そう言って女は手帳を取り出すと、さらさらとペンを走らせた。
「私は佐藤ミユキといいます。これ、私の連絡先です。あとでメールくださいね。それと鶴森さん、ひとつ聞かせてください。鶴森さんは、猫がお好きですか?」
「……ま、わりと」
「なるほど。わかりました。ではまた連絡します」
ぺこりと頭を下げて、帰って行った。
佐藤ミユキ。
年齢はおれと同じくらいだろうか。小柄でひとつに結ばれた髪は茶色、ワンピースから伸びたすんなりと白い脚が二日酔いの頭に眩しかった。渡されたメモは、すっきりとしたきれいな字だ。
まあいいだろう。どうせひまなのだ、猫を預かるのも悪くない。よくわからないが、人助けなら良いじゃないか。太宰治も、作家は弱者の味方であるべきだと言っていた。
……断じて、断じて、佐藤ミユキがわりにかわいかったからでは、メールアドレスにつられたからでは、ない。断じてない。うむ。
そういうわけで、おれはしばしの間、猫と同居することになったのである。
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