第2話 正当な理由
私がバイト先に到着したのは、割とぎりぎりの時間だった。病院を出たころはまだ余裕があったのだが、電車に揺られているうちに気分が悪くなり途中の駅で降りてしまったのだ。
事務所で手早く制服に着替え、タイムカードを押す。そして体調の悪いことを気取られないよう息を整え、店先に出る。
「おはようございまーす」
いつもと変わりない調子で挨拶をする。キッチンカウンターの向こう側には店長とバイトの後輩の竹内さんがおり、何やらにこやかに雑談をしているようだった。ランチのピークと三時のピークの合間に挟まれたアイドルタイムの今は、店内にお客さんはいない。
店長は私の姿を見ると、軽く挨拶を返してからカウンターの外に出て、店内の清掃を始めた。そんなあからさまに、と思ったが、私も特に何でもないふりをして彼と入れ替わりでカウンターの中に入った。
「おはようございまぁす」
私と交代で二時までのシフトの竹内さんが、間延びした声で挨拶をしてくる。近くの有名お嬢様大学に通う彼女は、普段のマイペースに加え、仕事終了間際ですっかりオフモードの表情だった。
そんな竹内さんが、緩く巻いた栗色の髪を指先で弄りながら話しかけてくる。
「ねぇ西野さん聞きましたぁ? 店長のとこ、あと一ヶ月で赤ちゃん生まれるらしいですよ」
「へぇ」
私はさも、それは初耳ですと言わんばかりの表情を作った。そして先ほど産婦人科の待合室で見た夫婦のことを、ちらと思い出す。
「そりゃめでたいね。男の子? 女の子?」
「女の子らしいですよ。さっき聞いちゃいましたぁ」
にこにこと話す竹内さんには「へぇ」と返しつつ、私はモップで床を磨く店長に向かって「店長ー、おめでとうございまーす!」と明るく声を投げかける。すると彼は軽く右手を挙げながら、得意顔をこちらに向けてきた。
「店長、初めてのお子さんだからって舞い上がっちゃってぇ、なんかその話ばっかりしてくるんですよぉ」
「まじで? 業務妨害じゃん、それ」
ですよねぇ、と軽く笑う竹内さんに、私も笑い声を合わせる。気付くと店長がカウンターの前に来て、呆れ笑顔で私たちを見ていた。
「おいおい、なに聞こえよがしに俺の悪口言ってんの。ほら竹内さん、もう上がりの時間でしょ。タイムカードオーバーしちゃうよ」
「はぁい」
竹内さんは相変わらずくすくすと笑いながら、「お疲れさまでしたぁ」と本当に疲れてしまうようなトーンで挨拶をして、事務所へと消えていった。
竹内さんがいなくなると、先ほどまでの賑やかさが嘘のように店内はしんと静まり返る。店長が何か言いたげにこちらを見ていたが、私は目を合わせず軽く肩をすくめて、トイレ掃除に向かった。
こういう距離感って、難しい。
その後は三時のピークがやってきたので、変に手が空いてしまうなどということはなかった。いつもどおり、淡々と仕事をするだけだ。トレイの上で湯気を上げるコーヒーやミネストローネスープの匂いが何度か吐き気を誘ったが、深く長く息を吐いてどうにかやり過ごした。
お客さんの流れが途切れ、ふと人気がなくなったときだった。
吐き気を無視しながらサーバーにコーヒー豆を補充していた私のすぐ隣に、いつの間にか店長が立っていた。
彼は私の背に軽く手を置き、私の顔を覗き込んで言う。
「大丈夫? なんか今日、顔色悪くない?」
私は動揺を隠して、笑顔を作る。
「大丈夫です。いつもの貧血だから」
「そう」
彼は頷きながらも、なぜか私の横を離れようとしない。何度かタイミングをうかがうような間があったあと、彼は再び口を開いた。
「あのさ」
「うん」
「さっき、ごめん」
「何が」
「いや……」
私は視線を手元に固定したまま、ミルクを補充する作業に移った。私より頭一つ分大きい、十も年上の男の人が、顔を見なくてもわかるほどに困り果てている。
いつもはそれで満足するのだが、今回はそういうわけにはいかない。私は顔を上げ、上目づかいで彼を見る。
「今度埋め合わせしてね、高原さん」
「いつもどおりの」私の反応に、店長――高原さんは頬を緩め、私の頭にぽんと掌を置く。そして「いつもだったら」私がバイト中に名前で呼ぶと怒るくせに、今日はそれをしない。
そんなに後ろめたいか。
フード補充のため冷凍室に向かう彼の背中を眺めながら、私は思った。
――やっぱり、言えない。
今年三十二歳になる高原さんとは、付き合って一年半が経とうとしている。大学二年の春からこのカフェでバイトを始めたので、出会ってから二年弱だ。
職業柄か、彼は年齢より若く見える。最初のころ、二十代だと思っていた。笑顔が爽やかで、話も面白い。そのくせ物腰は落ち着いている。ひどく子どもっぽい前の彼氏と別れたばかりだった私は、今度付き合うならこういう人がいいと、漠然と思っていた。
私が彼に連絡先を聞いたのが最初だった。旅行先から写真を送りたい。確かそんな口実を作って、教えてもらったのだ。
私からは敢えて訊かなかったし、なんとなくそうではないだろうとも思っていたのだが――実は彼は、既婚者だった。誘われて行った食事の最中に、奥さんから電話がかかってきて発覚した。
恐らく、そこでやめておけば良かったのだ。それは今でも思っている。でも、引き止めてきたのは彼のほうだった。
知らなかったのだ。好きになった人にたまたま、奥さんがいただけのことだ。以来私は、自分にそう言い訳し続けている。
■
アパートに帰って安定の悪いパイプベッドに横になりながら、私は超音波写真を眺めていた。ワンルームの部屋では、玄関近くに置いた冷蔵庫が低く唸っている。いつもは意識の下に潜っているその音が、今日はなぜだか神経に障る。
長時間立ち仕事をしたせいか、身体がひどく重い。頭痛がこめかみのあたりを脈打ちながらガンガン響き、その脈動と目の前の写真があの映像を再生させる。
中絶するなら、早いほうがいい。
こういう事態になって初めて知ったのだが、そのほうが身体に負担をかけず、費用も安く済むのだとか。
できるだけ授業をサボらず単位をきちんと取ろうと考えると、テスト期間が終わり春休みに入ってから手術をするのがベストだろう。そのころ、胎児はおよそ十週目になる。そろそろ就職活動も本格化し始めるころだから、あまり影響が及ばないようにしたい。
私は身を起こし、写真を手帳に挟んでテーブルに置いた。眩暈で頭がふらふらする。次のバイトは日曜の朝からのシフトだ。できれば休みたいところだが、今後のことを考えるとそうもいかない。
妊娠・出産にかかわる費用は、基本的に健康保険適用外だ。出産費用がそうなら、中絶費用などなおのことだろう。
今日の診察だって、初診だったせいもあるが百パーセント負担で六千五百円も取られた。中絶手術の費用は、ネットで調べたところによると八~十五万円が相場らしい。できれば安いほうが助かるが、身体に異常が残ったりしたら困る。
週三回のバイトで得られる収入は、頑張っても月五万円弱。それもほとんど食費やサークル費で消えてしまい、貯金はほとんどないに等しい。シフトを増やそうにも授業が入っていたりサークル活動があったりして、これ以上はなかなか難しいのだ。
仕送りを前借りすることも思いついたが、お金に厳しい両親なので、理由を問い詰められるに違いない。もちろん正直に理由を話すことなどとてもできない。うっかり口を滑らせでもしたら、きっと相手のことまで根掘り葉掘り訊かれるだろう。そうなったらどんな厄介なことになるか――父親など、怒り狂って高原さんのところに殴り込みに行くかもしれない。
かといって友達に借りることは、できるだけしたくなかった。誰も彼も皆似たような経済状況なのだ。それに私とてすぐに返せる見込みもないので、そんなことで人間関係にヒビを入れたくはない。
――やはり、高原さんに打ち明けるか。
ふと、今日の彼の様子を思い出す。生まれてくる赤ちゃんの話を、竹内さんと嬉しそうにしていた彼。「おめでとう」の言葉に、右手を挙げてみせた彼。それらのことに対して、私に謝罪する彼。
奥さんとの子どものことを、そんなに私に後ろめたく思うくらいなら、なぜ避妊してくれなかったの?
彼の無責任さに対して、徐々に怒りが芽生えてきた。
いっそ大騒ぎしてやろうか。そんなことも考えた。自宅に電話をかけて、泣き喚きながら彼の奥さんに事実を話すのだ。きっと彼は困るだろう。もしかしたらそれが原因で家庭が崩壊するかもしれない。
でも流されながらここまで来た私には、結局そんな大それたことなどできやしないのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます