第9章 死が二人を
襲われた?
覆面パトを飛ばしながら、
「九時十三分、救急に通報が入ったわ。『人が刺されて倒れてる』って、場所を告げると、呼びかけには何も答えないまま一方的に切ったそうよ。で、救急車が駆けつけると、通報があった場所に春日さんが倒れていたの」
「通報したのは、誰?」
「分からない。私も簡単に第一報を聞いただけだから。119番通報を受けた指令管制センターが、明らかに事件性のある負傷者と思われたため警察にも通報。現場に着いた救急隊員が被害者の所持していた免許証を確認して、負傷者の名前も警察に知らせたの。それで、
「
「そうよ。そんなに遠くない。あと十分も掛からないで着くわ」
現場に到着するまで、車内は無言に包まれていた。
現場は、住宅地同士の間にぽっかりと空いた、エアポケットのような寂しい路上だった。幅の広い道ではないが、車の通りもほとんどないため、道路は警察車両専用駐車場の様相を呈している。数台停まっているパトカー、覆面パトの最後尾に丸柴刑事は車をつけると、すでに張られている規制線を越えて、私たちは現場に入った。持ち込まれた照明により、真昼のように明るく照らされた路上の隅に血だまりが見えた。凝固しきっておらず、まだ光沢を放っている。その横には一台の乗用車が停められている。青いセダン。病院の駐車場で見た春日の車だ。
「丸柴、
背広姿の男性が駆け寄り、私たちに声を掛けた。
「まず、119番通報に使われた電話が分かった。被害者の春日涼の携帯電話からだった」
「春日さんの? 本人自ら通報したのでしょうか?」
丸柴刑事の疑問に、城島警部は、そうではないらしい、と答え、
「到着時に救急隊員が診た被害者は、通報はおろか、指一本動かせないような重傷だったそうだ。通報を受けた職員の話では、通報者の声は、妙にくぐもった、おかしな声だったそうだ。タオルか何かを口に当てて喋っているような。それだけでなく、意図的に声質も変えていたと見られる。性別のはっきりしないが、恐らく女の声だったのではないかと。通報を受けた指令センターに録音があるから、あとで聞いてみよう。それと、刺された被害者には、ごく簡単にだが応急処置が施されていた」
「被害者にって、襲われた春日さんにですか?」
これを訊いたのは理真だ。警部は、ああ、と言ってから。
「救急車が駆けつけると、通報通り腹部を刺された青年、免許証から春日と判明した青年が道路脇に倒れていたんだが、その傷口には布地が巻かれて止血処置が施されていたそうだ。救急隊員が証言している」
「どういうことなんでしょう」と丸柴刑事が、「通報者と応急処置をした人は同一人物なのでしょうか? たまたま路上で腹部を刺された春日さんを発見、119番通報をして、応急処置も施したが、その場を立ち去ってしまう。やっかいごとに巻き込まれたくなかったからでしょうか?」
それを聞いて私は、
「そう考えれば、通報にわざわざ春日さんの携帯を使って身元の特定を避け、声を変えたことも納得出来ますね」
私も思いついたことを口にしてみた。丸柴刑事は、「あり得るわね」と同意してくれた。
「まだある」と城島警部は手帳を開いたまま、「犯行に使われたと思われる凶器はすぐに見つかった。倒れた被害者のそばに落ちていた、刃渡り十センチ程度のナイフだ。だが、どういうわけか、きれいに拭き取られている。しかし、急いでいたのか、完全に拭き切れていない。刃と唾の角など細かいところに血液が残っていた。それと、被害者の財布は懐に入ったままだ。救急隊員が身元を確認した免許証もここに入れてあった。現金は一万円に満たない金額しか入っていなかったから、万札だけを抜かれた可能性はあるが、カードは手つかずだった。今のところ、掴んでいる手掛かりはこれくらいだな」
言い終えると警部は手帳を懐にしまった。
「それで、警部」話を聞き終えた丸柴刑事が、「春日さんの容態は? 危険な状態だそうですが?」
「ああ、救急車に乗っていた救急隊員の話ではな。応急処置がされていたとはいえ、出血を留めるには不足だったらしい。布地は真っ赤に染まりきって、血が滴る状態だったそうだ。腹部を刺された際にナイフが動脈に達してしまったんだろうと。内臓に損傷もあるらしい。中央病院に搬送されたはずだ。一番近いからな」
中央病院。つい数時間前まで私たちがいた、里沙子が入院している病院か。そこに恋人の春日が搬送されるとは。腕時計を見る。午後十時に近い。病院の消灯時刻は早いため、今頃、里沙子はベッドで眠っていることだろう。愛する恋人が、同じ建物内で瀕死の重傷を負って運び込まれたことも知らずに。
理真は黙って警部の話を聞いていた。その視線は血だまりの路面から、青い乗用車に向く。
「警部、この車は春日さんのものですよね」
「そこまではまだ確認していないが、間違いないだろう。こんな」と警部はぐるりを見て、「辺鄙なところに徒歩で来るとは思えないからな」
「ええ、私たちは、病院で春日さんがこの車に乗って帰るところを目撃しています。春日さんが自分のこの車でここまで来たことに間違いはないでしょう。警部、凶器は見せてもらえますか」
ああ、と城島警部は、近くにいた警官に命じてビニール袋を持ってこさせた。中にはひと振りのナイフが入っている。一応愛用の手袋をはめてからそれを受け取った理真は、
「……確かに、拭き取られているというか、簡単に
透明なビニール越しにナイフを見た。私と丸柴刑事も顔を近づける。ナイフは警察が持ち込んだ照明にその銀色の刀身を輝かせている。さっき警部が言った通り、刃と鍔の接合部や、柄の一部などに赤黒いものがこびりついている。刀身にもよく見れば、うっすらと赤い筋が何本も見て取れる。タオルか何かで刀身を拭いた跡だ。理真が言ったように、綺麗に拭いたというのではなく、とりあえず簡単に拭っただけ、という印象を受ける
「犯人が凶器を拭ったのは、指紋を消すため?」
丸柴刑事が言った。
「それもあるかもだけど」と理真は、「だったら、凶器を持ち去ればいいだけの話じゃない? いくら指紋を拭き取ったって、凶器を遺留させること自体が大きな手掛かりを残すことになるわ」
うむ、と城島警部も理真の考えに同意して、
「理真くん。これは、
「田山さんの事件……どうでしょうか。田山さんと春日さんの二人には直接の繋がりはない。田山さんと春日さんは、恋人の友人の恋人、という遠い関係です。顔を合わせたことも、春日さんや里沙子さんの証言では、お見舞いの来たときと、春日さんが
「よし、分かった。捜査報告は逐一入れよう」
「お願いします。深夜早朝でも構いませんので」
「丸柴、お前も一緒に行け。野田里沙子さんと面識があるし、理真くんたちの足も必要だからな」
私と理真は警部に礼を言って、丸柴刑事の運転する覆面パトに乗り込み、一旦現場をあとにした。
早く病院に着いて春日の容態を確かめたいという
「春日さんは、どうして刺されたんだと思う?」
ハンドルを握る丸柴刑事が、フロントガラスから視線を外さないまま言った。後部座席に座った私は助手席の理真を見る。明らかに探偵に対して投げかけられた言葉だからだ。シートに身を沈めている理真は、
「普通に考えれば、通り魔だよね。現金がいくらか抜かれている可能性はあるけど、カードが無事で財布も残されていたことから、物取りの犯行とはちょっと思いがたいけれど」
「無差別殺人の通り魔にたまたま狙われたってこと? 通り魔事件なんて、ここらで聞いたことないけど、運悪く第一号の被害者になってしまった可能性も否定出来ないわね。でも、理真、そうとは思ってないでしょ」
「……うん。春日さんは車を運転してあの道を走っていたんでしょ。あんな何もないところで車を停めて降りる用事があるとは思えない。通り魔の仕業だったら、車を停めさせて運転していた春日さんを引きずり下ろして刺したということになるわ。わざわざそんなことしないでしょ」
「そうね、通り魔なら、歩行者を狙うっていうのが普通だもんね」
「警部に対しては曖昧に返しちゃったけど、田山さんや麻利亜さんの事件と無関係とは思えないよね」
「理真も言ってたけど、春日さんは、麻利亜さんの友達の彼氏。麻利亜さんの恋人の田山さんからなら、さらにもうひとり分繋がりは遠くなる」
「うん。もちろん、通り魔の仕業でも、田山さん事件に関連しているでもなく、春日さんに恨みを持つ何者かの手による、全く別個の怨恨殺人の線も、というか、そう考えるのが普通だけど」
「話をしたり里沙子さんや神部先生から聞いた限りでは、とても人から恨みを買うような人物とは思えないけれどね」
そうね。と返したきり理真は黙った。私は、
「麻利亜さんが春日さんを恨むようなことも、あったとは思えないよね」
思わず口に出してしまった。蘇った麻利亜の手による連続殺人。あり得ない。分かってはいるが。理真、丸柴刑事とも、口を噤んだままだった。
夜の
夜間受付に丸柴刑事が警察手帳を開示して、春日が搬送された手術室に案内してもらう。刑事らしき人物は誰もいなかった。丸柴刑事と私たちが行くと分かっていたから、城島警部は他の捜査員をこちらに手配しなかったのかもしれない。刑事はいなかったが、手術室の重そうな扉の前には、院内着の上に厚手の羽織ものを着た女性が立っていた。薄暗い照明の中に、女性看護師に付き添われて立つその人物は、
「……里沙子ちゃん?」
理真の声に里沙子は、しゃくり上げながら頬を涙で濡らした顔を向けた。
廊下に置かれた長椅子に里沙子を座らせ、その隣で丸柴刑事が手を握り、肩を抱く。里沙子は丸柴刑事の肩にこめかみを乗せて泣いていた。私と理真は二人から少し離れて、看護師に話を聞いている。
「
理真の問いに看護師は、一度里沙子を見てから、
「夜中に電話があったんです。『これからそっちに救急患者が運ばれていくから、510号室の野田里沙子を起こしてくれ。彼女の恋人だから』それだけ告げると一方的に切られました」
「それで、里沙子さんを呼びに?」
「はい。ちょうど電話の通り、救急患者が、しかも刃物で腹部を刺されたらしい患者が搬送されてくると聞いて、その急患の名前だけ確認して510号室に行き、野田さんを起こしたんです。野田さんは急患の名前を聞くと一気に目が覚めたようで、『どこにいるの?』と。それでここまで案内してきたんです」
「搬送された春日さんが、野田さんの恋人だということは?」
「はい。そのあと、循環器科のナースステーションで聞いて確かめました」
「その電話があったのは、何時頃でしたか?」
「午後十時にはなっていませんでした。九時五十分くらいだったかと。急患が搬送されてきたのがその直後の……九時五十五分でしたので。そうですね、そのくらいの時刻でした」
「電話の声に聞き憶えはありましたか?」
「いえ。女性の声としか」
「女性の……。声を変えているだとか、口にタオルを当てているだとか、そういった、声を変えようとする工作は感じましたか?」
「いえ、ごく普通の肉声でした」
「声から年齢は推察出来ますか?」
「若かったのではないかと思います」
「そうですか。その電話は、録音されてなどは」
看護師は首を横に振った。理真は一度里沙子を見ると、一層声を潜めて、
「搬送された患者、春日さんの容態は、どうなんでしょう?」
看護師は、この質問にも先ほどと同じように小さく首を振った。分からない、という意味なのか、それとも……。理真はため息をついて顔を斜め上に向ける。その先には、〈手術中〉のランプが赤く、血のように光っていた。
丸柴刑事の携帯に着信があり、私たちは一旦手術室前を離れて携帯電話使用可能エリアで着信を受けた。城島警部からの発信だった。ここまでの捜査内容の報告だ。
緊急配備を引き、怪しい、怪しくない関わらず見かけた人物に片っ端から職質を掛けたが、現場付近は人通りもめぼしい建物もない場所で、捉まえることが出来たのは、徒歩や自転車で自宅とコンビニ間を買い物で行き来する途中の人だけだった。犯人が逃走に車を使っていたのであれば、幹線道路に検問も敷いたが、成果が上がるかは難しいだろうという。
「救急への通報者が犯人なのでしょうか。それであれば、どうしてわざわざ通報なんてしたのか」
理真が言った。丸柴刑事は携帯電話をスピーカーモードにしているため、理真や私も通話に参加することが出来る。スピーカーから聞こえる城島警部の声が、
「やはり通報者は、全く無関係の第三者か? やっかいごとに巻き込まれるのを嫌がって、通報には被害者の携帯を使って声も変えたという、理真くんの推理が正しいのかもな」
「春日さんへの応急処置も、その第三者がやってくれたんでしょうか?」
「それもあるな。救急隊員の話だと、応急処置として春日の腹に巻かれていたのは、マフラーだったそうだ。出血でべっとりだが、当然保管してもらっている」
「マフラーですか。他に、現場から何か出ましたか?」
「そうだな。停められていた青い車は、やはり春日のもので間違いない。ダッシュボードに入っていた車検証と照らし合わせた。それと、現場から長い髪の毛が採取された。染められておらず黒い。鑑識が現場で髪質を見立てたところ、女性の髪ではないかと」
「女性の……」
「ああ。あの付近を通る人は、ほとんど車を使用するだろうから、全く無関係の通行人の抜け毛が落ちるとは思いがたいな。通報者か、犯人か、それともその両方か。毛根も付いた抜け毛だから、血液型やDNAも調べられる。凶器に指紋はやはり残っていなかった。あれだけ拭かれていれば、指紋が付着していたとしても当然消えてしまうがな。そっちのほうは、どうだ?」
理真は、春日が搬入される直前、里沙子を呼び出した電話があったということを告げた。
「……女性の声で電話、か。通報者と同じという可能性もあるな」
「はい、私もそう思います」
「だが、その電話では、いちいち声を変えたりしていなかった」
「そのようですね。恐らく、119番通報は全て録音されるので、あとから声を聞かれてしまうためでしょう」
「病院への電話なら、その心配がない、か。ということは、電話の主は自分の声を録音に残されたくなかったということだな」
「間違いないでしょう」
「理真くん、これらが全て同じ人物の仕業だとしたら、どういうことになる?」
「春日さんを刺した犯人、応急処置をした人物、119番通報者、病院に電話を掛けた人物、これらが全て同一人物だとしたら、ということですね」
自分が刺した春日に応急処置を施し、かつ救急車の手配をする。現場を立ち去ったあとには、恋人の窮地に里沙子を立ち会わせるよう病院に電話までしている。
「確実に言えることは、路上で刺されていた青年が里沙子さんの恋人であると知っており、なおかつ、その里沙子さんが、これから春日さんが搬送される中央病院に入院している。これらのことを知っている人物というのは、そう多くないはずです」
「その線から当たるしかないな……。それと、運び込まれた被害者の春日の容態は、どんな感じだ?」
「分かりません。ずっと手術中です」
「そうか。また何か分かったら連絡を取り合おう。理真くん、由宇くんも、無理はしないようにな。丸柴、頼むぞ」
「はい。お疲れ様です」
丸柴刑事が答えると、通話は切れた。
携帯電話使用可能スペースを離れ、手術室の前に戻ろうと廊下を歩く私たちの耳を、甲高い悲鳴が貫いた。一瞬だけ目を合わせて、私たちは廊下を駆ける。
〈手術中〉の赤いランプは消えていた。重々しく閉ざされていた扉は開け放たれ、手術台に
近づき、手術台に乗せられた人物の姿が鮮明になるにつれ、一瞬、頭がぐらりと揺れた。私の足は機械的に手術室に向かう。目が合った看護師は力なく首を横に振った。
手術台の上に横たえられた春日の亡骸に、里沙子は覆い被さって慟哭していた。
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