最終章 天国への階段
翌日曜日、
執刀医の
私と
神部の供述通り、実家の納屋からは麻利亜の死体が発見された。私と理真は麻利亜にも対面した。
「眠っているだけだ」
麻利亜の顔を見た私は、咄嗟にそう思ってしまった。
これが本当に死後十日以上も経った死体なのだろうか? いや、そもそも、この女性は本当に死んでいるのか?
もしかしたら志穂は、麻利亜の蘇生を諦め、美しいまま死体を保存することに方針を切り替えたのではないだろうか。生前と変わらぬ美しさを保ったまま、二度と目を開くことはない愛しい人。
しかし、あの夜、自宅付近を襲った落雷、そして消えた麻利亜。電気ショックで心臓が再び動き出す云々という理屈以上に、「生前と変わらぬ見た目を取り戻した麻利亜に、新たに命が宿った」と、志穂は考えてしまったのではないだろうか。
美しい麻利亜は、しかし、〈死体〉として、〈ひとつの証拠物件〉として、警察の手により運ばれていった。
理真の部屋で私たちは、何をするでもなく、まんじりと過ごしていた。
「神部さんはさ……」私は、ストーブの前で毛布にくるまり丸くなっている理真の背中に話し掛け、「神部さんは、本当に手術に失敗したのかな。もしかしたら、自分も春日さんのところに行きたいという、里沙子ちゃんのお願いを聞いて……」
「里沙子ちゃんが、突然手術を受ける決意をしたっていうのもね」
理真は、少しだけ首をこちらに向けた。
ひとりの女性が、愛する人の死を受け入れることが出来ずに起こした遺体盗難事件。それが引き金となり、多くの人間の運命を狂わせてしまった。
警察で志穂は全てを自供した。病院から麻利亜の遺体を盗み出したこと。それを自宅倉庫に保管し、ネットで調べた知識から遺体に血液凝固抑止剤を注入していたこと。志穂のパソコンには、死者蘇生や死体の保存などに関するホームページの閲覧履歴があった。死体の保存や蘇生実験に使用したと思われる様々な器具も自室から押収された。
罪状のみならば、大崎志穂に科せられるのは、〈死体等
志穂は拘置中に一度、着ている服を使って首を吊ろうとしたことがあったという。
「
突然理真が消え入るような声を上げた。「どうした?」と見ると、
「油が切れた……」
理真の目の前で、石油ストーブの燃焼筒が見る見る勢いを失っていき、真っ赤に燃えていたそれは、くすんだ灰色に戻った。
「給油しなよ」私は言ったが、
「ポリタンク、空っぽ」
「どうしてこうなるまで放っておいた!」
私は立ち上がった。ストーブが消えると、温められた空気はまだ残っているというのに、途端に部屋の温度も一気に下がったような気がする。
理真は首を後ろに倒して私を見上げて、
「灯油、買ってきて」
「理真も一緒に行くに決まってるでしょ!」
ぐずる理真の腕を掴んでカーペットから引き剥がした。
ついでに私の分もと、二つのポリタンクを車に積んで、私と理真はいつものガソリンスタンドを訪れた。例によってさわやかな店員さんに満タンのポリタンクを荷台に積んでもらうと、
「理真、ガソリンも入れていく?」
私は訊いた。来る途中、ガソリンメーターの針が、ほぼ〈
「んー……まだいいや」
理真が給油をしない理由は明白だ。今日は〈ポイント二倍〉のぼりが立っていない。
「あ、そういえばね」
帰りの車中、ハンドルを握る理真が話しかけてきた。
「
「そうなんだ。よかったね……いや、よくはないか。結局、亡くなってしまったんじゃあね……」
「二人はさ、天国で一緒になるんだよ」
柄にもなく、理真がロマンチックなことを口にした。天国だの地獄だの、そんなの全然信じていないくせに。
だが、里沙子と春日が、肉体的、精神的、金銭的にもつらい闘病生活から解放されたのは確かだろう。私は、そして理真も、死が問題を解決する選択肢に上がるなどということは、決して容認出来ない。理真について探偵助手をやるようになって、様々な事件や人の死に立ち会ってきたが、他人、または自分を殺して誰かが幸せになったなどという話を、私は一度として聞いたことがない。
「死んだあと、天国で幸せになる」それは確かに救いだ。しかし、その救いは死者のためのものでも、これから死のうと考えている人のためのものでもない。生きている人が死者に思いを馳せるための救いなのだ。天国とは、生きている人、今を懸命に生きている人のためのものなのだ……って、理真がどこかで書いてました。
「どうしたの、由宇」
きょとんとした顔で恋愛作家兼探偵が訊いてきた。
「ううん。何でもない」
私は運転席側から視線を逸らして、車窓の向こうを見た。
普段は泰然自若としている師匠も爆走するほど忙しい師走。灰色の雲の下、寒風吹きすさぶ街中を、誰もが
「今年もう、終わるね」
「そうだね」
窓の外を見たまま言った私の声に、理真が答えた。
ひと雨来そうな空模様だ。降られてしまう前に灯油を運び込んでしまわなければ。
ダッシュボードの上に載せている携帯電話が鳴った。電話ではなく、メールの着信だ。「誰だ? 見てみて」と携帯電話の持ち主である理真が言ったため、私は端末を取りメールを開いた。
「……あ、
「早速来たか……」
ハンドルを握りながら、理真がシリアスな表情になる。
「丸姉たちも誘おうよ」
理真が言った。出来るだけ戦力を掻き集めようということだ。忙しい刑事の身とはいえ、事件も片付いたため夜は空いているだろう。
「
「そうね。絵留ちゃんに対抗するには、男手も必要だしね」理真は中野刑事の参戦も要求して、「でさ、ついでに灯油も運んでもらおうよ」
「あはは」
私は笑いながら、刑事たちに飲み会のお誘いメールを打ち始めた。
アパートに到着して車から降りた。これから二人がかりでポリタンクの運搬だ。
「晴れてきたね」
理真の声に私も空を見上げた。
灰色の雲が頭上を覆い尽くしていることに変わりはなかったが、その雲に出来た切れ間から、ひと筋の陽光が地上に注がれていた。光の柱のように。
「きれい……」
「
と理真もそれを見て、
「またの名をね……」
私も知っている。〈天使の階段〉
蘇生人間マリア 庵字 @jjmac
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