愛してるの言葉さえ

陽澄すずめ

第1話 ブラックホール

 警鐘のような頭痛が、頭蓋骨を打ち鳴らしている。

 全身を包む倦怠感と眠気に抗うように身を起こして、視線を滑らせる。淡いピンク色に統一された待合室。私の座る位置から右手上方の壁に掛けられた時計は、十二時三分を示していた。

 そろそろ、出席するはずだった講義が終わる時間だ。バイトまではまだ二時間近くある。

 私は小さく息をついて、再びソファに身体を沈める。最初はやけに深いソファだなと思ったのだが、身を預けるようにしてそれに座るおなかの大きな女性を見て、妙に納得した。たぶん、あの姿勢がいちばん楽なのだろう。

 それにしても待たされる。

 私は手の中にある「42」と書かれた小さな紙を、くしゃりと握る。中待合へと案内する通し番号は、先ほどから私の一番手前で止まっている。

 文庫本でも持ってくるべきだった。ソファに座る人の姿勢に合わせてかなり上のほうに設置されたテレビはわざとらしい笑い声を延々上げ続けるバラエティ番組を映していたし、ラックに並べられた妊婦用の雑誌は手に取る気もしない。かといって発表の近いゼミの資料を広げるのも、ひどく場違いな気がする。

 さしあたってすることもなくぼんやりし始めた私の思考を、しわがれた咳が遮る。見ると二つ左隣のソファに一人で座る男性が、口元を押さえて激しく咳込んでいるのだった。

 こんなところに、風邪を引いた旦那を連れてくるなんて。

 恐らく診察中の奥さんを待っているだろう彼に軽い非難の視線を送りながら、視界の端で呼び出し番号のデジタル表示が「42」に変わるのを見た。中待合の扉が開かれ、私の母親くらいの年代の看護師が「四十二番の方ー」と声を張る。私は資料の詰まった重い鞄を持ち、頭痛を振り払うように深く息を吐いて、ソファから立ち上がった。

 私と入れ替わりで外待合に出てきた三十代半ばほどの女性が、「男の子だって」と笑顔交じりに言いながら先ほどの男性の元へ歩いていった。彼は咳込みつつも、「本当か、良かった!」と嬉しそうな声を上げる。私はそれを背中で聞きながら、中待合の扉を閉めた。


 中待合でも五分ほど待たされ、ようやく診察室に通される。

 自分の父親とだいたい同年代の医師は、私が受付で書いた問診票にさっと目をやると、「じゃあまず内診からしますね」と短く言った。アコーディオンカーテンで区切られた内診室に手際よく案内された私は、看護師から「靴と下着はそこのカゴに入れて、台に上がってください」と説明を受けた。

 言われたとおりに靴と下着を脱ぎ、いざ内診台に上がろうと目を向けたとき、私は思わず逃げ出したい衝動に駆られた。

 その台は奇妙な形をしていて――初めて歯医者の診察台に上がろうとしたときの感覚を思い出した。座ったときちょうど目の前になる位置に、ノートパソコンくらいの大きさのモニターが設置されている。画面は真っ暗で、右上のほうに訳のわからない数字やらアルファベットやらが並んでいた。

 躊躇う私の様子に、いつの間にか内診台の向こうに移動していた医師と看護師がやわらかい表情を作る。

「大丈夫よ、すぐ終わりますからね」

 そう言われては、逃げ出すわけにもいかない。泣き喚いて周りを困らせるような子どもでは、もうないのだ。

 平常心を装って台に上がるや、目の前をカーテンで塞がれた。腰から下が見えなくなる。それとほぼ同じタイミングで台が不穏な音を立てながら動き、身体が傾く。カーテンの向こうの脚が、私の意思に反して大きく開かれていく。

「じゃあ内診を始めますね。少し痛い感じがするかもしれないけど、すぐ済むからね」

 薄布越しの医師の声は穏やかだったが、私の不安を払拭するには至らない。心臓が苦しいまでに跳ね、腋の下を冷たい汗が伝っていく。しかし声を上げる間もなく、何かひやりとしたものが宛がわれ、内壁を擦るような痛みとともに挿し込まれた。

「はーい、力抜いててね」

 医師がやわらかい、しかし事務的な口調でそう言うが、とても力を抜くことなんてできない。挿入時の痛みは既になかったが、無機物が私の中を動く違和感に、私は肘当てをぎゅっと握ることで耐えていた。

 強くしかめた顔のすぐ先には、あのモニターがある。今そこには一面に断続的な白っぽい砂嵐が映し出されており、真ん中のあたりに親指ほどの黒い穴が開いているのが見える。

 その穴は、私の心音に合わせて激しく脈動していた。どっくん、どっくん。私は吸い寄せられるように、そのブラックホールを凝視した。

 ――これは、いったい、何?

 やがて異物が抜かれ、今度は人肌より少し温かい何かで中を拭われたあと、内診台は元の形に戻っていった。

 台から降り、下着を手に取ると、自分でも驚くほどがくりと膝から力が抜けた。指先がすっかり冷えて細かく震えている。たった数十秒のことなのに、私はひどく疲弊していた。


 下着と靴を元どおり身につけて診察室に戻り、医師の前の丸椅子に座る。

「さっき見えたこの黒いものは、胎嚢といって、赤ちゃんの入る袋です」

 医師は先ほどのモニター画像と同じ超音波写真を差し出しながら、そんな説明をする。

「まだ時期が早いから、心臓とかは確認できないね」

 まるで心臓と同じに脈を打っていたが、あれは私自身の脈動だったようだ。そのことに少し、ほっとする。

 問診票を見ていた医師が、下のほうにつと目を留め、顔を上げずに平坦な声で言った。

「それで西野さん――産まれますか?」

 その問いに、私は答えられなかった。

 何も、迷っていたわけではない。産むか産まないか、私が選べる結論は初めから決まっている。しかしそれをこの場で告げるのは、まるで相応しくない行為のように思えたのだ。ちょうどあの待合室で、ゼミの資料を広げるのと同じに。

 私が答えに逡巡するうち、医師はまたやわらかい笑みを私に向けた。

「……この時期は流産の危険性も高いですし、また十日後くらいに来てもらって、様子を見ましょうか」

 私はようやく小さな声で返事をし、礼を言って席を立つ。そしてできるだけ静かに、待合室に戻った。逃亡中であることを隠して匿名を装う指名手配犯は、きっとこんな感じだろう。

 もらった超音波写真を鞄にしまいながらも、私の脳裏にはあの映像が焼き付いていた。まるで心臓のように脈動する、小さな胎嚢。あと十日もすれば、あの中に赤ちゃん自身の本物の心臓が現れるのだろう。

 私は周囲の、どこかふわふわした幸せな雰囲気を漂わせる妊婦さんたちに聞こえないように、短く息を吐いた。


 あの問診票の下段にあった項目――『旦那さん(パートナー)について教えてください』という欄に、私は何も、記入していなかった。

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