最終話 はなしのおわり

終の終

 長い冬もようやく緩み始め、ほんの少しばかり風に温もりが戻って来た様に思う。僕は久々に布団からもそもそと抜け出し、兎にも角にも起き上がった。暫く風呂に入っていないから髪も顔も酷いことになっている。せめて髭だけでも当たるか、と本当に何日かぶりに思った。


 それで、顔だけはさっぱりさせ、脂っぽい髪は適当に撫で付けて文机の前に座る。この間まであれ程重たかった万年筆をスッと持てたのにも驚いた。原稿用紙の升目とはまだあまり相性が良くない。少し書いては紙を丸め、を繰り返した。そんな風にして夕方近くまで過ごしていると、関がぶらりと庭先に来た。


「おや、ついに籠城を解いたか」


 雨戸が開いているのを見、少し驚いた顔で奴は言う。僕は首を振った。


「暫定的にな。多分明日はまた布団だよ」

「一進一退か。何にせよ、少しは健勝そうで何より。適当なところで『帝都つくもがたり』の方も復活と行きたいね」


 関が、少し埃の溜まった縁側にどさりと腰を下ろす。冬の間は僕は取材への同行を断っている。それならばひとりでやればいいものを、この男は記事自体を休止させているのだそうだ。


「今日は何を書いているんだ?」

「思いつきだ。大した物じゃないし、書き損じばかりだが……その。僕らが出会った怪異について書いている」

「ほう」


 関が目を丸くする。その辺りに転がる紙を勝手にがさがさと開いて、中身を見た。


「赤子の怪、教師を襲う事。或いは乙女の情念について……最初の奴だな」

「そのまま書こうと思うと矢張り色々と問題が出て来そうでな。もう少し換骨奪胎かんこつだったいしていこうと思っているよ……ただ、記事の方とはかち合いやしないかい」

「ふうん」


 関はしばし腕を組み考える。


「まあ、俺も大概無茶苦茶な事を書いたしな。いっそ同じ事件について書いたと見破られない程にかけ離れた内容にすれば良いんじゃないか」

「酷い承諾の仕方だな」


 報道精神の堕落について、僕は少々悲観的な考えを巡らせた。


「どちらにせよ、わかる人間には君が記事の方に登場していると知られているのだから、少しばかり匂わせる位が通には堪らないかも知れん」

「そう言う物かい」


 春になったら菱田君に少し相談してみようかと思った。もし出版の目処が付きそうであるなら、不都合の無い様三人で話し合っても良かろう。


「題名はどうするんだ?」

「それが、良いのを思い付いたから今日起きて来た。何か頭に付けて、『ひとつがたり』と言うのはどうかなと。それこそ匂わせる風で良くはないか」

「ははあ、九十九と一か。合わせてやっと百になる。面白いんじゃあないか」


 関は愉快そうに笑った。僕も薄く笑う事が出来た。こういう言葉遊びは好きな奴だ。


「ところで、だ。君が元気そうだから、丁度良い。今日はひとつ話をしようじゃないか」


 関が不意に居ずまいを正した。僕は目を瞬く。関は鞄からガサガサと、折れてよれた一枚の紙を取り出す。


「こいつの話だ」


 それは金二十円の借用書だった。


「何だ、申し訳ないがわかっているだろう。今手持ちは無いんだよ。何か急ぎで金が要り用なのか?」

「いや、返せと来た訳じゃ無い。逆だよ。君に話さないといけない事があるとずっと思っていた」


 やけに真剣な表情で関はそんな事を言う。


「大久保。君は、この二十円をもう既に俺に返しているんだ」

「何……?」


 僕は呆気に取られる。


「全く記憶にないぞ」

「そうだろうよ。おまけに君の事だ、帳面に記録してもいないんだろう。全く。いいか、順を追って話すぞ。頼むから途中で茶々を入れたり……怒ったりはするなよ」


 そうして、関は語り始めた。



「一昨年の秋も深い頃だから、もう大分前だ。夜も随分更けた頃、急に君が訪ねて来た。驚いたよ。暫く会っていなかったからな。おまけに酒臭くてへべれけになっていた。酷い様子だった。何をしに来たのかと思ったら、急に確りした声を出して、きちんと座って、懐から札束を取り出した」


 色々と物を整理して売ってきたから、金が用意出来た。長く掛かったが、君に返済をしようと、僕は言ったのだと言う。言ったろうか。まるで覚えていない。


「その時俺は君の目を見たのさ。なんだか据わっていて、俺を見ているような見ていないような妙な目で、あっ、こいつはまずい、と思った。野放しにしたら何をするかわからん。第一、物の整理をしたと言うのも不吉だ。こいつ、どこかに行って帰らない心算ではないだろうな、と急に思ったんだ」


 僕は、他にも友人を何人か訪ねる心算だと言い、早々に関の宅を辞そうとしたそうだ。関はそれを無理に止めた。隣の家から酒を拝借してきて、只でさえ酔いどれの僕をさらに飲ませて潰したのだという。そして翌日、起きた僕は無事に何も覚えていなかった。金の事も、何をしようとしていたのかも。


「ホッとしたよ。あれもひとつの通り者みたような物だったのかも知れん。で、金は一先ひとまず預かっておいた」

「……そんな事があったのか」


 そう言えば、関が証文を片手に我が家を頻繁に訪ねてくる様になったのは、丁度その頃であったような気がする。

 だが、借用書の件はどう言う事になるのか。今の話では二重にむしり取ろうと言う腹、と言う訳でも無さそうではあるが。


「……その、それはな。何だ。言わせるなよ」


 僕が水を向けると、関は珍しく言いにくそうに言葉を濁した。


「そいつがあれば、俺は堂々と君の家に来られるんだよ」

「何?」


 僕は思わず怪訝な顔をして、それからゆっくりと、沁みる様にその言葉の意味が理解出来てきた。そう言う事か。


 関は、きっと口実が欲しかったのだ。この大胆不敵な男は、自分の心の柔らかいところを殊更ことさらに隠したがる。自身の目からさえもだ。だから、どうあっても認める訳に行かなかったのだろう。


 自分がそもそもの初めからずっと、この手の掛かる面倒な友人を……すなわち、僕を心配し続けていた事を。


 しん、と一瞬間奇妙な沈黙が降りた。関は決まり悪そうにそっぽを向く。僕は咳払いをした。


「それで、その、だ。二十円だが……」


 鞄から何やら取り出そうとする。僕は手で制した。


「良い。僕が持っていてもすぐ使うばかりだ」

「返すと言う事か?」

「いや」


 少し考えてそう答える。


「君が預かっていてくれ。返すのじゃない。僕の金だが、君が使わず持っていると良い。証文も君の物だ」


 そう。僕はもう少し、僕らのこの、妙な腐れ縁の関係を続ける事にしようと、そう考えていたのだ。

 関が力が抜けた様な顔で笑う。僕も口の端を持ち上げる。


「返す日は、そうだな……」

「先で良いさ。俺の葬式の次の日が良い」


 関はそんな事を言う。


「生きている内に払えば良かったと、精々せいぜい泣いてくれ」

「それじゃあ、そうしようか」


 この男はどうせ図太く長生きするのだから、釣られて僕の寿命も長く伸びた計算になる。縁起の良いお呪いだ。


 関は伸びをして、障子を開けると赤橙に染まった西の空を見た。からすが二羽三羽、連れ立って遠くへ飛んで行く。美しい物だ、とそう思えた事が嬉しかった。数ヶ月ぶりの事だ。


 やがて陽は落ち、辺りにはやわやわと薄暗い闇がやって来るだろう。僕らはそこに目を凝らし、隠れた怪異を探し出す事だろう。

 いや、関の持論によれば、探すまでもなく彼らはそこら中に潜んでいるのかも知れず……。


 僕は言った。


「それで、関。次は一体どこに話を聞きに行くんだ?」


 関は呵呵かかと笑い、手帳を取り出した。僕が寝ている間、調べ上げたものであると言う。ずらりと人名と住所が並んでいた。


 帝都は闇に染まる。僕らの怪談は終わりどころを知らない。

 そうして僕らは走る。最後の百にたどり着くには何かが足りない、そんな半端な怪異の中、ゆらゆらと迷いながら、前と信じる方を目指して。

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帝都つくもがたり 佐々木匙 @sasasa3396

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