第8章 凶刃
私たちは玄関を抜けて病院に入った。診療受付時刻はとうに終わり、面会終了時間も迫っているためか、昼間あれほど混み合っていたロビーは閑散としていた。
「オーケーよ、
受付から戻ってきた丸柴刑事と一緒にエレベーターに乗り込むと、理真が〈5〉の階数ボタンを押した。
エレベーターを出た私たちは、誰の姿も見えないナースステーションの横を、「今のうちだ!」とばかりに早足で通り抜け(許可を得ているのだから、こそこそする必要はないのだが)、510号室に入り込んだ。面会時間は終わったとはいえ、午後七時を回ったばかりという時刻では、さすがに四人いる入院患者はひとりも就寝していなかった。カーテンこそ引かれているが、イヤホンでテレビを観ているのか、本を読んでいるのか、明らかに物音が聞こえる。私たちの足音を聞きつけたのか、廊下側右のカーテンが、そっと引かれ、
「あ、探偵さんたち」
里沙子が顔を覗かせた。
里沙子を連れて私たちは休憩所に入った。里沙子は院内着の上に厚い羽織りもの着ている。丸柴刑事は、一番暖房に近い席に里沙子を座らせた。
「ごめんね、里沙子ちゃん、こんなに遅い時間に」
理真は詫びたが、里沙子は首を横に振って、
「全然です。病院って消灯時間が早くて、いつも退屈してますから」
「体は大丈夫? 昼間も痛みが出てたけれど、ああいったことはよくあるの?」
「はい。あ、この、はい、は、どちらの質問に対してもの、はい、です。今はもう大丈夫ですし、突然胸の痛みが出ることもありますから。昼間はびっくりさせちゃってごめんなさい。私、探偵さんや刑事さんたちと話すのが楽しくって、つい我慢しちゃいました」
「無理したら駄目だよ。でも、
理真が微笑むと、里沙子は、はにかんだ笑顔を見せて、
「ていうか、
「素敵な彼氏ですよ」
言われて里沙子は、さらに赤くなった。理真は話題を変えて、
「里沙子ちゃんは、ずっとこの病院にいるの? 外に出掛けることとかは?」
「あ、もしかして、アリバイですか?」
「そういうわけじゃないんだけどね」
理真は誤魔化すように笑みを浮かべたが、里沙子は気を悪くした様子もなく、
「
「四日前、十一月十一日の午後十時から十一時よ」
「その時間なら、もうぐっすりでしたね。看護師さんが定期的に病室の見回りに来てくれますから、証人になってくれるかもしれませんね」
「そうなんだ。ありがとう。ねえ、里沙子ちゃんは、アリバイ関係なく、病院の外に出ることはあるの?」
「ありませんね。昼間みたいに、いきなり痛みが来るときがあるので。調子のいいときなら、薬を持ってちょっとだけなら遠出してもいいって、先生に許可をもらえるときもありますけれど、特に行きたいところとかないですし。行ったとしても、どうせ涼と話をしてるだけだろうから、病院の庭やラウンジとかで十分かなって。余計なお金を使うこともないですし」
「春日さん、とてもいい人なのね」
「はい」と里沙子は表情をひと際輝やかせて、「高校を出て就職した会社で出会ったんです。初めて話したのは歓迎会の飲み会でした。私も涼も、あまり大勢で騒ぐの得意じゃなくって、会場の隅っこでぽつんとしてたら、どちらからともなく声を掛けて、『みんな元気だね』なんて話になって。それから、一緒に食事に行ったりするようになりました。で、健康診断で……」
里沙子は去年、会社の健康診断で心臓に重い病気を患っていることが発覚した。里沙子はそのまま退職して入院生活を余儀なくされる。両親もなく施設育ちだった里沙子に、入院、治療費の工面をしたのが春日だった。春日は県外の出身でアパートでひとり暮らしをしていたが、家賃の安い部屋に引っ越し、残業や出張など、他の社員から敬遠されるような仕事を積極的にやるようになった。全ては里沙子の入院、治療費に充てるためだ。
「そのことは、他の人も知っているの?」
理真が問いかけると、里沙子は、
「
「麻利亜さんは、里沙子ちゃんの病気のことは、どれくらい知っていたの?」
「ほとんど知らなかったと思います。入院は長引いているけど、直すのが面倒なだけで、症状自体は大したことないの、って伝えていました。麻利亜、すぐに人の心配ばっかりしちゃうから。入院費のことも心配してくれましたけれど、施設や行政からのお金でやっていけてるって、嘘ついちゃいました。本当のことを言ったら、あれこれ気を遣わせちゃうし……」
里沙子の大きな目が滲んできた。また、亡くなった親友のことを思い出してしまったのだろう。丸柴刑事がハンカチを出そうとしたが、里沙子は羽織りものの袖で目を拭った。その動作が終わるのを待ってから理真は、
「麻利亜さんについて、もっと聞かせてもらえるかな? どんな女性だった?」
「どんな、ですか。そうですね……料理が得意でしたよ。ジャンル関係なく、何でも作っちゃう。すごく上手なんです。私も、クッキーの作り方とか教えてもらったことあります」
「へえ、料理が。それじゃあ、一緒に住んでいた田山さんは幸せだったでしょうね」
「そうですね。麻利亜の話だと、田山さんって全く料理しないらしいですから。袋ラーメンも作ったことないんですって。カップ麺ばっかり。料理関係で田山さんに出来ることは、お湯を注ぐことだけだ、何て言って笑ってたことありましたよ」
「あはは」
「野田さん」
私たちが笑っていると、そう声を掛けて休憩所に入ってきた白衣の人物があった。里沙子は、
「あ、神部先生」
顔を上げ、白衣の女性を見た。私たちは会釈をする。昼間出会った神部医師も軽く頭を下げ、
「野田さん。ここのところ急に寒くなってきたから、早めにベッドに入るようにって言ってあるでしょ」
里沙子は、ごめんなさい、と言いつつ微笑む。医師も笑みを返してから、私たちを向いて、
「警察の方ですね。申し訳ありませんが、面会は規定の時間内にお願いします」
釘を刺されてしまった。
「野田さん、もうベッドに戻って下さい」
里沙子は、「はーい」と素直に返事をすると立ち上がった。病室まで、と丸柴刑事が送っていこうとしたが、里沙子は「大丈夫です」と笑い、手を振って休憩所を出た。
「神部先生は、里沙子ちゃんの主治医なんですよね」
里沙子がいなくなった休憩所で、理真が白衣の女医に訊いた。女医は、「はい」と理真を向いて、
「神部
と自己紹介した。白衣の下は温かく動きやすいセーターとパンツルックで、足下はスニーカーという格好だ。
「神部先生にも、お話伺ってもよろしいですか?」
理真が申し出ると、神部医師は腕時計を見て、「少しだけなら」と椅子に腰を下ろした。
「警察の方が野田さんに話って、彼女、何か事件に関わっているんですか」
理真が何か言うより先に、神部のほうから質問をされた。
「いえ、直接どうこうというわけではないのですが。あ、ちなみに私は警察官ではなく、民間の協力者です。
理真と私は揃って頭を下げた。神部は、「まあ、それじゃあ、探偵?」と理真と私を物珍しそうに交互に見る。
「はい」と理真は答えて、「神部先生はご存じですか? 先週、
「ああ、野田さんのご友人の事故でしたね」
「そうです。先生も里沙子さんから聞いていらしたのですね」
「ええ。それで話を訊きに来たんですか……」
「ええ。あの、先生、不躾なことを伺うのは承知なのですが、野田さんの症状は重いのですか?」
質問されたほうも、確かに不躾だと思ったのか、神部はすぐには口を開かなかった。が、ため息をひとつ吐くと、
「心臓がね……悪くて。先天性のものだったのだけれど、ずっと見過ごされてきていたのね。去年の健康診断で発覚して。まるで見つかるのを待っていたかのように、それ以来病状は急速に進んだわ。安堂さんのおっしゃる通りよ。決して軽い病気じゃない」
「完治する見込みはあるのですか?」
神部は休憩所の出入り口に一度目をやった。里沙子が間違いなく病室に戻ったか心配しているのだろうか。見通せる廊下に誰の姿もないことを確認したのか、
「正直、難しいわ。今は内科的処置やカテーテル療法で対処しているけれど、本気になって治療するには、手術に踏み切るしかないの」
「難しい手術なんですね」
神部は、ゆっくりと頷いて、
「本当に危険な状態に陥るまでは、薬やカテーテルで何とかしてほしいって、野田さんに……いえ、春日さんに言われていてね」
「春日さんも、野田さんのことは」
「ええ、全て知っているわ。野田さんには身よりがないから、彼が保護者というか、後見人みたいになっているの。野田さんの病気に関して何か新しいことが発覚したら、まず自分に知らせて欲しいと。彼女には自分の口から話すからと」
「そうだったんですか」
「ええ。まだ若いのに。入院、治療費だってばかにならないでしょうに。偉いわ。大した青年よ」
神部は春日に対して賞賛の言葉を述べたが、裏腹にその表情は眉間に皺を寄せた暗いものだった。神部は、また腕時計を見て、
「すみません。私、これから用事が」
「あ、こちらこそすみません。お忙しい身でいらっしゃるのに、お話聞かせてもらって」
「ふふ。そんなに畏まらなくてもいいわよ。今度は、聞き込みじゃなくて、お見舞いで野田さんのところに顔を出してあげて。彼女のところに見舞いに来るのは、もう春日さんだけになっちゃったから……」
親友の麻利亜が亡くなってしまったため、か。……もし、
「ねえ……」立ち上がり、戻り掛けた神部は振り向くと、「野田さんの友人の、和泉麻利亜さんって、どんな女性だったのかしら」
「えっ?」
腰を浮かし掛けていた理真も動きを止めて、
「神部先生は、お会いしたことは? 和泉さんがお見舞いに来たときなどに」
「ちょっと見かけて会釈したくらいしかないの」
「そうなのですか。でも、私たちも生前の和泉さんにはお会いしたことはありませんので」
「……ふふ。そうよね。和泉さんの事故が起きたから、刑事さんや探偵さんは和泉さんのことを知ったんですものね。ごめんなさい、変なこと訊いて。和泉麻利亜さんが生きているわけないのにね」
「え?」
「いえ、ごめんなさい」と神部は、まるで私たちを追い立てるように、「それじゃあ。また来て下さいね」
そう言い残すと足早に休憩所を出て、ナースステーションの奥に消えた。
私たちも病院を出て、駐車場に停めてある覆面パトに戻った。
「丸姉、早くエンジン掛けて。寒い」
「はいはい」
助手席に座りエアコンの送風口に両手をかざし、温風さあ来い、状態の理真から催促されて、丸柴刑事はエンジンスタートキーに指を伸ばしたが、その手は引き返して懐に潜った。携帯電話の振動音が車内に響いたためだ。理真は口を尖らせ、小刻みに体を揺さぶりながら両手をポケットに戻した。「県警の鑑識からだわ」と着信を受けた丸柴刑事は、
「丸柴です。……はい。……そうですか」
鑑識からの電話ということは、麻利亜の携帯電話の写真データの話だろうか。丸柴刑事は、通話を終えると理真と私を見て、
「理真、麻利亜さんのご遺族と連絡が取れて、携帯電話を送ってもらえることになったわ。一応向こうでも写真を見ようとしたらしいんだけれど、やっぱり壊れてて駄目だったそうよ。携帯が到着して復元してだから、もうちょっと時間もらうって」
「そっか。私から礼を言ってたって、伝えておいて」
「分かった。さて、理真、このあとどうする? 大崎志穂さんに話を訊きに行く?」
「そうだね。もう仕事も終わって、家に帰ってるでしょ」
志保の自宅は警察の調べで分かっているが、前もって連絡を入れた方がいいということになり、出発前に理真が電話を掛けることになった。志保の携帯番号は田山の着信にあったものを丸柴刑事がメモしてある。理真は受け取ったメモ帳を見ながら携帯電話をダイヤルした。
「どうして携帯番号を知ってるのかとか、いろいろ言われたけど、会ってもらえることになったわ」と通話を終えた理真が、「でも、自宅じゃなくて、近くのファミレスを指定された」
「あら、そうなの」
理真から手帳を受け取った丸柴刑事が言って、志保から指定されたファミリーレストランをカーナビに目的地登録して車を出した。到着までは十五分くらいだ。
「大崎さんの家って、一戸建てでご両親と同居なのよ、確か」
道中、丸柴刑事が口にすると、理真は、
「へえ、そうなんだ。じゃあ、両親や家族に気を遣ったのかな」
「そうかもね。うら若い娘に警察と探偵が話を訊きに来たなんて知ったら、ご両親卒倒するかもね」
「その話を訊きに行く警察と探偵、おまけにワトソンも、うら若い女性だけどね」
「ありがとう、理真。私も、うら若い範疇に入れてくれて」
「じゃあ、探偵とワトソンも、に訂正する」
「なにおう?」
丸柴刑事は理真を睨んだ。
「丸姉、前見て運転して」
ファミリーレストランに到着して入店すると、奥の席に大崎志保はもう座っていた。志保の前にはコーヒーの入ったカップがひとつ置かれているだけだったため、私たち三人もドリンクバーを注文する。志穂とは初対面の丸柴刑事が自己紹介をしたあと、
「すみません、大崎さん」
理真が突然の呼び出しに応じてくれた礼を述べたが、志穂は、
「ええ。それより、何ですか、話って?」
と早く用事を済ませるよう促した。
「大崎さんは、高校時代に田山さんと同級生だったのですよね」
「ええ、昨日、お話した通りに」
「それほど親しい間柄ではなかった、と」
「そうです」
「私たちの調べで、田山さんと大崎さんは高校時代に、かなり親しくしていたそうだという証言を得ているのですが」
それを聞くと、志穂は眉根を寄せて、
「誰から、そんな話しを?」
少し顎を引いて理真を見た。が、理真はそれには答えないまま、
「それと、もうひとついいですか。大崎さんは三日の午前、田山さんに電話を掛けていますよね」
「えっ? そ、それは……」
志穂の表情は途端に曇り、眉の間に刻まれていた皺も消えた。まったく予期せぬ質問だったのだろうか。理真の言葉は続き、
「三日だけではありません。それ以前にも、何度も田山さんと電話のやりとりをしていますよね」
志穂は下を向いてしまった。明らかに返答に窮している。
「大崎さん、十一日の夜十時から十一時の間、どこにいらっしゃいましたか?」
志穂の答えが返ってこないまま、理真が急に質問を変えた。理真が口にした日時は、田山の死亡推定時刻だ。さすがに怪しいと判断したのだろう。理真は志穂に田山殺しのアリバイを訊き始めた。
「えっ?」
志穂は顔を上げたが、先の質問に答える必要がなくなったことに喜んだ様子はなかった。先ほどよりも、さらに表情を険しくしている。
「な、何日の、何時って……?」
「十一月十一日、四日前の午後十時から十一時、です」
「四日前の……夜……」
志穂は、前の質問以上に返答に窮している様子だ。田山の死亡推定時刻のアリバイを証明出来ないということなのだろうか。
着信の振動音が鳴り、志穂は、ぴくりと体を震わせた。丸柴刑事が懐から携帯電話を取りだし、席を立って外に出た。
「由宇、私、飲み物取ってくるわ」
理真もそう言って立ち上がった。丸柴刑事がいない今、志穂にひとりは見張りを付けておかなければならないということか。私は頷いて志穂を見る。志穂は変わらず俯いているだけだった。
席を立った二人は、ほぼ同時に姿を見せた。が、その様相は対照的だった。湯気の立つコーヒーカップを手に、ゆっくりとした足取りで戻ってくる理真に対し、丸柴刑事は血相を変えて走ってくる。
「理真! 由宇ちゃん!」
掛けられた声も鋭かった。理真はテーブルにカップを置いて立ち止まる。丸柴刑事は志穂に向かって、
「大崎さん、呼び出しておいて、すみませんが、今日はここで」
と言うと財布から取り出した千円札をテーブルに置いて、私と理真の手を引いて店を出た。呆気にとられた顔の志穂が遠ざかっていく。三人分のドリンクバー代は千円で足りるはずだ。
「どうしたの? 丸姉」
ファミリーレストランの外に出た理真は真っ先に訊いた。が、丸柴刑事は「乗ってから」と私と理真を覆面パトに押し込んだ。
「理真、由宇ちゃん……」ハンドルを握る丸柴刑事は、駐車場を出るとようやく、「春日さんが襲われた」
「えっ?」
助手席の理真は横を向き、私は何も言えずバックミラーに写る丸柴刑事の顔を見た。
「腹部を刺されたそうよ。重症で、かなり危険な状態だって……」
丸柴刑事の力ない声が、狭い車内に漏れた。
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