最終話 愛してるの言葉さえ

 その日どうやってバイト先に辿り着いたのか、覚えていない。

 気付くと時間どおりに事務所にいて、制服に袖を通していた。更衣室の鏡に映った私の顔は蒼白で、これまでのようにうまく笑顔を取り繕うことすらできそうになかった。結局チークとグロスを足して申し訳程度の偽装を施し、店先に出る。

 キッチンカウンターの向こうでは、先週と同じように彼と竹内さんが談笑していた。

 私は少し俯き、彼らと目を合わせずに挨拶をする。問題なく返される同じ言葉。私はカウンターには入らず、そそくさとトイレ掃除へ向かう。

「西野さん、なんか今日元気なくないですかぁ?」

 トイレから戻ってくるなり声を掛けてきた竹内さんに、私は口角を上げてみせる。

「うーん、まぁちょっと……二日酔いみたいな……」

 そう口ごもりながら、実際にむかむかする胃を軽く押さえた。あはは、と軽い笑い声が返ってくる。

「やだー、珍しくないですかぁ? ほんと辛そうですけど、大丈夫ですか? あたしのレモンウォーター飲んでいいですよ、飲みかけですけど」

 差し出されたペットボトルに目を落としたとき、一瞬何かが外れそうになった。

 お願いだから、これ以上私に構わないで。

 私本当はとても、ひどい人間なんだよ。

 無邪気に揺れる明るい笑顔。きっとこの子は、私のような悩みなどとは無縁なのだろう。

 そう思ったら何だか、自分の影が暗闇に沈んだような気がした。私はいったい、どこで間違えてしまったのだろうか。

「……ありがとう、でも大丈夫だから」

 力ない笑みをどうにか返して、やんわりと断る。竹内さんは気分を害した様子もなく、いつもどおり力の抜けた挨拶をして、店から出ていった。

 店の中が静かになり、私はほっと息をついた。店内にお客さんの姿はない。

 気付けばまた高原さんが私の横に立って、こちらを覗き込んでいた。

「……なんか本当に元気ないな。ここのところ調子悪そうだし、風邪でも引いた?」

 鈍感な人。

 私はほんの少しだけ彼に顔を向けたが、結局目を合わすことなく視線を下に落とした。

「えぇと……ひょっとして何か怒ってる?」

 うかがうような声色に、私は小さく首を振る。私がこういう怒り方をしたりしないことは、知っているはずだ。あなたの奥さんとは違う。

「……何かあった?」

 瞬きひとつ。

 いい加減なあなた。

 調子ばかりが良くて、無責任。

 でも私も大概のものだ。

 いろいろなものに責任転嫁して、ただ一人私だけが守れる命を、見捨てようとしている。

 そんな私がいったい、何を口にしようというのか。

 何を望もうというのか。

 謝罪とか、費用の援助とか。

 ――違う。私が欲しいのは、そんなものじゃない。

 私は少し顔を上げ、口を開く。

「……聞いてほしい、話があるの」


 ただ、誰かに、寄りかかりたかった。


 ■


 最初の検診から十日後、私は同じ産婦人科の待合にいた。

 ついてくると言った高原さんの申し出を断って、私はまた一人ソファに身を沈めていた。すっかりお馴染みとなった頭痛が、今日も私の視界を阻んでいる。

 ここの医院は、彼の奥さんと同じなのだそうだ。

 そういうところから私たちの関係がばれても困るでしょう。私の主張にしぶしぶ身を引いた高原さんに、がっかりした私は卑怯者だ。

 待合室に取り付けられたテレビから、笑い声が降ってくる。私の不遇を嗤っているのだろうか。胃がむかむかする。

 手にした整理券を、くしゃりと握る。責任取るよ。費用は出すから。そう言った彼の顔を思い出す。どんな言葉をかけられようとも、結局私は一人なのだ。わかっていたのに、期待してしまった自分が嫌だった。

 ふと斜め前を見ると、前回見かけた夫婦と思しき二人が寄り添って座っている。旦那さんの風邪は前よりも良くなったようだが、まだマスクをしている。彼らはどうやら、おなかの赤ちゃんに話しかけているようだった。

「ねぇ、パパひどいねぇ。ママを置いてゴルフ行っちゃうんだって。まだ風邪もちゃんと治ってないのにねぇ」

「えぇー、りっくんに告げ口するのはひどいよ。りっくんはパパの味方してくんないかなぁ」

「だめよ、りっくんはママの味方だもんね。ねぇ?」

 幸せそうに微笑み合う二人。その後ろ姿が、高原さんとその奥さんに重なる。

 きっと彼らの間に生まれてくる赤ちゃんは、たくさんの愛情をもらうのだろう。

 そう思ったら、途端にたまらなくなった。


 ――ごめんなさい。

 私は自分のおなかに手をあてる。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 かわいそうな、私の赤ちゃん。

 愛してあげられなくて、ごめんね。


 ――どうして、私なんかのところに。


 がちゃりと扉が開き、看護師の声が私の番号を呼ぶ。

 波のように寄せては返す後悔と懺悔。受け取り手もないその気持ちがこの罪に対する罰だというのなら、私に涙を流す資格などない。

 きっと私の罪が赦される日など来ないだろう。

 顔を上げ、席を立つ。審判の部屋に繋がる扉。それを静かにくぐる。

 警鐘のような頭痛が、今も飽きることなく頭蓋骨を打ち鳴らしている。



―了―

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愛してるの言葉さえ 陽澄すずめ @cool_apple_moon

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