桜メッセージ
花岡 柊
桜メッセージ
毎朝通うのが日課になっている駅前のカフェは、電車が駅に着くのと同時に混み合っていた。みんな考えることは一緒で、美味しいコーヒーを片手に会社へと向かうのだ。
そんなカフェで暑い夏の季節から見かけるようになった彼は、手馴れたようにお客の注文を聞き、手馴れたように数あるコーヒーを作り提供している。
長すぎない前髪はサラリとしていて癖がなく。僅かに面長な輪郭に、瞳はキリッとしているのにどこか柔らかくて、目があってしまえば逸らすのが名残惜しいほどで、つい笑顔で誤魔化してしまう。
真っ白なシャツの袖を肘の辺りまで無造作にまくることで見えている腕の筋がセクシーで、カフェエプロンがよく似合う。レジでのやり取りでは、お釣りを受け取りながら、手の甲に浮かぶ血管にドキッとしていた。
カフェに寄るのは、暑い夏よりもずっとずっと前から私の日課になっていたのだから、目的は当然コーヒーなのだけれど。それでもやっぱり、目が合い注文するだけの会話を求めてしまうのは否めない。
「おはようございます」
明るく声をかけられれば、自分だけが特別じゃないとわかっていても、心は瞬時に踊り出す。下手をすれば、頬が上気してほんのり赤味を帯びてさえいるかも知れない。
「いつものでいいですか?」
訊ねられればこくりと頷くのも、いつもの習慣。
できればもっと話したいから、毎回違うものを頼めばいいのだけれど、後ろに並ぶ長蛇の列が気になるし。何より、いつものと憶えてくれていることが嬉しいのだからしょうがない。
ただ、寒くなった頃からたまに付け加える言葉があった。会社へ着くまでに冷めて欲しくないから。
「あの、熱めにしてください」
「はい。エキストラホットで」
はい。のところで笑い返されれば、つられるようにこちらも目尻が下がる。
いや、釣られるどころか、もしかしたら私の笑みに彼がつられている可能性もある。だって、ここにくると私の頬は緩みっぱなしなのだから。平静を保つことの難しさが、彼のいるこの場所にはあるんだ。
「あちらのカウンターでお待ち下さい」
奥にある受け取りカウンターを、いつものことなのに彼は丁寧にしっかりと手で示す。それに頷きを返してしまえば、今日のトキメキタイムは終了だ。
私がレジから離れれば、彼は次のお客様の相手をする。仕事なのだから当然だけれど、同じように笑いかける姿を見てしまえばきゅっと心が苦しくなる。
私だけ、なんてそんな特別なことがあるわけないのに、挨拶と笑顔に期待して、同じように次のお客様にも挨拶と笑顔を向けているのを見れば落胆せずにはいられない。
あんまりアップダウンが激しいと、息苦しくて深呼吸を何度もしなくちゃいけなくなるから、なるべく自分以外のやり取りは目にしないようにしていた。
レジをしている時はバリスタ側に来ないので、他のスタッフが淹れたコーヒーを受け取って帰るだけ。バリスタ側にいる時に会話することはほぼないけれど、それでも彼が真剣な顔つきでコーヒーを淹れる姿を眺めるのも悪くない。
キュッと唇を結んで真剣な眼差しでコーヒーを淹れている姿は、見惚れるには充分すぎるほどだ。それに、熱々にしてもらった時は、スリーブしますね。なんて笑顔付きで声をかけられて嬉しい時もある。
今日コーヒーを淹れてくれたのは女性で、スリーブはしてくれたけれどマドラーがない。マドラーで口を閉じてもらわないと、熱々のコーヒーが時折歩く振動に負けて飛び出すことがあるんだ。
「マドラー、して頂けますか?」
遠慮がちに声をかけると、ニコリと応対。ここは、店員さんの笑顔がいつも満点だ。気持ちよくコーヒーを受け取れる。
カップには、スタッフ達の気遣いで時折メッセージが書かれている。“fight!”や“お仕事頑張ってください”やニコちゃんマークなど色々だ。
ほんの些細な言葉だけれど、それが嬉しかったりする。
受け取ったカップに笑顔を向ければ、今日も一日が始まる。
会社の近くには、公園がある。ブランコに滑り台、砂場にベンチ。それから公園を囲うように咲く桜の木。この季節になると、近所の人や近くの会社の人たちが花見を楽しんでいる。
昼間は賑やかだけれど、夜はわりと静かだ。夜桜を観るには、うるさすぎなくて穴場だと思う。
桜の季節になると、仕事帰りに夜桜を眺めながら帰ることもあった。
一息入れに席を立ち、窓辺によって公園を見下ろせば、家族づれの楽しげな声が聞こえてきて、こちらも楽しい気持ちになってくる。
今日のランチは、お花見にしよう。
随分と咲き始めていた桜は、七分咲きくらいだろうか。淡いピンクの花びらがさわりわさりと風に揺れている。
鼻歌交じりにランチへ出かけた。昨夜テレビで聞いた懐かしソングが頭から離れず、サビの部分ばかり何度も繰り返す。コンビニ弁当というのが味気ないけれど、見上げた青空に淡いピンク色が揺れる姿はなんとも微笑ましい。
ベンチに座り、おかずを口の中に放り込んで空を見上げればやっぱり鼻歌が漏れて、自分でも不思議なくらい気分がいい。
ぽかぽかと暖かい晴れの日の桜パワーは、すごいなぁ。
すっかり完食したお弁当のからをゴミ箱へと捨てに行くと、近くにある桜の木の枝には名札が付いていて、カタカナで「イチヨウ」と書かれていた。
「銀杏?」
桜なのに?
首を傾げながらベンチへ戻り、携帯で検索してみる。画面には「一葉」の文字。
なんだ、間違いじゃなかったんだ。銀杏じゃなくて、一葉ね。
一つ賢くなって、また鼻歌が漏れる。
ランチの残り時間、ベンチに座って桜を見ながら子供みたいに足をブラブラさせていた鼻歌混じりの私に、聞いたことのある声がかけられた。
「ご機嫌ですね」
微笑むような声のする方へ視線を移してみたら、驚くことにカフェの彼だった。
あまりに驚き過ぎて、声にならない。しかも懐かしソングの鼻歌まで聞かれて恥ずかしすぎる。
「桜。綺麗ですね」
真っ赤な顔をして驚く私のそばに、彼がそう言いながら近づいて来た。
いつものカフェエプロンをとった姿は、ジーンズにシャツというスタイルでさっぱりとしている。
彼が私の座るベンチの近くまで来て桜を見上げた。
いつもと違う距離感。間にはカウンターなどなくて手を伸ばせば触れられる距離。
憧れるように毎日眺めていた人が、こんなに直ぐ近くにいることがとても不思議でとても幸せ。
そばに立つ彼をベンチに座ったまま見上げれば、僅かに上下する喉仏にトクンと心臓が反応する。男性特有のそれに視線が釘付けになってしまった。
「休憩中ですか」
訊ねられて、はいっと答えた声が上擦った。カーッと顔が熱くなるのが自分でもよくわかるくらいだ。
どうしよう、恥ずかしさに顔を上げられない。
彼の手には、自分のお店のコーヒーカップ。すでに飲み終えたものなのか、中身は軽そうだ。
「僕も休憩中です」
言いながらゴミ箱を探しているから、あっちですとベンチから立ち上がり指をさした。
「ありがと」
ニコリと私にだけ向けられている笑い顔は、いつもの営業スマイルとは違う気がする、というのは私の勝手な思い過ごしかな。
「イチョウ?」
さっきの私と同じように、木についている名札を見て彼が首を傾げた。疑問に思っているだろう彼のそばへ行き、さっき賢くなったばかりの知識を披露したくなる。
「あ、それ――――」
私が説明しようと声にしたところで、風が桜を揺らした。
さわりさわり。
撫でるように通り過ぎていった風に、花びらが数枚舞う。
こちらへゆらゆらと舞い降りる薄ピンクの花びらに手を伸ばせば、隣で彼も手を伸ばしていて。花びらはどちらの手にしようかと、ふわりふわり、ゆらりゆらり、焦らすように私と彼の間を行ったり来たり。
そうして花びらが舞い降りたのは、彼の大きな掌の上。
小さくて生まれたばかりのような薄い桃色に微笑みを向けてから摘み上げると、どうぞ。というように彼が私へと差し出した。
「ありがとうございます」
彼から私の手にやってきた花びらは、まだゆるく吹く風に僅かに身を動かしている。
「綺麗ですね」
「そうですね」
時折撫でるように吹く風に花びらが飛んでいかないように気をつけていたら、彼が再び名札にある名前を呟いた。
「銀杏……なんでしょうか?」
疑問を投げかける顔は、知らない事への恥ずかしさなのか、苦笑い混じりだ。
訊ねる言葉に答えようと私は口を開く。
「えっと。それは、銀杏じゃなくて……」
一葉です。という言葉は、彼にかかって来た携帯の着信音に遮られてしまった。
突然鳴りだした着信音に、すみません。と彼が申し訳なさそうに言って通話に出る。
「はい。すぐに戻ります」
長居し過ぎちゃったみたいです。と彼は再び苦笑い。
また、というように踵を返して公園を出て行く彼の後ろ姿を、掌の花びらと一緒にいつもよりもずっと名残惜しく見送った。
いつもの日課で今朝もカフェに寄った。桜は、一晩にして八分咲きから九分咲きになっていた。
昨日は、あったかかったもんね。
今日は、レジに彼の姿はない。少し首を伸ばせば、真剣な眼差しでコーヒーを淹れている姿が見えた。今日はバリスタだ。
会話はできないけれど仕方ない。
注文をして受け取りカウンターへ移動する。今日もいつものコーヒーで、エキストラホットにしてもらった。
「お待たせしました」
彼がにこやかに私のコーヒーをカウンターへ置く。スリーブもしてあるし、しっかりとマドラーまで刺さっていて完璧だ。完璧なだけに交わす言葉もなくて、ただぺこりと頭を下げて受け取った。
今日のトキメキはほんの少しで、一日パワー不足になりそうだ。
カフェを出て会社へ向かい、信号待ちで握るカップに視線をやると、スリーブにメッセージが書かれているのがチラリと見えた。
今日はなんて書いてるのかな?
握っていた手を少しずらして見てみたら、マジックで桜の花びらが描かれた直ぐ下には彼からの伝言があった。
「今夜、一緒に夜桜をみませんか?」
「えっ。嘘!」
あまりの驚きに声が漏れると、同じように信号待ちしていた人にチラチラと見られてしまった。
恥ずかしさに顔が熱くて、嬉しさに鼓動が速まる。
間違いじゃないかと、何度も見返してしまったくらいだ。
その夜の桜は本当に綺麗で、彼が淹れてきてくれたコーヒーはとても温かかくて。
舞い降りる桜の花びらに、私たちは何度も手を伸ばした――――。
桜メッセージ 花岡 柊 @hiiragi9
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