昭和初期、炭鉱街で暮らす少年ふたりのひと夏の交流を、繊細で透明度の高い筆致で描いた作品です。
スクリーンの中の女優「マリア」を、「あれは僕なんだよ」と言う葛城。
それを純粋に信じた岸沼は、マリアと葛城と、どちらに惹かれたのでしょう。
葛城の家庭環境は詳しく語られませんが、おそらく(岸沼とは違って)貧しいのだろうとさりげない描写から察することができます。
彼にとって弁士のいない無声映画は、ほかの誰かになれる特別な時間だったに違いありません。
けれどもその「特別な時間」は、子どもだけに与えられるはかない奇跡です。
時間は子どもを大人にし、時代は過去を暴力的に押し流していく。
その波間に一瞬かがやいた、花火のような物語でした。
>少年はスクリーンに映しだされる女優を指差して言った。
>
>――あれは僕なんだよ。
不可思議なシチュエーションが、あらすじで提示される。
ミステリー? ファンタジー? SF? 興味を覚え、読み始め、止まることなく読みきった。
主人公は語り手でもある岸沼。炭鉱町に暮らす比較的裕福な少年。
そして彼が夏休みの他に客もいない映画館で出会ったのは、同級生の葛城だ。貧しく、映画館で雑用をして日銭を稼ぐ彼は、しかし美しい声の持ち主で、冒頭の不可解な台詞を口にする。
無声映画。弁士もいない。外国の映画だからストーリーもわからない。だが葛城は女優の台詞を生き生きと吹き替えてみせる。彼に導かれ、岸沼はその映画を毎日少しずつ観進めていくことになった。
無声映画を観る。白黒の画面に映る異国の女優の美しさに魅せられる。そして同時に葛城の声を聴く。彼の紡ぐ声と物語に心惹かれる。岸沼を捉えたのは、果たしてどちらか。
奇跡のような時間にはやがて終わりが訪れる。結末は苦い。けれど彼らにとって一生忘れがたい出来事となったのは……その苦みがそこまでの甘美さをより強く引き立てたからなのではないか。そんなことを思った。
「一瞬の煌めきを切り取った」という表現を使われることは多いもの。それは食レポにおけるレトロな店の料理を「どこか懐かしい味」と書いてしまうほどに、安直に出てくる表現でもあります。でもこの作品は人のいない映画館という、映画好きならワクワクしてしまう状況に甘えず、光の向きと当たり方をうまく利用して閉鎖空間の淫靡さと、自分と別の客体とを行きつ戻りつする少年に向ける主人公の視線を導いてくれます。
どう見ても苦しい状況にある少年が見せる、自分ならざるものに一時変化する色気。それを共有する、共犯者の主人公。この先も続いていく少年の貧しき人生、という連続したフィルムと、切り出した美しいスチール写真。その色合いの変化も美しい一本。