第13章 最後の願い
「少しだけなら」
ドアが静かに開き、神部が姿を見せた。立派なソファが
「お久しぶりですね、神部先生」
「そうね、数日会わなかっただけなのにね」
神部は、私と理真の顔を交互に見て、
「それで、今日はどんなご用かしら」
「……神部先生、
理真の言葉に神部は顔を伏せた。が、すぐに理真の目を見返して、
「何をおっしゃっているのか」
「神部先生、全て分かっているんです。あの日、
神部は窓際に歩み寄り、窓の外を見た。その行動に意味はないのだろう。視点はどこにも定まっていないように思える。窓の向こうに広がる中庭には、数名の入院患者が散歩をしているが、神部の視線はそのどれも追ってはいない。
「
理真は頷いた。視線は窓の外に向けられたままのため、視界の隅でそれを捉えたのだろう、神部は、「そうですか」と言うと、
「でしたら、あなたの口から語って下さい。全ての謎を解いたというのであれば、探偵であるあなたが語るべきです」
理真を向いた。「分かりました」理真は諒解して、
「神部先生、あなたは、春日さんから、ある頼みを聞いてもらうよう言われていました。その頼みとは、恋人である入院患者、
しかし、春日さんのほうは本気でした。焦ってもいた。里沙子さんの病状が日に日に悪くなり、かといって手術に踏み切るだけの覚悟も持てない。今から何とかレシピエントとして認めてもらえたとしても、順番はかなりあとのほうになってしまう。順番が来るまで里沙子さんの体が持つかどうか。業を煮やした春日さんは強行手段に出ます。十一月十五日の夜、病院から帰宅する神部先生を待ち伏せした春日さんは、あなたの車を停めさせて最後のお願いをします。その場に彼が用意した心臓も持って来た。心臓といっても、それ単体ではありません、仮死状態になっている、と春日さんが信じていた、和泉麻利亜さんの遺体です」
そこまで聞くと、神部は大きく深呼吸をして窓際から離れ、ソファに腰を下ろした。理真は立ったまま続ける。
「春日さんがあなたを待ち伏せていた場所は、病院と自宅の間にある
話を戻します。春日さんから死体を見せられますが、医師であるあなたの目には明白だったことでしょう。そこにあったのは、仮死状態などではない、正真正銘死亡している完全な死体だった。いくら見た目がきれいでも、死体から取りだした心臓を移植用に使うことは不可能です。私も調べたのですが、心臓という臓器は、体外に取りだしてからその機能を保たれる時間、虚血時間が極端に短く、保存液を入れた状態でも四時間しか持たないそうですね。麻利亜さんの死体は、死亡してからもう何日も経過していたことは明白だったでしょう。心臓はおろか、どんな臓器だって移植に耐えうるわけはありません。あなたはそのことを春日さんに伝えた。
それを聞いた春日さんの絶望がどれほどのものであったか、想像するに余りあります。春日さんはあなたに死体を入手した経緯まで語らなかったでしょうが、あれは春日さんが、不可抗力とはいえ、その手を血で染めてまでして得たものなのです。そこまでして手に入れた体、心臓。それが全く使い物にならないものだったとは」
「彼は……」神部は呟くように、「春日さんは、追い詰められていたんです。一向に良くならない里沙子さんの病気。かさむ入院費と治療費。それを工面するため、会社で無理な残業を続けていたのではないでしょうか。それでも里沙子さんの前では、明るく気丈に振る舞い。今の安堂さんのお話が事実であれば、そのうえさらに殺人というストレスまでも抱え込んで。彼は心身ともに限界だった。彼の目にあれは、あの死体は、希望そのものとしか写っていなかったのかもしれません。心臓移植による起死回生の逆転。彼は、それに全てを託していたのです。今になって思えば、あの夜、私は彼に、とても残酷なことを言ってしまったような気がします……」
語るうち、神部の目には涙が溜まっていった。理真も憂いを帯びた表情でそれを見る。今度は理真が窓の外に視線をやって、
「そう、春日さんは追い詰められていました。最後の希望を絶たれた。里沙子さんと二人で一緒にいられる場所はもう、病院しかない。どこかに遊びに出掛けることも、家でくつろぐことも出来ない。思い切って手術を受けさせて、失敗したら、彼女は自分の前から永遠に失われてしまう。そんな世界に生きることは耐えられないと春日さんは考えていたのでしょうか。それならば、せめて里沙子さんを、愛する人を救いたい。この身がどうなっても。春日さんは最後の手段を取ります。神部先生、あなたにこう言い残して、『僕の心臓を里沙子に移植して下さい』当然、あなたは拒否します。すると、彼はその覚悟をあなたに示した。取り出したナイフを自分の腹部に突き刺したのです。あなたに止める暇はなかった。ナイフをあらかじめ用意していたというのは、もしかしたら春日さんは、最悪あなたをそれで脅迫するつもりだったのかもしれませんね。ですが、その刃は自分に向かって突き立つことになってしまった。
おびただしい血を流して崩れ落ちる春日さん。この状況で、あなたに出来ること、やるべきことは何だったでしょうか。春日さんの最後の願い通り、彼を病院に運び、里沙子さんに心臓移植手術を行うことでしょうか。いえ、目の前の命を救うこと。春日さんを助けることです。あなたは自分のマフラーで止血の応急処置を施し、119番通報をします。しかし、自分の携帯電話を使うことは出来ない。なぜかというと、あなたは春日さんを救うと同時に、彼の犯した罪も葬ってしまおうと考えたから。死体を盗んだという罪。そして、里沙子さんに自分の心臓を提供するため自刃したという異常な行動も消し去ってしまおうと考えた。
そのためには、春日さんの車のトランクに入っている死体をどうにかしなければならない。通報を受けて救急車が現場に到着するまでの平均時間は、約七分。たった七分の間に死体を持ち去り、またこの現場に戻ってくることなど不可能です。あなたが自分の携帯電話で通報してしまうと、救急車が到着したときにあなたがいないという事態になってしまう。医師としてそれはまずい。死体だけを自分の車に移動させたとしても、春日さんを病院に運んでから、ずっと死体が車に入ったままというのは危険すぎる。いつ、何の拍子で見つかってしまうか知れたものではありません。
あなたは春日さんの携帯を使い、口に布を当て、意図的に声も変え、自分であると悟られないように119番通報をした。緊急通報は全て録音されるということを知っていたためですね。通報を済ませたあなたは、急いで春日さんの車から自分の車へ、積んであった死体を移動させます。このとき、死体から抜け落ちた髪の毛が現場に残ってしまいました。
さらに春日さんが自分に突き立てたナイフも拭います。柄に春日さんの指紋が付いているためです。自分で自分の腹部にナイフを突き刺すとなると、自然、ナイフを逆手に持つことになります。そんな形で指紋が検出されたら、春日さんの傷は自傷によるものと一発で看破されてしまう。凶器自体を持ち去ることは危険だと判断したのでしょう。自分の手元に置いておくことも、処分することも危険を伴うと。背負い込むリスクは死体だけで手一杯だと判断したのでしょう。凶器から、刃に付着した血もろとも春日さんの指紋を拭き取って現場に放置したあなたは、あとのことは全て救急隊員に任せて現場を去ります。
ですが、あなたの仕事はこれで終わりではなかった。あの現場で重傷者が出たならば、必ずここ、中央病院に搬送されると分かっていたあなたは、病院に電話を掛けます。使用したのは現場近くの公衆電話。病院への発信は録音などされている心配はないので、ここではわざわざ声を変えたりはしません。電話の目的は、里沙子さんを起こして搬入された春日さんのそばにいさせること。傷の具合や、出血の状態を見て、春日さんの生存は絶望的だと、あなたは思っていたのかもしれない。それならばせめて、愛する人を近くにいさせてやりたい。里沙子さんも、それを望んでいるはず。結果、春日さんは帰らぬ人となってしまいましたが、あなたの配慮により、里沙子さんは春日さんの最期に少しでも近くにいることが出来ました。それは、この悲しい事件の中において、たったひとつの幸せだったのではないでしょうか」
堪えきれなかったのだろう、神部は流れるものを手で拭い、懐から取りだしたハンカチを目に当てると、
「どうして、あの現場にいたのが私だと? それに、春日さんが、自分で自分を刺したというのも、どうして分かったのですか……?」
「最初に気付いたのは、病院から神部先生宅へ向かう最短ルート上に、春日さんが刺された現場が位置していたこと。現場に落ちていた髪の毛のDNAが、消えて私たちが探している死体と一致していたこと。別の事件での推理で、春日さんがその死体を入手していた可能性が高いこと。その死体を入手した春日さんの目的。その目的を叶えるためには、里沙子さんの主治医である神部先生の協力が必須です。春日さんが神部先生の通勤ルートを調べ上げており、人通りの少ない道で待ち構えるというのは考えられることでした。春日さんが死体を入手しており、心臓移植を願っていたのだとしたら、それを頼むのは主治医である神部先生以外にはいません。
それと、春日さんが亡くなった翌日、あなたが出勤する際に現場を通らなかったからです。あの道は病院とあなたのご自宅とを結ぶ最短距離だった。通勤には必ず使っていた道でしょう。だからこそ春日さんは、あの道で神部先生を待っていたのでしょうから。翌日、現場であるあの道路は現場捜査のため封鎖されていました。あなたが出勤するためあの道路を通ろうとしたならば、通行止めを知らせる警察官に目撃されていたはずなのです。ですが、あなたはあの日、現場道路を通らないまま病院に出勤していた。それは、いつもの道路が捜査のため封鎖されているだろうと知っていたか、春日さんが自ら腹部を刺した場所を通ることに抵抗を憶えたためでしょう」
「さすがね」
神部は、ふっ、と息を漏らし笑みを浮かべた。
「神部先生、私の話に、どこか違っていたところはありましたか」
神部は首を横に振った。そうですか、と理真は続けて、
「あなたが持ち出した死体は、どこにしまってありますか」
「春日さんにあんなことが起きた日の夜のうちに、隣町の実家の納屋に一旦置いてきたわ。深夜だったため、家族も起きてこなかったわ。私もマンション暮らしなもので。本当はこの週末に納屋からも持ち出して、本格的に始末しようと思ってたんだけど、用事が入っちゃってね」
「死体の始末よりも、大事なことなのですか」
「ええ、そうよ。とても大事なこと」ひとつ、ため息をついて、「里沙子ちゃんの手術をするのよ。ここ数日は、その準備に追われていたわ」
期待とも、諦めともつかない、神妙な表情で神部は言った。
「里沙子ちゃんが、手術を受けることを決意したということですか」
「そう。だから、安堂さん、私の逮捕はそれが終わるまで待ってほしいの。明日の……昼までには終わるわ」
「そうですか……神部先生、春日さんのことは、里沙子さんには?」
「言えるわけないじゃない」神部はソファから腰を上げて、「彼氏が、自分の心臓を差し出そうとして自害した、だなんて」
そう言って神部は、懐から一枚の紙を取りだし、テーブルに置いた。
「彼、私の目の前にそれを叩き付けて、自分の腹を刺したのよ……」
神部の目に再び涙が溢れた。神部が置いたもの、それは〈臓器提供意思表示カード〉だった。
「私の指紋が付くと思って、一緒に彼のポケットから落ちたハンカチにくるんで持ち帰ったわ」
神部はカードの隣に、畳まれた薄い青色のハンカチも置く。恐らく血と土で汚れていたであろうそれは、きれいに洗濯されていたが、角に施された刺繍の一部には、まだ赤黒い染みが残されていた。天使の手が赤く染まっていた。
「……そもそもね、提供相手を指定したり、自殺した場合、臓器の提供はされなくなるっていう決まりなの。彼、よく読まなかったのかしら……」
俯いた神部の目から、涙が落ちる。
理真と私はカードに目をやった。自筆の〈春日涼〉という署名の上に、「私の心臓を野田里沙子に移植して下さい。彼女を助けて下さい」と書かれてた。
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