第1章 死者が持つ刃

「ようやく暑さを感じなくなったと思ったら、もう寒いよ! どうなってんの? 日本には四季があったんじゃなかったの? 秋、短すぎでしょ! 小さい秋をこれっぽっちも見つけられなかったわ!」


 また、わあわあと、うるさいな、この人は。


「ねえ、この夏から今まで、冷房も暖房もつけなかった日が何日あった? 三日くらいじゃない?」

「もっとあるでしょ」

「じゃあ、四日くらい?」

「しらねーよ! 無駄口叩いてる暇があるなら、そこのポリタンクを車に積んでよ」


 私に言われて、「はいはい」と、さも不満げに安堂理真あんどうりまは、灯油でいっぱいになった赤いポリタンクの取っ手を掴んだ、が、上がらない。満タンのポリタンクを女性が片手で持ち上げるのは無理だ。理真は両手(といっても取っ手の幅が短いため、人差し指と中指だけを使い計四本の指)で取っ手を握り直すと、ぬん! と掛け声だけは威勢よく持ち上げたが、一メートルも運ばないうちに深い息をつくとともに地面に置いてしまう。それを見かねたのだろう、ガソリンスタンドの店員さんが、さわやかな笑顔とともに、「お運びします」と理真の手からポリタンクを取り上げ、片手で易々と持ち上げると、理真の愛車スバルR1の荷台にひょいと載せてしまった。

 当の理真は満面の笑みで「ありがとうございます」と店員さんに会釈。誰しもが認める美人、安堂理真に、長い髪をふわりと揺らされてこんな対応をされては、「お安いご用です」と若い男性店員さんも頬を染めざるを得ない。いや、相手が誰であろうと、スタンドの店員さんは親切に対応してくれるのだが。

 確かに理真が言った通り、今年の秋は短かった。というか、現在の十一月中旬というのは、一年を四等分すれば、まだ秋のはずだ。去年はこんな時期から、ポリタンクを車に積んで灯油を買い求めにガソリンスタンドまで来ていただろうか。

 もうひとつのポリタンクも満タンになった。私は、セルフ給油のノズルを給油機に戻してタンクの蓋を閉めると、さっきの理真のように両手で取っ手を掴み、持ち上げにかかったが、ぐぬぬ、これは重い……


「お運びします」


 と、さっきの店員さんが駆け寄ってきてくれて、私が苦戦していたポリタンクをやはり難なく持ち上げてしまった。女性にやさしい店員さんだ。ま、私は理真みたいに美人ではない(謙遜)し、髪型も理真のサラサラロングとは全く違い癖っ毛で、おまけに縁なし丸眼鏡だけれど。

 先ほど理真が運んでもらったポリタンクの横に私のものも置くと、店員さんは、「灯油の宅配もやっておりますので」と相変わらずの笑みで言ってくれた。そうなのだ、アパートに帰ってからは、この灯油を二階まで運ばなければならないのだ。私の部屋、管理人室は一階なので、運ぶのは二階に居を構える理真の分だけなのだが。

 店員さんの対応に気をよくしたのか、理真は、ついでにガソリンも入れていくと言いだし、車をガソリン給油機の横に移動させた。スタンドと公道の境界にはためくのぼりを見て分かった。店員さんに気をよくしたというか、今日はポイント二倍デーだったのか。理真は灯油を入れるときにも使った、青地に黄色でアルファベットの「T」がデザインされたカードを給油機に入れると、続いて現金も投入した。


 給油を終えての帰り道、車内も当然暖房を入れている。ハンドルを握る理真は、


「あー、帰ってから二階までポリタンクを運ぶと思うと、憂鬱だな」


 さっそく灯油輸送の心配をしだした。


「何を今更。去年までずっとやってたことじゃん」

「ねえ、去年まで、灯油ってどうやって運んでたんだっけ?」

「え? 普通に私も手伝って運んでたよ」

「うん、でも、それにしては、運んだ回数があまり記憶にないような……ひと冬で何往復もするでしょ」

「あー、そうだ理真、中野なかの刑事に手伝ってもらってたんだ」

「あ、そうだった」


 理真は得心したように、うんうんと頷いている。そうだった。新潟県警捜査一課の中野勇蔵ゆうぞう刑事に力仕事を手伝ってもらっていたのだ。それをど忘れするとは、何と恩知らずな。

 この私の隣でハンドルを握る、安堂理真なる女性が、どうして捜査一課の刑事相手に灯油の輸送などという大それた頼みが出来るのかというと、理真の職業が作家だからだ。違う。作家の他に持つ、もうひとつの顔のおかげなのだ。その顔とは、素人探偵。主に不可能犯罪捜査に際し、警察に協力して事件解決に当たるというあれだ。


「よし、由宇ゆう、中野刑事を呼びつけて」

「まじかよ」

「冗談に決まってるでしょ」


 そりゃそうだ。

 中野刑事とは、私も懇意にしている。というのも、いざ理真が事件の捜査に赴く際には、私、江嶋えじま由宇も理真の助手、いわゆるワトソンとして同行することがほとんどだからだ。理真と私は高校時代の同級生。探偵、ワトソンともに女性というのは、あまり見ないコンビなのではないかと思う。しかも、二人ともうら若き女性というのはね。


「あ、というか、由宇、あれは私が中野刑事に頼んだんじゃないからね。何の気なしにそういう話になったとき、『大変ですね、安堂さん。俺が運びますよ』って言ってくれて、その場で灯油を買いに行くってことになっただけだからね」

「そうだっけ? 理真がたらし込んで運ばせたんじゃなかったっけ?」

「失礼だな君は」


 県警捜査一課の中野刑事も、先ほどのスタンド店員と同年代の若い男性。理真に対して似たような態度になるのはいつものことだ。と、携帯電話に着信があった。買ってから一度も変えていない〈着信音1〉が、ダッシュボードの滑り止めに載っている理真の携帯電話から鳴っている。

「由宇、出て」と言われ、私は運転中の持ち主に代わって携帯電話を手に取る。ディスプレイに表示された発信者の名前を見ると、


「あ! 中野刑事からだよ!」

「噂をすれば?」

「もしかして、灯油、運びますよっていう電話かも」

「何それ、怖いんだけど」

「一部始終を見ていたとか」

「いいから、早く出てよ」


 そうだった。馬鹿な話をして、忙しい捜査一課刑事を待たせては悪い。私は応答ボタンを押して携帯電話を耳に当てた。


「はい、もしもし」

「あ、その声は、江嶋さんですね」

「はい、理真は今、運転中で」

「そうでしたか」


 中野刑事、明らかに残念そうな声だぞ。失敬だな。


「江嶋さん、安堂さんに伝えてもらえますか。力を貸して欲しいと」

「事件ですね」


 私のその声を聞くと、理真は横目で私を見て真剣な表情になる。


「そうです、今日の夕方にでも、県警に来られますか?」

「ええ、多分大丈夫です」

「ありがとうございます。県警には、俺ではなく、丸柴まるしばさんがいてくれるはずですので。では」


 中野刑事のほうから通話は切れた。やはり忙しくしているらしい。県警で理真と会うのが丸柴刑事であるなら、中野刑事は、ただの連絡係だったのか。この電話が理真と触れる数少ない機会だったのかもしれない。私が電話に出て悪いことしちゃったな。


「理真、夕方に県警に来て欲しいって」


 私は携帯電話をダッシュボードに戻した。


「中野刑事が待っててくれてるの?」

「ううん、丸柴刑事がいるって」

「そうなんだ、丸姉まるねえが」


 県警捜査一課の紅一点、丸柴しおり刑事は、理真と最も懇意にしている刑事さんだ。理真が愛称で呼んだことから分かるように、二人は親しい友人同士で、その関係は、理真がまだ素人探偵として活躍を始める前にまで遡るのだ。


「よし、灯油を運んだら支度して県警に行こう」


 理真は意気揚々と、部屋まで重たいポリタンクを運ぶ決意を固めた。



 結局私も手伝い、二人でポリタンクを二階に位置する理真の部屋まで運んだあと、支度を整えて県警に向かった。


「丸姉、来たよ」


 捜査一課室に入るなり、理真が声を掛けた。


「いらっしゃい、理真。由宇ちゃんも」


 セミロングの髪をなびかせて、美貌の女刑事は振り返る。今日もグレーのスーツをばっちりと着こなし、右手にはコーヒーカップを持っている。理真は女性の中では決して背の低いほうではないが、丸柴刑事は理真のさらに上を行く。


「本当なら、いつもみたいに私から電話するはずだったんだけど、ちょっとばたばたしててね。急遽中野くんから連絡してもらったの……はい」


 丸柴刑事は、私と理真の分のコーヒーを淹れてくれて(と言っても機械のボタンをひとつ押すだけなのだが。失礼)テーブルに置くと、椅子に座るよう促した。私は鞄から手帳とペンを取り出して、メモの準備を整える。ファイルを持って来て私たちの対面に腰を下ろした丸柴刑事は、


「昨日の夕方、新潟市内東区で他殺体が発見されたの」

「ああ、ニュースでやってたね」


 理真の言葉に私も頷いた。昨日だから、十一月十二日、東区にある公園の植え込みの中から、刺殺された男性の変死体が発見された事件だ。凶器と思われる包丁も現場に残されていたと聞いている。丸柴刑事はファイルを開いて、


「被害者は、東区在住の会社員、田山信治たやましんじさん。背中を二箇所、腹部を三箇所刺されたことによる失血死が死因ね。凶器の包丁は現場に残されていたわ。現在、捜査は当然、被害者の怨恨関係を洗っているんだけど。実はね、凶器から指紋が出てるの、しかも該当者も分かった」

「じゃあ、その該当者で決まりじゃないの?」


 理真は言ったが、それで決まりの事件であれば、わざわざ新潟県警が素人探偵に出馬要請をするはずがない。丸柴刑事は、「それがね……」と表情を曇らせて、


「指紋の該当者は、和泉麻利亜いずみまりあさん。被害者の恋人だった」

「恋人……じゃあ、痴情のもつれ? ん? 丸姉、今、『だった』って」


 理真が丸柴刑事の言葉尻を捉えた。丸柴刑事はファイルの別ページを開いて私たちに見せて、


「これ、今月の三日に起きた事故の記事なんだけど」


 ファイルには、新聞の切り抜きがスクラップされている。それは、新潟県北部の関川せきかわ村で起きた事故を報じた記事だった。紅葉狩りの名所、荒川峡あらかわきょうもみじラインに流れる荒川で女性が溺死したという。被害者女性の名前は……


「ん?」


 理真がファイルに目を寄せた。私もその記事をよく読むため、眼鏡の弦に手をやる。


「亡くなった女性は、新潟市東区在住の……和泉麻利亜さん?」


 私は記事を読み上げた直後、理真と顔を見合わせてから、二人とも丸柴刑事に目を戻した。


「丸姉、この被害者って……」

「そうなの。凶器から出た指紋の持ち主の、和泉麻利亜さん」

「他の人の指紋は?」

「出ていないわ。事件から十日も前に亡くなっていた女性が容疑者ってことになるのよ」

「……いやいや、違うでしょ。何かの間違いだって」

「そう、何かの間違いであることに間違いはないでしょうね。ややこしいな。でもね、理真、これは遺族の意向で報じられていないんだけれどね、その亡くなった和泉麻利亜さんの遺体が……どうやら盗まれたらしいのよ」

「盗まれた? 遺体が?」

「そう。その和泉麻利亜さんが亡くなった、と言うか、死亡が確認された状況がちょっと特殊でね……」


 丸柴刑事は、今月、つまり十一月三日に荒川で起きた事故の概要を話し出した。


 文化の日のため祝日である十一月三日。和泉麻利亜は、恋人である田山信治の運転する車で、関川村の荒川峡もみじラインへ出掛けた。麻利亜は田山の自宅に二人で同居しており、朝早くに出掛ける二人を近所の住人が目撃し、挨拶も交わしている。

 荒川峡に到着したのは午前九時頃。二人は駐車場に車を停めて徒歩で紅葉狩りを楽しむ。だが、紅葉狩りを始めて一時間程度が経過した午前十時頃、田山は麻利亜とはぐれてしまったという。

 田山の話によると、二人で休憩所で休んでいた際、麻利亜は紅葉がきれいだから休んでいるのはもったいないと、ひとりで先に歩いていってしまった。一服してからあとを追おうと、田山は十分に休んでから休憩所を出た。が、いくら捜しても一向に麻利亜は見つからない。携帯電話に掛けてみたが、電源が入っていないとのアナウンスが流れるだけだった。

 これはおかしいと感じた田山は、近くの温泉旅館に入り、一緒に来た恋人が行方不明になったとフロントに告げた。温泉宿から警察と消防署に連絡がされると同時に、地元からも人手を集めて捜索隊が結成され、いち早く捜索を開始した。警察の記録によると、この通報がされた時刻は午前十時四十五分だった。

 警察と消防の救急救命隊は、地元の捜索隊に送れること三十分後に現地に到着。合流して麻利亜の捜索に当たった。

 捜索が開始されてから約一時間後の午後十二時十五分、荒川の川岸から約二メートルほど離れた川底で、和泉麻利亜は発見された。川の流れの緩やかな場所で、服が岩に引っかかった状態だっため、流されることなくその場に留まっていたと見られている。

 川底から引き上げられた麻利亜は、救急隊員の手で心臓マッサージ、人工呼吸、AEDも使用しての心肺蘇生が試みられたが、息を吹き返すことはなく、捜索に加わっていた医師により状態が確認された。体は冷たく、呼吸をしておらず、脈拍も停止。まぶたを開くと、瞳孔の散大と固定。医師は麻利亜は死亡していると認めた。現場状況から推察した死亡時の状況は以下の通り。


 死体が沈んでいた場所の直上に、せり出した岩場があり、そこに堆積している泥と落ち葉に足を滑らせたような跡が見られた。このことから、麻利亜はその岩の上に上り、対岸の紅葉をもっと近くで見ようとしたか、携帯電話のカメラに収めようとして、河川側に体を乗り出した際に足を滑らせて転落。冷たい川の水に突然触れたことで心臓が停止。そのまま死に至ったと考えられた。携帯電話も死体のそばで水に浸かっており、田山が電話を掛けても通じなかったのは、その時点で携帯電話が水没して壊れていたためと見られる。田山の電話の発信時刻は午前十時四十分であったことから、この直前に麻利亜はすでに川に転落しており、現場で死体を看た医師の所見と合わせると、麻利亜が転落、死亡した時刻は午前十時半前後と判断された。


 引き上げられた麻利亜の死体に、田山はすがり付いて泣いた。遺体は一旦最寄りの病院に運び込まれ、遺族に連絡が取られることとなった。

 霊安室に麻利亜の遺体が置かれ、警察、関係者ともにばたばたとしていた隙を突かれた格好となった。遺族が到着し、無言の対面を果たすため霊安室に足を踏み入れたが、そこに置かれたベッドは空だった。麻利亜の遺体は忽然と消え失せていた。


「遺体がなくなった……盗まれたってこと?」


 話を聞き終えて理真が言った。


「そう見られているわ」

「盗んだ犯人は?」

「決定的な証拠があるわけじゃないんだけれど、恋人の田山さんではないかと」

「昨日死体で発見された人ね。証拠がないのに、どうしてそう思われているの? 恋人だから?」

「それもあるんだけれどね……決定的、じゃないけれど、こんなものが見つかったの」


 と丸柴刑事はまたファイルをめくって、「読んでみて」とA4紙にワープロソフトで打たれた書類を指さした。


「なになに……『十一月四日 私に行える限りの、あらゆる手は尽くしたといっていい。だが、駄目だ。マリアの心臓は動き出さない。お互いの鼓動を聞きながら眠りに就くことも出来ない』……」


 理真は冒頭の数行だけを朗読して黙った。私もその文書を黙読する。


「……『私は彼女を捜しに行く。マリア、今、どこにいる』……なにこれ?」


 理真は顔を上げた。私もほぼ同時に黙読を終えて、丸柴刑事の顔を見る。


「田山さんの自宅パソコンに入っていた文書データよ」

「これを読むに……」

「そう、田山さんは病院から和泉麻利亜さんの遺体を盗み出して、自宅で蘇生実験を行っていた。ある日、この手記の日付では十一月十日ね、麻利亜さんは雷に打たれて蘇り、脱走。田山さんは麻利亜さんの捜索に出る……」

「で、発見した麻利亜さんに殺された? 凶器に麻利亜さんの指紋が残っていたから?」

「理真を呼んだ理由が分かったでしょ」


 丸柴刑事は腕を組み、理真はもう一度、恐るべき手記に視線を落とした。

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