わたしが若かったころ、ときどき街の小さな映画館で、一週間しかかからないような映画を観るのが好きでした。
アクションや劇的なラブストーリーなどではない、でもたしかにそこには人生の悲哀ややさしさを感じる静かな映画。
エンドロールがおわってビルの(そういう映画館は、えてして雑居ビルの二階などにあるのです)階段を降りるとき、わたしのちっぽけな人生は、かけがえのない愛おしいものとして目にうつるのでした。
「猫を飼う」を読み終えたとき、まさにあのときの、ふだんと変わらない世界がキラキラと輝くような感覚が蘇りました。
東京・雑司ヶ谷という土地に土着した、静かな、でもたしかにドラマチックな物語。
友人の死を機に仕事を辞めた、売れない物書きのハルオ。
貼ったおぼえのない猫探しのポスター、猫を連れてやってきたミユキ。
謎の猫「ソーダ」をめぐり、雑司ヶ谷の地上や地下をさまよう不思議な旅がはじまります。
オカワダさんの小説の好きなところは、とにかく文章が自然で、かっこつけていなくて、それでいて洗練されているところです。
浴びていて気持ちのいい文というものにはなかなか出会うことができないのですが、オカワダさんの文章はとにかく、読んでいるあいだずっと気持ちがいい。
その気持ちよさに身をゆだねているうちに、びっくりガードでびっくりし、そして、物語は一気に地下(?)へ(すみません、ちょっと妄想が入ったかも)!
日常と非日常をぽこぽこと行き来する流れもとても巧みで、ときにワクワク、ときにしんみりしながら読みました。
人物描写もいつも素敵で、主人公のちょっと頼りなさげだけどお人よしっぽいところとか、ミユキちゃんの、かわいくてちょっぴりしたたかな感じとか、それから、脇を固める先輩方(?)も個性的で素敵で、なんだか、青春!という感じです。
この物語は、ご結婚されるお友達へのプレゼントとして書かれたものなのだそうです。
それを知ってから読んだので、はじめは、物語のなかで「死」についてたくさん語られることに、少しだけ驚きました。
でも、結婚するということは、家族になりどちらかが先に死ぬということですから、相手の生も、死も、まるごと受け止めるということなのでしょう。
私事で恐縮ですが、配偶者との結婚式のときよりも、ふたりで一緒に葬儀に出席した日のほうが「夫婦だな」と実感したことを想起しました。
結婚についていろいろと複雑な思いもあるこの世の中ですが、形はともあれ、ともに生きていくということは、きっとそういうことなのでしょう。
好きなシーンはたくさんあるのですが、読まれた方それぞれ、グッとくる場面があるんじゃないかな、と思いました。
わたしは、中学生がお好み焼きを作りに来るシーンがとっても好きです!
ポップでキュートで不思議、せつなくて、かわいくて、キュンとして、愛おしい、
人生は愛おしい!と思わせてくれる、そんな物語でした。
私が仕事で雑司が谷に行ったとき抱いた印象は「あわいの街」でした。
たとえるなら、赤と白の水彩絵の具を溶かした水が混ざり合うとき、真ん中にできるメヨメヨっとした部分、みたいな街。
路面電車(都電荒川線)が走り、しっぽりした喫茶店や古本屋があって、まるで都心とは思えないのどかさですが、池袋に近いので北の空を見上げるとドカーンとサンシャイン60が建っていますし、東京メトロ副都心線の雑司が谷駅はとてもキレイで都会的です。
猥雑な繁華街と閑静な住宅地、彼岸と此岸、生と死、それらが混じり合う境目に、雑司ヶ谷という街があるように思ったのです。
そうそう、無数の死者が眠る雑司ヶ谷霊園は、それだけで彼岸に近いように感じます。そういえばサンシャイン60だって、巣鴨プリズンの跡地なのでした。雑司ヶ谷霊園に眠る東条英機らが処刑された場所でもあります。
そして「猫を飼う」は、雑司が谷というあわいの街に実にぴったりくるお話だなあと思いました。
(ちなみに同行していた先輩が「雑司ヶ谷霊園には猫が多い」と教えてくれました。
木陰が多く墓石も冷たいので気持ちがいいのだろう、とのこと。私は会えませんでしたが!)
はたして生と死には、境目があるものでしょうか。
ハルオは死について、「死ぬのってそんな感じなんだろうか。急に、まちがった曲がり角をまがってしまって、落とし穴に吸いこまれてしまうような」と言っています。彼はある瞬間にくっきり生と死が分かれるものだと思っていたようです。
かく言う私も先ほど「境目」という言葉を使った通り、生と死の間には境界線がないことを忘れていました。境界線があってほしかったのかもしれません。死ぬのは怖いですし、普段の人生の中にそっと紛れ込んでいてほしくはないものです。
けれども「猫を飼う」では、犯人さがしのパートと不思議な体験をするパートが徐々に混ざり合い、生と死も渾然一体となっていきます。というよりも、生と死とは本来そういうものなのでしょう。先ほどの水彩絵の具の喩えを使い回すなら、私たちの「生」は真っ赤ではなく、「死」の白が混ざったピンク色なのだということに気づかされるのです。
その感覚は少なからず恐ろしいのですが、それゆえに生を実感させてくれるものの美しさやぬくもりが、際立って輝くようなラストがすばらしい作品でした。
ちなみに、先ほどのハルオの問いにはある人物が答えてくれるのですが、その言葉がとても素敵だなと思ったので、ぜひ本編でお確かめください。
これこそ文学というものなのではないか!?と思いました。
あるいは哲学です。
多くのひとに読んでもらって「これは何のメタファーだったんだと思う?」と聞いてまわりたい一作です。
「これは何だ!?」「あれはどういうことだったんだ!?」という事象がたくさん散りばめられていて、いろいろ考えながら読んでいたんですけど、読み終わった今思い返すと、そうか、なんだかよく分からないけど、そういうことだったんだ、みたいな謎の満足感で満たされます。
ストーリーにはそんなに変わったファンタジーはありません。
雑司が谷は実在の町だし、描写からして何となくうらなりも迷亭も銭湯も実在するんだろうと思うし。主人公の鶴森ハルオをはじめとして、すべての登場人物が雑司が谷を探せば暮らしているのではないか?
これは鶴森ハルオ青年のエッセイなのではないか?
そんなリアリティのあるドラマです。
たくさんの人物(キャラクターという感じではない!)が出てきてあれこれ鶴森ハルオの生活を引っくり返してくれます。
実際にやられたらたまったもんじゃないだろうな。なんだかどんどん鶴森ハルオに感情移入をしていきます。
押しかけてくる中学生たちも、迷亭のママも。あー、いるいる、こんなひとたち。
でも、いつかふと、気づくのです。
この雑司が谷、何かおかしくない?
気づいた時にはもう遅い。あなたはすでに裏の雑司が谷にいます。
ふしぎの国雑司が谷に足を踏み入れてしまった!
いったいどこまでが表の雑司が谷でどこからが裏の雑司が谷だったんだろう?
マスターとじいさんは、松尾可先輩は、亀山は、そして猫のソーダは何だったんだろう?
しかしそんな不思議もすべては鶴森ハルオと佐藤ミユキの関係に集約されていくのだ。
おお、まさかのめでたしめでたし!
すべてはソーダが仕組んだことかもしれません。猫は可愛いだけではありませんからね。
すさまじい完成度です。良質な邦画を見たあとの気分になりました。
読みやすい文体ですしすぐ引き込まれるのでさくっと読めると思います。多くのひとにこの不思議な世界を体験してほしいです。