第2章 謎の蘇生実験
「
「今のところ、いないわね。近所の住人や職場の知り合いに聞き込みもしたけれど、人から恨みを買うような人間ではなかったと、口を揃えて証言されたわ」
「恋人だった、
「それもなし。田山さんの友人や、職場の同僚も何人か、飲み会なんかで麻利亜さんに会ったことがあるそうだけれど、いたって仲睦まじい二人だったって」
「男女関係のトラブルはなし?」
「今のところはね。これは友人のひとりが、もう二人とも故人だからってことで証言してくれた話なんだけれど、田山さんの友人が、ひと目見て麻利亜さんのことを気に入って、陰でちょっかい出そうとしたことがあったんだって。その友人はかなりのプレイボーイで、ルックスもモデル並み。今までもそういった横恋慕を掛けて、何人も女性をものにしてきたとかいう男なんだけれど。全然だったって。自分は田山さんひと筋だから、何を言ってきても無駄ですよって、笑ってあしらわれたことがあったそうよ」
「麻利亜さんって、美人だったんだ」
「うん」と
関係者の写真をまとめたページを開いた。そこに載っている和泉麻利亜の写真を見て、隣の
「麻利亜さんの遺体は、まだ見つかっていないのね」
理真の問いかけに、丸柴刑事は頷いた。
「蘇った麻利亜さんが歩いているところを目撃されたりとかも?」
「理真、真面目に」
「分かってるって」
「まあ、とりあえず、殺された田山さんの検案、司法解剖の結果を教えるわ。ファイルにも書いてあるから、確認したくなったらそっちを見てね。死亡推定時刻は、三日前、十一月十一日の午後十時から十一時の間。死因は最初に言ったけど、背中と腹部を数箇所刺されたことによる失血死ね。死体が発見されたのは、被害者の自宅から少し離れた公園内の植え込みの中。死体発見位置は人が立ち回れるような広さはなく、死体から数メートル離れた広いところの地面に血痕が発見されたから、恐らくその場所で刺されて殺されてから、植え込みの中に遺棄されたんでしょうね。これも言ったけど、凶器の包丁は死体のそばに投げ置かれていて、包丁からは指紋がひとり分だけ検出されて、田山さんの家にある麻利亜さんの私物から検出した彼女の指紋と一致した。現場は乾いた固い地面だから、足跡は見込めないわね。被害者の衣服なんかに加害者のものと思われる残滓物はなかった。寒い屋外で、田山さんの死体は手袋をしていたから、抵抗して加害者の皮膚片が爪の間に残る、といったこともなかったわ。友人、職場の人たちに聞き込みをしているけれど、今のところ、何人かと飲んでいたとか、家でひとりだったとかで、アリバイについては漠然とした証言しか得られていないわね」
「十一日は、一昨日か。金曜日の夜だね」
「だいたい、友人、職場仲間には、田山さんを殺害する動機もないしね」
と言うと、丸柴刑事は掛け時計を見て、
「あ、理真、
「丸姉、そんな簡単にいくわけないでしょ」
「はは」と丸柴刑事は笑って荷物をまとめると、「そのファイルは預けておくわ。じゃあね」
手を振って、颯爽と捜査一課室を出て行った。
「もう一杯コーヒーいただいたら、私たちも出ようか」
と理真は、私の分も合わせて、空になった二つのカップを手にコーヒーメーカーの前に立ち、ボタンを押した。コーヒーのいい香りが二人だけになった捜査一課室に漂う。
二杯目のコーヒーを飲みながら、私たちはファイルに目を通す。特に理真が注視したのは、やはりあの手記だ。和泉麻利亜の死体に蘇生措置を施したが、生き返らせることは出来なかった(当たり前の話だが)というものと、そして、雷によって麻利亜が蘇り、家を出て行ったという、十一月十日の手記。別のページに、気象台から取り寄せたと思われる資料も添付してある。確かにその前日十一月九日の夜半(時刻は深夜一時だから、正確には日付のうえでは十日だ)に新潟市東区に落雷の記録があり、その影響で周囲何十世帯かが数時間に渡って停電に陥っている。その夜のことは私も憶えている。短時間ではあったが、かなりの雨風が屋外で猛威を振るっていた。
「確かに、九日の夜は凄い嵐だったよね」
理真も同じことを考えていたのか。そう口にした。
「そうだったね。理真の部屋で二人して戦々恐々としてたものね」
「アパートが吹き飛ぶかと思ったわ」
「失敬な。確かに築年数は古いけど、改装して耐震補強もしてあるんだぞ」
「落雷したら、アパート爆発しない?」
「しねーよ」
「雷……雷で蘇った死体、か……」
「まるでフランケンだね」
「由宇、『フランケン』って、怪物を作った科学者の名前なのよ。正確には、『ヴィクトル・フランケンシュタイン』彼が死体を繋ぎ合わせて作った怪物には、特に名前は付けられていないの」
「え、そうなんだ」
「名前がないから、とりあえず制作者の名前で呼んでるうちに、それが定着しちゃったんでしょうね。それに、原作では雷で怪物がいきなり生き返ったわけじゃないの。フランケンシュタインが長い時間を掛けた研究の末に地味に完成したのよ」
「へえ、一般的なイメージって、色々と脚色されたものなんだね」
「そうよ。それに、一般的なイメージのフランケンは『フンガー』としか言わないけど、原作のフランケンシュタインの怪物は、言葉を憶えてめちゃ喋るからね」
「理真、『フンガー』って言うのは、『怪物くん』に出てくるフランケンだけでしょ」
「で」と理真はもう一度手記に目を落として、「この手記を鵜呑みにするなら、雷に打たれて奇跡的に止まっていた心臓が動き出した麻利亜さんは、蘇ったばかりで脳に血液が行き渡らず、意識が朦朧としたまま家を出る。そして、田山さんは麻利亜さんを捜しに出る。ようやく麻利亜さんを発見した田山さんだったが、その麻利亜さんに刺し殺されてしまった。麻利亜さんの行方は未だ知れず。と」
「そういうことになるね」
「そういうことになるね、じゃないよ、由宇。あり得ないでしょ」
「うーん、でも、この手記にも書いてあるけど、麻利亜さんの死因は溺死で、外傷は一切なかったんでしょ。心臓さえ動かせば蘇生出来るかもっていうのは、気持ちは分かるけどな」
「そうね。実際、過去に似たようなケースはあったそうよ」
「え? 理真、自分で『あり得ない』なんて言っておいて、実はあるんじゃん。どういう話?」
「えーっとね……家にファイルしてあるから、帰ったら教えてあげる」
「何だよ。ここで、すらすらと、何年何月に、これこれこういったことがあったのだよワトソン、って
「私だって、こういう事件だって前もって分かってたら、下調べしてきてたわよ」
「理真、死体が生き返る云々以前に、今言ったようなことが起こりうる、現実的な回答は得られると思う?」
「うーん……例えば、荒川峡で発見されたとき、麻利亜さんは実は死んでいなかった。一時的な仮死状態のところを、医師が完全に死亡していると診断してしまった。病院に運ばれて霊安室に運び込まれた麻利亜さんを、田山さんが死体だと思って盗み出す。で、自宅であらゆる蘇生手段を試みていて、雷のショックでついに目を覚ます。こんなところ?」
「まず、その、麻利亜さんの捜索に参加して、死亡診断を下したお医者さんに話を聞いてみる必要があるね」
「そうね。現場にも行ってみよう。でも」
と理真は窓に近づき、ブラインドを下ろした。夜の
「もう遅いから、明日になってからだね」
そう言うと、ブラインドのスラット(ブラインドを構成する板)の間に指を入れてパチンと音を立てて開くと、目尻に皺を寄せて外を覗いた。何ごっこをしてるんだよ。
「由宇、これだ、県警で話に出たやつ」
理真は一冊のファイルの開いて、私の前に差し出した。
アパートの理真の部屋に帰ると、私は夕食の準備を始め、理真は書棚のファイルを引っかき回した。あらかた準備を終えた私は、エプロンを外してファイルを受け取り、
「なになに……一九八六年六月十日、アメリカのソルトレークシティでのこと……」
二歳の少女、ミシェル・ファンクが足を滑らせて小川に転落してしまった。発見され引き上げられたときにはすでに、溺れてから一時間以上も経過していた。救急隊員の手で引き上げられたミシェルはこのとき、「チアノーゼ(血液中の酸素濃度が低下して皮膚が青紫色になること。水死体に顕著)、呼吸停止、筋肉弛緩、瞳孔の散大と固定、脈拍触知不能」つまり、あらゆる「死者」の様相を呈していたという。それでも救急隊員はミシェルを救急外来に搬送。待機していた救急医療チームはミシェルに対して心拍再開のためのあらゆる手を尽くす。が、ミシェルの心臓は一向に動き出さないまま三時間が過ぎた、そのとき。ミシェルは微かに呼吸を取り戻し、心臓も動き出す。最初、心臓は医学用語で「細動」と呼ばれる小刻みな振動を繰り返すだけだったが、その動きは次第に規則的に正常なリズムを刻むようになった。少女ミシェルは三時間の末、いや、落水してからなら、四時間以上もの時間を経て、再び心臓の鼓動を取り戻し、生還したというのだ。
「今回の和泉麻利亜さんのケースと似てると思わない?」
私がファイルを読む間、食事を座卓に並べ終えていてくれた理真が言った。
確かに、
「理真、田山さんは、この、ソルトレークシティでの事故の顛末を知っていて、麻利亜さんに対して蘇生を試みたのかな?」
「それなら、その場で警察や立ち会った医師に言うでしょ。何時間も経ってから、わざわざ死体を盗み出す必要はないわ」
「それもそうか。事故があって、何かいい方法はないかと携帯電話を使って、その場でネット検索をして、この事故のことを知った、とか?」
「そうだとしても、まず医師に言うでしょ」
「うーん……」
「ねえ、由宇」
「なに?」
「早く食べようよ」
座卓の前に座った理真は手を合わせ、あとは「いただきます」を言うだけの姿勢で待機していた。
今日の献立は、豚肉がセールだったから生姜焼きと、一緒に炒めたもやし、保存していた
「いただきます」をして食事を開始する。生姜焼きには刻みキャベツがよかったと理真が文句を言ってきたが、キャベツが高かったから、代わりにもやしを使ったのだ。と言い返してやる。
「ねえ、理真、さっきの話の続きだけどさ」
「麻利亜さんの事故の?」
「そう、よくよく考えたらさ、愛する恋人が亡くなって、『昔アメリカで、こういう事案がありました』なんて、知っていたとしても冷静に、すぐには思い出せないよね」
「そうかもね。頭がいっぱいで、とてもそれどころじゃないでしょうね」
「だから、時間が経って、少し落ち着いてから、そのことを思い出して、死体を蘇らせようと思い立った。お医者さんにそんなことを言うと、一笑に付されると思ったから、自分で試すために遺体を盗み出した。」
「うーん、あり得なくはないかもね」
「でも、手記にも書いてあった通り、全然成功しない」
「当然よね」
「そんなとき、九日の夜、家に雷が落ちて……」
「だから、それはないって。だいたい、百歩譲って麻利亜さんが蘇って家を出て、田山さんが徘徊してた麻利亜さんを発見したとしようよ。どうして殺されないといけないの? 愛する恋人だよ」
「それは、手記にもあったように、意識が完全に戻っていなくて、近づいてきた田山さんを敵だと思って刺してしまった」
「それ」と理真は、手にした箸で私を差して、「凶器も問題だよね。麻利亜さんはわざわざ家から包丁を持って家を出たってこと?」
指し箸は行儀が悪いぞ。注意すると、理真は箸を下ろして、
「しかも、背中と腹部を数回も刺されてる。いくら意識朦朧としていたって、恋人に対してあんまりな仕打ちじゃない」
「うーん、仕打ち……あ、文字通り仕打ちだったというのは? 麻利亜さんは、丸柴刑事が聞いた証言の通り、田山さんに一途だったんだけれど、田山さんのほうは浮気性で、ほかに恋人を作っていた。麻利亜さんはそれに気が付いていた」
「蘇生して、意識混濁の状態でも、浮気に対する恨みだけは忘れていなかった、と」
「そうそう。そのときには、もう完全に蘇生していて、意識もはっきりしていたのかも」
「嵐で雷が落ちた日が九日の夜。で、田山さんの死亡推定時刻が、十一日の午後十時から十一時の間。ほぼ丸二日。どこにいたの?」
「それは、どこかに潜んでいたんだよ。あ、もしくは、麻利亜さんは意識を取り戻して無事田山さんのところに帰ってきていただけなのかも。そこは、ただ手記に書かれていなかっただけ」
「で、浮気の件で口論になって、公園で田山さんを刺した。そして、また行方をくらました、と」
「いい線行ってない?」
「由宇、今の話は、まず、医師に死亡診断まで下された麻利亜さんが、雷が原因かはともかく、何らかの手段で蘇生を果たした、というとんでもない前提の上に成り立つ話よ」
「あり得なくはないでしょ。さっきのファイルにあった、少女ミシェルの案件の通り」
「今、麻利亜さんはどこに?」
「……あ、田山さんの家に潜んでいるんじゃ? 法的には死んでいるうえ、殺人まで犯したんだからね。世間に出ていくことが出来なくて、ひっそりと暮らしているとか」
「……明日、田山さんの家を捜索してみる?」
「やろう。早いほうがいいよね」
「そうね、麻利亜さんを診たお医者さんに会う前に、丸姉に頼んでみよう」
明日の捜査方針が固まったところで、私たちは夕食を再開した。
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