お嬢さんのお友達と鬼百合の話

 同級にいらした副島登美子そえじまとみこさんとおっしゃる方は、大変凛とした美貌の持ち主でした。

 背はすらりと高めで、長い艶々した黒髪を敢えて今風ではない束髪くずしに結われているのが、独立独歩のご気性を感じさせ、反対に何だかモダンな空気。真似をする者も多くおりました。少しばかりつんときつい印象を受ける細いお顔を長い睫毛が彩り、微笑まれた時など白百合の蕾が綻んだよう、などと言い表す友人も居たものです。


 お美しいだけでなく、頭脳は明晰、薙刀を習っていらして、文武両道。時折辛辣なことを先生にまでおっしゃる口舌と度胸の持ち主でもありましたが、そんなところも魅力的な方でした。


 お家は元々旗本で、ご一新後にお祖父様が一念発起されて石鹸の会社を建てられ、ソエジマサボンと言えば少女の間では知らぬ者無し。ふわりと香る、泡立ちの良いサボンです。登美子さんが廊下を通ると、残り香にあの百合の香りがすると評判になり、一女子の生徒は皆、競ってソエジマの洗髪料やら石鹸やらを買い求めたもの。


 私、吉野弥生はたまさか席が隣同士であったことが切欠で、登美子さんとはわりに親しくお話し、時々はお家にお呼ばれする程の仲でありました。古風な登美子さんと、学校で三番目に断髪した(自慢です)お転婆な私は妙な取り合わせではありましたが、私たちはずっと仲良しで居りました。

 初めこそ緊張して付き合っていたものの、そこは憧れの君とはいえ同い年の少女同士。じきに打ち解けて雑誌や観劇の話などで楽しく時間を過ごしたり。

 彼女に焦がれる同級生下級生からは時折意地悪をされたものの、まあ、私もやられればやり返す性質ですから、それほどの辛いこともなく学校生活を過ごしておりました。黒板消しの粉を相手の顔にはたくのはとても効いてよ。試してご覧になるといいわ。


 とはいえ、私と登美子さんはあくまでからっとした親しい友人で、勘繰られるような中ではございませんでした。

 女学生の間ではエスといって、特別な相手との間に親密な絆を結ぶという関係がありまして、そちらの方は登美子さん、ごく秘密にしていたものの、下級生にひとり、秘めやかな恋を育まれる相手が居たようです。


「弥生さんは特別な方はいらっしゃらないの」


 登美子さんは、ある日、お教室の窓枠にもたれてそんなことを私に聞かれてきました。横の席の私は答えます。


「私、そういうお話はよくわからないのよね。歌劇のお姉様には憧れるけれど、特定のどなたかとお手紙を交換したい、手を繋ぎたいなんてことはあまり考えたことはないわ」

「弥生さんはまだ子供ですものねえ」


 クスクスと笑いながら登美子さんは仰います。そういった言い方はいつものことですし、我のことながら事実でもありましたから、別段腹も立ちません。


「登美子さんは、その特別な君と仲良くされているの?」


 どなたかが居るらしい、ということは存じて居りましたが、どんな方で、どんなお付き合いをされているのか迄は霧の中です。


「ええ。とてもかわいらしい方。わたくし、うんと大事にしておりますわ」


 はにかむように微笑みながら、登美子さんはとても幸せそうでした。


「普通の方は、卒業されたらエスのお相手ともお別れされるでしょう」

「ええ、そうよね。なかなかお会いできなくなってしまうし」


 密やかな関係も、あくまで女学生時代のみ、というのが通例で、私はそんなお話を聞くと少し寂しくなってしまうのです。少女であることは、いつかは辞めねばならないことなのかしら?


「でも、わたくし、そんなのは嫌ですわ」


 登美子さんは、断固とした口調になりました。口をきゅっと結び、窓の外を睨みつけんばかり。


「あの方とは学校を出ても、その後もずっとずっと一緒に居たい」


 私は、ああ、素敵ね、と思いました。

 私たちの過ごしているこの時間、通常大人になるまでの通過点としてのみ扱われるこの宝石のような時間を、もしそのまま、壊れやすい硝子細工を慎重に持ち運ぶようにそっと、学校という世界の外に持ち出せたら。それは、どんなにか綺麗な希望になるでしょう。


 私たちはいつか、お家の言う通りにまだ顔も知らぬ相手のところにお嫁に行って、それきり。そんな閉塞した人生を、どなたかが打ち破ることができたら、きっと何よりの励みになるかと思います。私にとって、登美子さんの言葉とその眼差しは、そんな意味を持った刃でありました。


「そう出来たらいいわねえ。私、応援してよ」


 ただ、私はまだ何も知らない少女で。だから、登美子さんの心中を何も図らずに軽くそんなことを言ってしまいました。


 登美子さんはにこりと美しく笑いました。


 それからしばらく後です。彼女の婚約と、中退の話が持ち上がったのは。

 それを機に、彼女は学校には姿を見せなくなりました。


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 いつもはち切れんばかりに元気なお嬢さんが、ここしばらく、どこか憂鬱に囚われているらしいことはすぐにわかった。ため息の数が増えた。お食事も少し捗らないようだ。そうして、直ぐに部屋に戻ってしまって、私やおときさんは置いてひとりで時間を過ごすことが増えたように思う。


「あれもたまにはそんなこともあろうさ。大人になったということかもしれんよ。放っておくのが一番」


 先生はそう仰る。そうであるのかもしれない。溌剌としたお嬢さんが変わってしまうのは切ないことではあるが、お嬢さんの人生はお嬢さんのものなのだ。私の不用意な心配の割り込む隙は無い。


「何でも、仲良しのお友達がお嫁入りで学校をお辞めになるとかいう話なのですよ」


 おときさんはもう少し気を揉んでいて、そんなことを教えてくれた。


「やはり、それは寂しいでしょうね」

「寂しいのもあるでしょうけれどもね。何というか……おつらいのかもしれませんね。大人の都合が突然押し付けられるわけですからねえ」


 成る程。尋常小学校の時、級友がひとり、親の事業が失敗したとかで突然居なくなったことがあった。話したことも無い相手だったが、子供ながら、ぽっかりと空いた席に何らかの無常を感じたものだ。あの感覚が少しは近いだろうか。


「でも、私たちに出来ることは見守ること位ですから」


 全くその通りだった。否、私が奥村のような人間であれば、さもなくばお嬢さんが私の妹ででもあれば、無理やりに遊びに連れ出して気晴らしに誘うことも出来るだろうが。


「涼太郎さんも、時々お声を掛けてあげて下さいな」

「そうですね。そうしたいと思います」


 せめて、それ位はしたいものだと思う。私は快く了承した。


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 部屋に籠って、所在なく本など読んでおりますと、なんとなく空気が一部に凝ったような感じが致しまして、ああ、来たのね、侘助。とそう思いました。


 侘助は、一度亡くなった私の飼い犬です。どういうわけだか魂だけがこの世に残っていて、時折こうして私の元にやって来るのです。

 私には涼太郎さんとは違って霊の類はまるで見えませんが、侘助に関してだけは何となく、薄っすらと存在が感じられるようになりました。


 温かい何かが手に触れます。きっと鼻面をすりすりと押し付けているのでしょう。そういう甘え方を良くする犬でした。甘え方か、若しくは、励まし方か。

 小さい時から、侘助に慰められた記憶は幾つも脳裏に残っています。人の落ち込む時がわかるような、不思議な犬でした。それとも、犬というものは普通そうなのかしら? お父様などに言わせると、それは人の方の都合を動物に投影しているだけだよ、となるのですが。涼太郎さんですと、何と仰るかしら。


「侘助。私、なんだかつらくなってしまって」


 端から見れば独り言に見えることでしょうが、今は私ひとり。ですから、好きにして良いのです。


「今とても楽しいのに、いつかは終わりが来てしまう物かしら? 楽しいままでは居られないの?」


 侘助の声は私には聞こえませんし、例え聞こえていても、お喋りは出来ません。


「時間が進んでしまうことが、怖いわ」


 手に、さらに温かい何かが触れました。多分、舌で舐められたのでしょう。侘助のあどけない顔が見えるようでした。


「ごめんね、侘助。私、ずっとぐちぐちとしてしまって」


 沢山撫でてやりました。昔のように。


「いい子」

「弥生さん」


 襖の向こうから、おときさんの声がしました。私は慌ててお返事します。


「はあい」

「お電話ですよ。副島様の方の女中さんから」

「……女中さん?」


 私は立ち上がり、部屋を出ました。侘助の気配はまたどこかへ散じてしまいました。

 登美子さんのご両親はお忙しい方ですから、ご令嬢のお世話は専ら咲恵さんと仰る、私たちより少し年上の女中さんがなさっておられました。その方からでしょうか。


「もしもし。お電話代わりました」

『ああ、弥生様でいらっしゃいますね。私、副島の屋敷の本庄咲恵と申します』


 やはりそうです。しかし、わざわざ私のところに咲恵さんがお電話を下さる理由とは、何でしょう。私はほんの少し、嫌な予感に包まれました。


『実は、弥生様にこちらにご足労頂けないかと思って居りまして。……登美子お嬢様のご様子が、その、先日から少しおかしいのです。お友達に来て頂ければ良くなるのではないかと……』

「ご病気なの?」

『いいえ。少し、ふさぎ込んでおられるのと、それから、その、直にご覧になって頂ければおわかりになると思うのです』


 何とも歯切れの悪い言い方です。兎に角、調子がお悪いのは確かな様子。


「ええ、私そちらに伺ってよ。明日のお昼、一時位で宜しいかしら?」

『有難うございます。お待ちしております』


 咲恵さんは、とてもホッとした声でそう言いました。私は電話を切ると、首を傾げました。鬱ぎ込むのはわかります。私だって落ち込んでいた程ですから。でも、それ以外に何が在ると言うのでしょう?




 副島のお屋敷は、古いばかりの我が家などより余程広く、豪奢で白いモダンな洋館です。中には洋装の女中さんが幾人か忙しく立ち働いており、中のひとり、咲恵さんが私を案内して下さいました。とはいえ、何度もお呼ばれして、探検なども致しましたから部屋の位置はわかります。登美子さんのお部屋は、二階の南の角。とても日当たりの良いお部屋でした。


「お嬢様、お友達が……吉野弥生様がいらっしゃいました」

「帰って貰って」


 ドアの向こうから、力のない声が返ってきます。


「そう仰らずに。少しだけお話しされては如何です」

「…………」


 今度は無言でした。さ、と咲恵さんが私を促します。少し心配でしたが、それよりも登美子さんの具合が気になりましたから、私は曲線で出来たドアノブに手を掛けました。


「いいわ。いらしても。でも、お気をつけてね」

「……失礼します」


 気をつけてとはどういうことでしょう。私は背の高いドアを開け、中へと入りました。


 登美子さんのお部屋は、赤い絨毯の敷かれた、とても豪華で、それでいて品が在って、背の高い棚には舶来の夢みたいな素敵な物が幾つも飾られた、憧れのお部屋でした。中にはふんわりと百合の香りが漂っていて、西洋の絵本の中の魔法みたいな空気を感じた物です。

 でも、どうでしょう。今、その綺麗な雑貨類は床に散らばり、棚は半分ばかりの空間が空いてしまっています。登美子さんがなさったのでしょうか。


「こんにちは、登美子さん。お加減は如何?」


 努めて床の惨状を見ないことにして、私はご挨拶をしました。紫の銘仙のお着物を着て、白い寝台に腰掛けられている登美子さんは目を伏せます。少し、おやつれになられたでしょうか。


「身体の方は元気ですの」


 やはり、ご病気という訳では無いようです。


「落ち込んでらっしゃるのね?」

「そうでもありませんわ」


 ふう、と登美子さんは息をつきます。


「ただ、恐ろしくて」

「まあ、何か……」


 床の有り様は嫌でも目に入ってしまいます。


「お在りのようね」

「わたくしにあまり近寄らない方が宜しいわ。きっと恐ろしいことが起きます」

「どういうことかしら? お聞かせになって」


 恐ろしいと言っても、例えば暴漢に襲われただとか、事故に遭われただとか、そういう様子とは違うようです。今迄に起きたことだけでなく、これから先に起きるであろうことにも、登美子さんは怯えていらっしゃるようでした。


「……見て頂くのが一番宜しいのだけど、弥生さんはきっと怖がって、わたくしのことなどお嫌いになりますわ」


 強気な登美子さんらしくないお言葉でした。これは余程のことです。


「何か、尋常のことではないのね。大丈夫よ。私、おかしなことには最近少し慣れてきたところなの」


 それもこれも、涼太郎さんが話してくれる様々な不思議のおかげです。感謝をすべきかもしれません。


「それなら、そこから一歩だけこちらに寄ってくださいな。一歩だけよ」


 一歩。私は登美子さん目掛けて歩を進めました。その時です。


 カタカタ、と何かが揺れる音が聞こえました。地震、と思います。でも、電灯の紐は揺れてはいませんし、よくよく考えると足の下も動いている様子はありません。ただ、あの大きな棚がカタカタ、と揺れているのです。そして、床に落ちた飾り物も、震えるように揺れています。


「登美子さん、これは?」

「わたくしに人が近寄ると起こるのです。部屋のせいかと思ったけれど、移っても何も変わらなかった。弥生さん。わたくしには何か、悪いものが憑いているのかもしれません」

「そんな」


 うっかり、もう一歩進んでしまいました。揺れはさらに大きくなり、床のものがふわりと浮き始めます。いつだかに雑誌で読んだことがあります。これは、西洋で言う騒霊ポルターガイストの類では無いでしょうか。


「それ以上は駄目。わかったでしょう。来てくださったのは嬉しいけれど、それで解決するお話ではありません」

「それは、私、でも……」


 あなたの力になりたいのよ。そう思いました。私なら、と呼んでくださった、咲恵さんのお心にも応えたい。そうも思って居りました。


 そこで、私、はたと思いついたのです。


「登美子さん。お電話をお借りしても良くて。そして、一寸待っていて下さらないかしら」

「お電話? ええ、宜しいけれど」

「あのね。もしかしたら、何か力になって下さるかもしれない方がいらっしゃるのよ。私、その方を呼んでみます」


 そう、一か八かでは在りましたが、私にはこういった事態に多少詳しいお方が付いているのです。


 境涼太郎さん。私の家の、頼りになる書生さんです。


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「ええ!?」


 お嬢さんからの電話を受けて、私は思わず裏返った声を出してしまった。


『だから、登美子さんは騒霊に苦しめられているようなの。涼太郎さん、お願い、助けて下さらない?』

「あの、お嬢さん。私は胡乱な事象の解決専門家という訳では無いのですよ」

『それは、わかっていてよ。でも、他に当てが無いのよ。ご両親はお仕事で お出掛けされていて、とても心細くしていらっしゃるの。少しでも出来ることがあれば力になりたいわ』

「うううん」


 私は唸りを上げた。横で侘助が電話を見上げ、漏れ聞こえるお嬢さんの声を聞いて不思議そうな顔をして居る。


「わかりました。一先ず向かいます。ただ、本当に、私に必ず解決出来るとは思わないで居て下さいね」

『有難う、涼太郎さん。お待ちしています』


 電話を切った。と言って、きっとお嬢さんのことだ。お友達を、こう言った事態の偉い専門家を呼びましたからもう大丈夫、などと励まされていることは想像に難く無い。兎に角、様子を見て……。


 その時、後ろにふと人の気配を感じた。振り返るとそこには、黒装束に首に紅い紐を結んだ少年が音も無く立っていた。


「気を付けて」


 少年は、離れに現れてから今迄で初めて口を利いた。


「……君の同類が、迷惑な事態を起こしているようだが」


 私は、注意深く口を開く。時折、この少年が悪戯に、手も触れずに物を落としたり動かしたりしていることを、私は知っている。


「そうとは限らないかも知れないよ。気を付けて。弥生を守ってあげて」


 少年は、すう、と消えた。

 成る程、双子の縁と情と言うものは、生まれて直ぐに死んだ後も、ずっと残っている物らしい。私は感服しながら母屋を後にした。


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 それから暫くして、涼太郎さんは副島のお屋敷に到着しました。私が玄関に迎えに行くと、目を丸くして仰います。


「……凄い御殿ですね、これは」


 普段着で来てしまったな、と服を気にされているようでしたから、そんなことよりも早く、と涼太郎さんのお背中を押しました。涼太郎さんのお着物の袖口が擦り切れていたり、袴がよれていたりすることは、この際どうでもいいのです。それより登美子さんです。


 私は涼太郎さんを登美子さんのお部屋に案内し、またノックして中に入らせて頂きました。


 カタン。私たちが中に入った途端、突然先ほどのように物が揺れ動き始めました。先ほどは、登美子さんに近付かない限りは何も無かったのに。


「登美子さん?」

「……どうしたのかしら。いつもと様子が違います」


 登美子さん御自身も、不安げに辺りを見回しています。ですが涼太郎さんはなんだか落ち着いた様子で部屋をぐるりと眼鏡越しに見つめてらっしゃいました。


「副島登美子さん。初めまして。境です。恐らくですが、これは、騒霊……霊的な物の仕業では無いようですね」

「えっ? 違って?」

「恐らく……多分……」


 何だか少し頼りがありません。大丈夫かしら。


「私の目には、この部屋に何も見えないのですよ、隠れて物を動かしている、人智を超えたような何者かの姿が」

「そうなの?」


 では、どういうことでしょう。人が何か工夫をして、棚を動かしている? でも、棚だけなら兎も角、床の物を浮かせるのは少し無理が在る気が致します。


「それに、部屋を替えても同じだったそうだし」


 私が呟くと、涼太郎さんは目を瞬かせました。


「部屋でも無い。霊でも無い。人の仕業でも無さそうです。そうすると……」


 あっ、何だか、私、こういうの知っています。御本で読んで、憧れたことが何度も。


「そうすると、副島登美子さん。あなた御自身がこの状況を作り出している。そうは考えられないでしょうか」


 そう。探偵です。小説の名探偵のように、涼太郎さんはそう指摘されたのです。


「わ、わたくし、ですか?」

「勿論、故意に何かをなさっているとは思えません。見た限り、そんな御様子では無い」


 周囲はまだカタカタと揺れており、とても不安定な気持ちになります。


「昔本で読みましたが、騒霊には幾つか原因が在るようです。その名の通り、霊的な力が働いて起こるもの、それから、人の心が起こすもの」


 人の心。登美子さんはハッとした顔になりました。


「不安定な心が、何らかの力を発揮して物を動かし、そのことで周囲に何かを伝えようとする……うわっ」


 突然、割れた花瓶が宙に浮かび上がり、涼太郎さんの方に飛んできたのです。鋭い破片が、涼太郎さんの手を薄く切り裂きました。


「わたくし、違います。わたくしは何も」

「副島登美子さん。あなたには何か悩みがあって、それを言い出せず、苦しんで居られるのではないですか!」

「違います!」

「こんな形で表現する必要は無いのです。少なくとも今は。私たちは何も言いません」

「そ、そうよ。何か在るなら聞かせて下さらない。私、黙っているわ。……矢っ張り、ご結婚がお嫌なの?」

「……違うのです。いえ、嫌は嫌です。本当に嫌。考えただけで虫唾が走ります。だけれど……」


 登美子さんは、俯いて唇を噛まれます。


「もっと嫌なのは、皆の期待に添えない、強情なわたくし自身です」

「登美子さん」

「弥生さん。前にお話しましたでしょう。エスの話。私は、私のかわいいあの方とずっと添い遂げたかった。本当にです。その為には何もかもから逃げたって良かった。でも」


 声に、苦渋が満ちました。


「あの方はそうでは無かったみたい。付いてはいけないと言われてしまいました。それでは大人しくお嫁に行って、お父様お母様に喜んで頂こうと思っても、無理なの。私、本当に男の方が駄目なのです」


 ああ、もしかすると、今のこの部屋の様子は、涼太郎さんが入って来たから起こったことなのかもしれません。


「私が折れれば全て上手く行きますのにね。あれも嫌、これも駄目。そうして何も言わずに、こんな不審なことまで起こして、私は一体何でしょう」


 登美子さんの中には、多分、沢山の感情が渦巻いてらっしゃるのだと思いました。それが、言葉にできずに、でもおつらくて、そうしてああいった形で発散されていたのでしょう。


「私、未だにあの方に対して、とても醜い欲望もよく抱きます。本当に、情けないこと」


 私は、私までつらくなってしまって、そうして、気がついたら動いていました。登美子さんの手を握る為に。


----


「お嬢さん!」


 私は声を掛けるが、登美子嬢に近寄ることは出来なかった。これ以上の騒霊が起こっては大変なことになる。実際、お嬢さんが近寄った途端、棚に残っていた物がばらばらと落ちてきたのだ。


「私がいてよ」


 香水瓶の蓋が、お嬢さんの額にぶつかり、赤い跡を残した。だが、お嬢さんは怯まなかった。


「私、一生登美子さんと一緒には居られないわ。でも、登美子さんがおつらい時には、手を握って差し上げることくらいは出来る。ずっと遠くにいたってよ」


 二対の黒い瞳が見つめ合った。


「だってお友達だもの。だから、全部話して。本当のお気持ちを話して。先ほどのは、本音の全部では無いでしょう」

「弥生さん」

「でなきゃずっと意地っ張りの意地子さんって呼んでよ。さあ!」


 登美子嬢の頭が項垂れ、お嬢さんの肩に押し付けられたが、それは一瞬間のことだった。登美子嬢は白い顔を上げた。目の奥で、ぼうっと炎のようなものが灯り、彼女の表情に美しく力を与えた。


「わたくし、ずっと怒っていますの」


 声は震えているが、どこか落ち着いた響きがあった。


「どうして自分の身の振り方を自分で決めることができないの? どうして自分の愛する方を自分で決めることができないの?」


 己の中の異物を吐き出すように、登美子嬢は滔々と続けた。そして、次の言葉が私の胸を貫いたのだ。


「どうして、わたくしがわたくしのままで居てはいけないの?」


 私が、あの北の町でずっと、己にしか見えぬ世界に囲まれ、周囲に腫れ物扱いを受けていた時に押し殺していた気持ちがまざまざと蘇るようだった。

 否、私はただ、黙ってその気持ちを抱いたまま、東京へと逃げ出すことを選んだ。それは賢い選択であったのかもしれないが、だが、この少女は、当に今、どんな形であれ、それを叫ぼうと、ぶつけようとしている。


 人は人の心を覗くことは出来ない。私のこの共感は、彼女には伝わらない。この共感が、彼女の心に沿うもので在るのかどうかもわからない。だが、この時、私は登美子嬢の中に、膝を折り崇めるべき誇り高い女王の姿を、清廉で無垢な白百合ではなく、猛々しく咲き誇る鬼百合の幻を見たのだ。


「お父様もお母様もわたくしを抑えつける。在りのままでいようとすれば、恋しい方は離れていく。それでも、わたくしは、わたくしで在りたい!」


 お嬢さんは、呑まれたように目を見開き、それでも握った手に力を込めた。


「私に、何が出来て」

「わたくしを認めて」


 ぴんと張り詰めた空気と、瞬間の沈黙。そして、お嬢さんは答えた。


「認めるわ。勿論よ。何が在っても、私、登美子さんの味方で居るわ。絶対よ」

「有難う」


 登美子嬢は、婉然と微笑み、眩しげに外を振り仰ぐ。


「そのお言葉、抱き締めていますわ」


 ぴしり、とどこかで嫌な音が聞こえた。


「さよなら」


 登美子嬢はお嬢さんをどんと突き飛ばした。次の瞬間、大きな音を立てて、窓の硝子が砕ける。彼女の力だ。


 死を、選ぶ気か。


 透明な飛沫のような欠片が散る中、一際大きな尖った破片が、仰け反った登美子嬢の白鳥のごとき喉元に突き刺さろうとしていた。


 私は、飛び出した。この気高い一人の女性を守らねばならぬと言う気持ちと、彼女が居なくなればお嬢さんは泣くに違いないと言う気持ちとが、私の身体を動かした。だが、間に合う筈も無い。視界はきらきらと奇妙にゆっくり動き、そして。


 硝子の破片は、喉元に迫ったその瞬間、再び小さく砕けて零れ落ちた。残った欠片が落ちて、彼女の手の甲に一筋の血を流した。紅い糸のように。登美子嬢は無事で、何が起こったのかと言う顔で細い傷を見つめて居た。


 窓際には、いつの間にかあの紅い紐の少年が立って居た。彼が、手も触れずに硝子を砕いたのか。


「だから、気を付けてって言ったのに」


 ああ、そうか。本物の騒霊の力、ということか。彼が登美子嬢の命を救ったのだ。


「でも、弥生のこと考えてくれたのかな。有難う」


 私にしか見えぬ少年は、すっと溶けるように消えた。


 私は床に転んだお嬢さんを助け起こす。


「……登美子さん!」


 立ち上がったお嬢さんは、呆然と立ち尽くす登美子嬢に強く呼び掛けた。


「何をしているの! 駄目! 駄目よ!」


 睫毛の縁から、ほろほろと涙が零れ落ちた。


「駄目。居なくなっては、駄目」


 登美子嬢の目元にも光る物が溢れ出し、少女ふたりはしばらく涙を交わし合う。


 騒霊現象はいつの間にかぴたりと収まっていた。風を孕み大きくレースの窓掛けは揺れ、部屋に満ちていた甘い百合の香りを青い空へと散らして行った。




 お嬢さんと登美子嬢は、暫くすると落ち着きを取り戻した。部屋の片付けは女中連に任せる筈が、お嬢さんまで手伝ってちょこまかと動いている。これは私も何かすべきかと一歩を踏み出した時のことだ。


「境様、でしたか。有難うございます。お恥ずかしいところをお見せしました」

「いえ。ご自愛なさって下さい」

「もう大丈夫です」


 ふと笑った横顔は非常に麗しく、下世話な話ではあるが、これで男性が駄目である、という事実がとても勿体無く思える程だった。


「それで、境様。弥生さんとはどのようなご関係?」

「え? お父上の下で書生をさせて頂いておりますが」

「そうでは無くて、個人的なご関係ですわ。お友達同士ですの?」

「まあ……」


 お嬢さんには、お友達、と言われたこともそう言えばあった。難しいところだが、まあそんなあたりだろう。


「そうですね」

「そう。それなら、お気をつけあそばせ」

「え?」

「もしかすると、いつか私が弥生さんを攫って行ってしまうかも知れませんわよ」

「ええ!?」

「今は平気。わたくし、だ傷心に浸って居りますもの。でも、先にはどうなるか、わかりませんでしょう?」


 私は子供のように一生懸命に片付けをするお嬢さんを見遣った。登美子嬢は悪戯っぽく……否、どちらかと言えば悪魔めいて微笑んでいた。


「お早めにね」

「……何のことでしょう」

「ふふ」


 矢張りこの人は鬼百合の姫であったか、とそう思った。そうして、私は忙しく働く女中たちの方へと歩んで行った。


----


「涼太郎さん、お疲れ様。お怪我は平気?」

「……私は、大したことは」

「それなら良かった。先程は、探偵さんのようでとても素敵だったわよ」


 ずいぶんと日が長くなりました。外はまだ暮れ始めたばかりといったところ。私は涼太郎さんとふたりで帰路に着いて居りました。


「……私ね、少し考えていたの。今がうんと楽しいのだから、今のまま時間が止まれば良い。そうすれば、これ以上つらいことも悲しいことも味わわなくて済むって」


 きらきらと輝く、透明な硝子の雨を思い出します。


「でも、それって、あんなに恐ろしいことだったのね」

「願うことは自由ですよ」

「そうかしら」


 涼太郎さんは眼鏡を軽く直すと、噛み締めるように仰いました。


「私はいつも、ここで時間が止まれば、自分は永久に苦しいままだと、そう思って自分を急き立てて居りました。だから、お嬢さんが一寸羨ましい」


 涼太郎さんには不思議な目がお在りで、でも、その所為で幾らかのおつらい目に遭われたのだと、少しだけ聞いたことがあります。私はなんだか、自分が子供みたいに甘えているような気持ちになって参りました。


「登美子さんも、前に進むことにされたのよね」


 全てを両親に打ち明けます。もちろん、いきなり硝子を割ったりなんて致しません。お父様の商談の様に、うんと上手くこなして見せますわ。登美子さんはそう言って笑ってらっしゃいました。それでもあの方の道は険しい物になるであろうこと位、私にもわかります。


 私は、大事なお友達の前途が少しでも明るく在ることを、祈らずには居られませんでした。


「私も、いずれ……大人に成らないといけないのだわ」

「ゆっくりで宜しいんですよ」


 涼太郎さんは、少しだけ目を優しくしてそう仰って下さいました。


「皆、生き生きと毎日を幸せになさっているお嬢さんが好きですよ」

「……本当に?」

「本当ですとも」

「涼太郎さんも?」


 そうしたら、涼太郎さんたら、突然虚を衝かれたような顔をされて、辺りをきょろきょろと見回して。


「私……私も、その、楽しそうにされているお嬢さんが」


 好きです、と、ぼそぼそした声で。私はつい笑ってしまいました。それから、漸く気付きます。これは、少し元気を失くしていた私への励ましなのだと。


「涼太郎さん。有難う」

「……いえ」


 夕方の涼しくなった風が、制服の裾を揺らします。その内、蝉も鳴き出すことでしょう。

 夏の予感を感じながら、私たちはゆっくりとお家に向かいました。


 ゆっくり、ゆっくりと、前へ。

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