第3話 沈黙の叫び
その日から、不思議な夢を見るようになった。
*
ふわふわと漂うように、何かあたたかいものが身体を包んでいた。
とくん、とくん。全身に響く音と振動だけが、この世界で確かなものだった。
ひどく不安定だ。この、居心地の良い場所は。
とくん、とくん。
なぜならここは、いずれ失われてしまうのだから――
*
目を覚ますなり、倦怠感が私を出迎えてくれた。あまりのだるさに身を起こすこともできず、私はそのまましばらくベッドに横たわっていた。
冬だというのに、じっとりと汗をかいている。
はっきりしない夢だったが、言いようのない不安感だけは今も色濃く残っていた。深呼吸しようと布団から顔を出すと、あまりの空気の冷たさに喉が張り付く。
目の端で目覚ましを確認する。九時三十五分。今日の授業は午後からだから、まだ寝ていられる。私は十一時半にアラームをセットし、再び目を閉じた。
午後の講義をそつなくこなし、夕方は間近に迫ったゼミの発表のためにコンピュータ棟で資料の作成をした。その間何人かの友人に会ったが、会話はお互いの卒論テーマや就活スケジュールを簡単に確認し合うだけの簡単なものに留まった。
頭痛と少しの吐き気を別にすれば、なんてことはない普通の一日だ。
私は短い一日を終え、再び寝床に就いた。
*
全身を包むあたたかいもの。辺りは真っ暗で、一条の光すら見えない。
とくん、とくん。誰かの鼓動が聴こえる。自分の心音かもしれない。伸ばした腕の感覚で、それが水の中だと知る。
だとしたら、呼吸は?
――出たい。ここから出たい。
途端に息苦しくなり、酸素を求めてもがき始める。
出して。ここから出して。ここでは、生きられない。
暴れる心臓。薄れゆく意識。
早く、早く、早く――
*
弾けるように、目が覚めた。呼吸が荒い。心臓がばくばく言っている。
前日の夢の続きだった。連続で見たそれらの意味するところは――心当たりはあるが、どうしようもないことだ。
頭痛がひどい。全身が汗でぐっしょり濡れている。もはや何が原因かもわからない吐き気を抑えるべく、私はベッドから這い出てコップに注いだ水道水を飲み干した。
今日は午後からサークルの予定だ。私は主幹の友人にメッセージを打ち、風邪を理由に練習を欠席したい旨を伝えた。さすがにこんな状態で、テニスはできない。
そのままスマホを操作して、更にもう一件メッセージ作成の画面を開く。宛先は――高原さん。顔を合わせてだと冷静でいられそうもないから、このメッセージで打ち明けてしまおう。だけどいったい、何を書けばいい?
胸やけと頭痛が渦を巻いて、思考は一向に定まらない。結局私は諦めて、スマホを放った。
どうしようもない、どうにかしたい。
でも今日のところは、一歩も動けない。
気ばかりが焦り、苛立ちが募っていた。
それから数日、ぼんやりした取り留めのない夢を見ては、苦しい寝覚めに息をつく日々が続いた。
私は体調不良をおして何食わぬ顔で予定どおり授業に出て、バイトをし、居合わせた人々と当たり障りのない話をした。
バイトでは彼とも顔を合わせたが、例の話は何もできなかった。私ばかりが味わうこの苦しさから、言うべきでない言葉を発してしまいそうだったのだ。だから私は大人しく平静を装った。こんな状況でもいつもどおり笑ったり喋ったりできる自分の意外な器用さには驚いたが、それはほとんど何の役にも立たなかった。
なぜならそうしている間にも、時は確実に歩みを進めているのだから。
*
遠くから、何かが聴こえる。
甲高い音で、一定のパターンを繰り返す。
最初はくぐもっていたそれは、徐々に明確なものとして私の意識に滑り込んでくる。
ああ、これは、赤ちゃんの泣き声だ。
その瞬間、視界いっぱいに広がるのは――
*
まるで、呪いだ。
布団を跳ね除けて身を起こしながら、私は手の甲で額の汗を拭った。
それは瞼の裏にしっかりと焼き付いていた。
閉じたままの目で私を見上げる、胎児の顔。
それを払うように頭を振って、私はベッドから出た。相変わらずの体調だが、休むわけにはいかない。今日は第一志望の会社の、企業説明会なのだ。
私はリクルートスーツを着込んで、大会議室の椅子に座っていた。
業界第二位の企業とあって、立派な建物だ。この会議室も、二百人近く人が入るだろう。私は後方の席から大勢の後頭部を眺めては、どこか心許なさを感じていた。
部屋の前のほうでは、人事担当者が会社概要と採用スケジュールについて説明している。ふと隣を見れば、私と同じようにスーツを着た女の子が真剣な顔をしてメモを取っていた。誰もが匿名的に前を向き、ペンを走らせ、頷き、人事担当者に真摯な視線を投げかけている。
笑い出したい気分だった。大声で叫んでしまいたかった。
ねぇ皆さん、ここに妊娠していることを隠してセミナーを受けている女がいますよ。
言わなきゃ誰にもわからない。なぜなら今の私は、リクルートスーツで偽装されているのだから。真面目な顔で将来のことを考えるふりをしながら、一方でおなかの子どもを堕ろそうとしている。
どこへ行っても私は、何かを隠し続けなければならない。産婦人科でも、バイト先でも、企業説明会でも。
頭痛と吐き気は、今なお遠慮も知らずに私を取り巻いている。
きっと私に腹を立てているのだろう。
平気な顔して普通の人生を送ろうとする私に。
なんやかんやと理由をつけて、身に宿った命を消そうとする私に。
そうだ。
私がしようとしているのは、紛れもない殺人だ。充分わかっている。どんなに「真っ当な」事情があろうとも、それは逃れようもない事実なのだ。
だからきっと、このおなかに宿った子は、私を憎んでいるに違いない。
――憎まれても、仕方ない。
わかっていた。それすらも受け入れる覚悟だった。
*
瞼を閉じたまま私を見上げる、赤ちゃんの顔。あたたかな水の中で、眠っているようにも見える。
とくん、とくん。鼓動だけがかすかに聴こえてくる。
やがて赤ちゃんは、薄らと目を開ける。見えているのかいないのか、その表情は虚ろなままだ。
小さな唇が言葉を紡ぐように、わずかに動く。どんなに耳を澄ましても、聴こえてくるのは心音だけ。私が首を傾げると、赤ちゃんはゆっくり瞬きをしてこちらに手を差し出す。
笑った、のかな。
その小さな小さな掌に触れようと、手を差し出しかけたその瞬間だった。
突然赤ちゃんが目を見開き、口を大きく開けたのだ。
見れば何か黒いものが、赤ちゃんの脚に絡みついている。赤ちゃんはそれから逃れようと、必死にもがいていた。
それは命を食らい尽くす悪魔だった。私は驚き、身を竦ませてしまう。
最初は脚だけだった浸食は、次第に胴、胸、首元へと迫っていった。
どんなに赤ちゃんがもがいても、悪魔は容赦しない。最終的に残ったのは顔と、目いっぱいこちらに伸ばした両の手のみ。
黒い悪魔に飲み込まれる寸前まで赤ちゃんはずっと、こちらを見つめながら苦しそうに口を閉じたり開けたりしていた。まるで何かを訴えるように。
指の最後の一本が闇に消える瞬間、私はようやく自由を取り戻して、思い切り手を伸ばし――
*
伸ばした手が空を掴んで、私は現実に引き戻された。
見慣れた天井がひどく遠い。手の甲を額の上に落とし汗を拭おうと滑らせると、目尻からこめかみに涙が伝っていることに気付く。
わかっていたつもりだった。
いろいろなことを考えたつもりだった。
でも私はこれっぽっちも、わかっていなかったのだ。
体裁とか、費用とか、高原さんへの恨み辛みとか。そんなことは問題ではなかった。
夢の中で、悪魔から逃れようとしていた赤ちゃんの様子を思い出す。声もなくぱくぱくと動く唇。あれはまるで、こう叫んでいた。
『おかあさん、たすけて』
――あの手を掴めるのは、私だけなのに。
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