第4章 生と死の境界

 国道7号線を北上し、胎内たいない市を抜けて村上むらかみ市に入るとすぐ、国道113号線と交わる交差点が見えてくる。そこを右折して走ると、左手に荒川あらかわを望み、対岸の山々を彩る紅葉が目に飛び込んできた。見頃は過ぎているが、まだまだ暖色の斑模様は十分観賞に値する。川沿いに走ると、僅かな時間だけ滞在した村上市をあとにして、私と理真りま関川せきかわ村に入った。

 丸柴まるしば刑事から預かったファイルを開き、私は助手席からナビをする。

「そこ、左」と私の声に従い、運転席の理真がハンドルを切る。何度かカーブを曲がると見えてきた駐車場に車を停めて、私たちは降車した。私と理真は上着を厚手のものに替え、足下もスニーカーとパンプスから頑丈なウォーキングシューズに履き替える。両手が空くように荷物はデイパックに詰め、帽子を被る。下は二人とも最初からデニムで、山道を歩くのに相応しい格好に変身した。

 目に映る荒川峡あらかわきょうの紅葉は、やはり散り際だが、紅葉狩りに来たのではない。和泉麻利亜いずみまりあが水難事故に遭った現場の確認と、警察に通報した旅館の人に話を訊くために来たのだ。紅葉に目を楽しませている暇はない。


「もうちょっと早ければ見頃だったね。残念だったね」


 思ったそばから理真が言った。



 川に架かった吊り橋を渡るとすぐに道は二股に分かれる。右に行くと、田山たやまがフロントに麻利亜の捜索を依頼した温泉旅館。左が、紅葉狩りスポットである散策路とキャンプ場に向かう道だ。

 ファイルに添付されていた地図を頼りに、キャンプ場を抜けて荒川のほとりに出ると、「あれだね」と私は川岸に立つ岩を指さした。岩は川の上にまでせり出しており、その先端から麻利亜は足を滑らせて川に転落したと見られている。理真は岩に上り、先端まで歩いて行く。


「気をつけてよ」


 私の声に、「おう」と答えて、理真は岩の先端近くに立ち、対岸を見つめた。


「いい眺めだね。見頃だったら、さぞ爽快だったろうね。もっと近づいて見てみたくなるね、これは」

「誤って転落してもおかしくない?」

「そうだね」理真はその場に屈み込んで、「まだ滑った跡が残ってる」


 理真は岩から下りてきて、私と一緒に麻利亜が引き上げられた川岸に向かった。

 川岸に立ち、理真は黙って川面を見つめる。私はファイルを開き、引き上げられて横たえられた麻利亜の遺体の写真を見た。

 遺体。田山の手記ではないが、確かにこれが死体だと言われても容易には納得し難いかもしれない。服から覗いた肌は体温が下がったために白くなってはいるが、外傷はどこにもなく、まぶたを閉じて眠っているだけのようにも見える。気が付けば、理真も私の横に来て一緒に写真に視線を注いでいた。


「どうだった」私が首尾を訊くと、

「うん。捜査資料を読んで、こうして実際現場も見た限りでは、完全に事故と思って間違いないんじゃないかな」


 もしかしたら麻利亜の死、それ自体が他殺。という可能性も考えていたが、今のところ警察と探偵の見方は事故で一致しているようだ。


「さて、じゃあ次は通報してくれた旅館の人に話を訊きに行こう」


 理真と私が、もと来た道を引き返そうと振り向いたとき、こちらに歩いてくる女性の姿があった。女性は私たちに気付くと、会釈をして川岸に向かった。すれ違い様、理真は足を止めて、その背中を見つめる。私もそうしていると、女性は川岸に立ち、先ほどまで理真が上っていた岩を見上げた。私と目を合わせた理真が、その女性に近づく。


「すみません」


 理真が声を掛けると、


「はい?」


 女性は振り向く。ショートヘアが似合う背の高い美人だ。私や理真と似たような活動的な服装をしている。


「失礼ですが、和泉麻利亜さんのご友人ですか?」


 理真の問いかけに女性は「はい」と答え、「あなた方も?」と眉根を寄せて訊き返してきた。


「いえ、私たちは……」


 理真は、自分たちは警察の捜査に協力している民間探偵だと答えた。「麻利亜のことで何か不審な点が?」とまた女性は訊いてきたが、


「いえ、直接ではなくて、麻利亜さんの恋人の田山信治しんじさんが殺害された件で」

「ああ、そうでしたか」


 理真の答えを聞くと、女性は俯いた。


「お時間よろしければ、キャンプ場の休憩所で少しお話を聞かせていただけませんか?」


 理真の誘いに、女性は少し逡巡した様子を見せていたが、「はい」と理真の顔を見て頷いた。


 キャンプ場管理棟の隣にある休憩所のベンチに腰を下ろし、理真と私は名前を名乗った。女性のほうも、


「私、大崎志穂おおさきしほといいます。麻利亜とは友人同士でした」


 川岸で出会ったときと変わらない、終始沈痛な面持ちのまま彼女は名乗った。新潟市内でOLをしており、今日は休暇を取って麻利亜の事故現場に来たのだという。


「和泉さんは、どんな女性でしたか」

「とてもいい子でした。朗らかで、可愛らしくて、やさしくて……」


 理真の問いかけに志穂は、荒川の対岸に目を向けて答えた。川岸に生える木々の一部からは紅葉もほぼ散りきっており、裸の枝を寒そうに川風に晒していた。


「大崎さんは、和泉さんの恋人であった田山さんとも、お知り合いだったのですか?」


 理真の質問が再開された。志穂は視線を理真に戻して、


「はい。私、田山さんとは高校時代の同級生だったんです」

「そうだったんですか」


 事故死して死体が消えた麻利亜の友人で、その恋人であった、死体で見つかった田山とも同級生? 恋人同士の二人双方と繋がりがあったということか、この大崎志穂という女性は。理真も意外そうな顔をして、


「そうだったんですか。田山さんって、どんな人物でしたか?」

「そうですね……ごく普通の、何ていうことのない男性だったと思います。友人の恋人に対して、失礼な言い方でしたね」


 志穂は少し笑みを漏らした。理真は何とも言いあぐねるような顔をしてから、


「誰か、田山さんに恨みを持つような人に、心当たりはありませんか。もしくは、誰かに恨まれる理由などには。高校時代に遡っても、何か?」

「いえ、そこまで親しい間柄だったわけではないので」


 そう言うと志穂は笑みを消した。「そうですか」と間を置いてから理真は、


「和泉さんと田山さん、お二人のご関係は、どのように見えましたか。何のトラブルもありませんでしたか」

「トラブルですか」と、それを聞くと志穂は、また僅かに笑みを浮かべて、「いえ、あの二人は万事がうまくいっていましたよ。男女間のトラブルなんて、あり得ません」


 丸柴刑事からも、仲睦まじい理想のカップルだったという話を聞いた。


安堂あんどうさん」と今度は志穂のほうが理真に、「田山さんを殺した犯人は、見つかりそうなんですか」


 逆に質問をしてきたが、「捜査上、お教え出来ないこともありますので」と理真はお茶を濁した。麻利亜の遺体が消えたことも、その犯人が田山と目されていることも公表はされていない。麻利亜の遺族にも固く口止めをお願いし、肉親だけで火葬は済ませたという体裁を取ってもらっている。ましてや、麻利亜の死体が甦ったと取れるような手記が発見されたことなど。


「そうですか……」志穂は自分の腕時計を見ると、「すみません、私、そろそろ行かないと」


 と立ち上がった。「引き留めてしまってすみません」と理真、私も立ち上がる。会釈をして志穂は駐車場方面に歩き去った。

 志穂の後ろ姿を見送ってから、私たちも休憩所を離れて旅館に向かった。川を横断する吊り橋を右手に見ながら旅館の玄関が見えてくると、突然理真が立ち止まった。


「理真、どうした」

「あのさ、今気付いたんだけどさ」と理真は私を振り返って、「田山さんは、この旅館で麻利亜さんの捜索を依頼したんだよね」

「丸柴刑事の話では、そうだったね。資料にも書いてあったし」

「どうしてわざわざここまで来た? 途中にキャンプ場の管理棟があったよね、そこで頼めばいいじゃない。というか、携帯電話を持ってたなら、自分で通報しない? 普通。愛する恋人の危機なんだよ」

「まだ連絡が取れないだけだから、いきなり警察沙汰にしたくなかったんじゃない? 山の中だから、携帯が通じなかったのも、麻利亜さんがスポット的に電波が届かない場所に入り込んだだけと思ってたのかも」

「うーん……」


 理真は腕を組んで唸った。恋人に対する田山の、つれない行動に納得がいっていないようだ。さすが恋愛作家。関係ないか。


「とりあえず、話を訊きに行こう」


 理真は腕を解いて、今度こそ玄関に向かった。

 私と理真はフロントで、警察捜査に協力しているものだと身分と名前を名乗って、話を聞かせてもらえることになった。幾多の民間探偵の活躍は小説やドラマなどを通して広く国民に知れ渡っており、理解と協力を得られやすいのは有り難い。私と理真はロビーに招かれ、コーヒーまで出してもらった。ちょうど、田山に応対して警察に通報したフロント係本人が出勤しているというので呼んでもらうことにする。


「お待たせしました」とフロント係の若い男性が私たちの対面に座った。探偵、ワトソンとも若い女性と知り、驚いているようだ。早速当日の田山について訊く。「どのような感じでしたか?」との理真の質問には、


「ええ、それは、慌てていましたね。一緒に紅葉狩りに来ていた女性と連絡が取れなくなった、捜索をお願い出来ないか、と。それで私が警察に通報しました。地元の消防団にも協力を要請して、すぐに捜索隊を結成して、警察の到着よりも早く捜索を開始しました」

「田山さんの様子に、何か、おかしいとか、変だなと思われたようなことは、ありませんでしたか?」

「警察の方にも言いましたけれど、特にそういったことはなかったですね。お連れの方がいなくなったと聞いて、こちらも慌ててしまったものですから、おかしいと思うも何もありませんでした」

「そうですよね。……さっき私たちも行ってきたのですが、事故現場からこの旅館までは、結構距離がありますよね。田山さんが、こちらに助けを求めに入ってきたということについては、どうでしょうか? 現場からここに来る途中にキャンプ場の管理棟もありましたが」

「ああ、それは田山さんご本人が証言したそうですよ。恋人の女性と連絡が取れなくなって、あちこち捜し回って、ここの近くまで来ていたからだそうです」


 理真の疑問はこれで解けたのか? 横顔を見ると……まだ納得はしていないみたい。それでも、


「ありがとうございました。御協力感謝します」


 と頭を下げて聴取を終えた。



 駐車場に戻り靴を履き替えて、私たちは次なる目的地である、お隣村上市の病院に向かった。捜索隊に加わり麻利亜の引き上げに立ち会った医師に会うためだ。忙しいお医者さんが相手のため、丸柴刑事を通じてあらかじめ約束を取り付けてある。

 病院に到着し、受付に話をすると応接室に通された。十分ほど待つと、白衣を着た男性医師が現れ、「探偵さんですって?」と興味深そうな顔で理真と私に目をくれた。


「いや、驚きましたよ。警察の方から電話をもらって、探偵が話を訊きに行きたいのだが、と言われたときは。しかも、こんなにお若い女性のコンビだとは。重ねて驚きました。いや、電話をくれた刑事さんが女性だという時点で、もう驚いていたんですけれどね」


 都合、三回驚いたというわけだ、このお医者さんは。年の頃は四十台半ばくらいだろうか。驚きの対象となった女探偵は、早速質問を開始する。


「引き上げられた直後の和泉麻利亜さんの状態について、お伺いしたいのですが、すでに死亡していたのでしょうか」

「ええ、それは間違いないです。私は、あの日休みをもらっていまして、たまたまあの旅館で温泉に浸かっていたんです。あそこなら、病院から近いから、緊急の連絡を受けてもすぐに駆けつけられますし。で、行楽客で行方不明者が出たと聞いて、何か力になれないかと、捜索隊に加わったのです。と言っても、私は行方不明者が発見された際にすぐに現場に向かえるように、旅館で待機していたのですが。確か、お昼の十二時十五分でしたね、発見の一報が入ったのは。それで私も現場に行きまして、被害者の状態を確認したのです。残念ながら手遅れでした」


 医師は沈痛な表情になった。理真は、ひと呼吸置いてから、


「和泉さんのような状況に陥って、命を取り留めるという場合は、あり得るものなのでしょうか?」

「……難しいですね。通常、今回のように溺水できすいしたケースでは、十五分以内に引き上げて心肺蘇生措置を施さなければ生還は絶望的、と言われています。恋人の方が掛けた電話の時刻と私の見立てで、和泉さんは水に浸かってから二時間近く経過していたと考えられます。救急隊員が心肺蘇生をやってくれていましたが、その時点で死亡していたことは間違いないでしょう」


 そうですか、と返事をした理真は、また少し時間を置いて、


「過去に、一時間以上溺水した人が蘇生したという事例があるそうですが」

「ああ、私も聞いたことがあります」


 と医師は、私が理真のファイルで読んだ、アメリカのミシェル少女のケースを話し、一九九九年にもノルウェーで同様の、このときは成人女性が、一時間以上極寒の川に浸かったのちに蘇生を果たした、という事例もあることを教えてくれた。


「これらは極めて特殊、かつ奇跡的なケースだと考えるべきです。もちろん救急隊員も私も、和泉さんに対しては最大限の措置を施しました。救急隊員や医師として、いえ、人としての当然の使命ですから」


 その言葉には理真も頷いた。医師は続け、


「ですが、私が診た時点で和泉さんは完全に死亡していました。百人の医師がいたら百人ともが、彼女は死亡していると診断を下すはずです」

「そうですか……。ちょっと、つかぬ事をお伺いするのですが、その完全に死亡した人間を蘇らせるようなことは、可能だと思われますか?」


 医師は、「ん?」という顔をしたあと、


「大昔には、そういった実験が行われていたと聞いたことはありますね。死体をシーソーのような器具に寝かせて固定して激しく揺する。すると、体内で停滞していた血液がまた流れだして心臓を動かし、蘇生するのではないか、などと考えた研究者がいたそうですよ」


 それを聞いて私は、田山の手記を思い出した。『心臓さえ動けば……』


「他には、電気を流すことで死体を蘇らせることが出来るという説を唱えた科学者もいました。死んだカエルの脚に電気を流すと痙攣する。それと同じことを人間の死体におこなって、最終的には生き返らせることも可能だと考えていたようですね」


 電気。私はまた手記を思い出す。『雷が落ちた。その甚大な電気の力が、ついに、再び、マリアの心臓を動かしたのだ』


 医師に話を聞き終え、私と理真は病院の食堂で少し遅い昼食をとった。


「麻利亜さんの死は確かに事故。発見された時点で亡くなっていたことも間違いない。それを再確認しただけだったね」


〈本日のランチ〉のエビフライを囓って私は言った。理真も同じくエビフライを頬張っている。と、そのまま短くなっていき理真の口に中に消えた。理真はエビフライ全部食べる派だが、私は尻尾を残す派だ。「ゴミが増えるだけだから全部食べろ」と言われたことがあるが、どうも抵抗がある。食べ残しゴミの省力化に貢献している探偵は、


「もしかしたら、何か分かるかなと思ってたんだけどね。警察の調べで全て網羅されてたわね」

「理真が疑問に思っていたことも、すぐに解決されたしね。田山さんが旅館に助けを求めたこと」

「ああ、あれね。うーん、でもなぁ」

「やっぱり、まだ納得いってなかったんだ。麻利亜さんの件は? もしかしたら、麻利亜さんは引き上げられたときは仮死状態で、自力で蘇生して病院を抜け出したんじゃないかって思ってたの?」

「それも考えたけれど、だったら、死亡宣告されたりもしたけれど、私は元気です、って知人や家族に真っ先に会いに行くでしょ。それに、じゃあ、あの手記は何なんだってことになるからね」

「ああ、そうか。麻利亜さんの死体が雷に打たれて蘇った、っていう記述。……あれは、そのまんまの意味じゃなくて、何かの暗喩なんじゃないの? もしくは、麻利亜さんを失ったことによる、あまりのショックで書き綴った田山さんの妄想だった、とか」

「うーん。麻利亜さんが仮死状態で蘇ったにせよ、あの手記が妄想だったにせよ、間違いのない事実が二つあるわ。麻利亜さんの遺体が消え失せたことと、田山さんが殺されたこと。しかも、その凶器から麻利亜さんの指紋が出てる」

「その二つの説を合わせてみたら? 麻利亜さんは病院で蘇生して、誰にも見つからないまま抜け出した。誰にも知らせないのには、何か理由があった。一方、麻利亜さんの遺体が消えてしまったという事実を認められない田山さんは、自分が麻利亜さんの死体を盗んで、雷で蘇ってどこかに行った、という妄想を頭の中で作り上げる。で、妄想に突き動かされて麻利亜さんを捜しに行き、深夜の公園を彷徨っているところを、病院を抜け出して潜伏していた麻利亜さんと遭遇。理由はまだ分からないけれど、殺されてしまう。この場合の謎は二つ。なぜ麻利亜さんは病院を抜け出したあと、自分は生きていると申し出なかったのか。そして、麻利亜さんが田山さんを殺した動機は何か」

「今もって麻利亜さんが出て来ない理由は?」

「それはもちろん、田山さんを殺したからだよ。殺人犯になってしまったんだから」

「殺人……殺す動機、か」


 ランチを完食した理真は箸を置いた。


 昼食を終えて病院を出る頃に、理真の携帯電話にメールがあった。差出人は丸柴刑事からで、会議は少し早まって午後六時から開始されるという。今から新潟市に戻ればちょうどいい時間だ。私と理真は、捜査本部が立つ上所かみところ署に向かった。

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