デパート騒動と返り咲きの菫の話

 晴れた秋の空の下、日本橋三国みくに百貨店の白い入り口は堂々とそびえ立ち、買い物客の人集ひとだかりと共に私たちを迎えた。

 一年半ほども前に火事でどこか焼けたと言う話だが、それもとっくに修復され、優々たる美観を放って居る。辺りの黒っぽい低い瓦屋根と比べ、眩しい程の洗練だった。


「大した物ですね」


 私が見上げてぽつりと言うと、この度の主人役である少女ふたりはくすくすと笑った。


「涼太郎さんたら、もう半年以上こちらにいらっしゃるのに、デパートは初めてなのよ」

「そうなの? それじゃあ驚くことだらけだと思いますわ」


 断髪でセーラー服の上に黒の外套を羽織った我がお嬢さん、吉野弥生さんと、そのご友人、長い黒髪に華やかな赤い着物姿の副島登美子そえじまとみこ嬢である。今回私はこのお二方の付き添いで、言わば目付けであった。この前に行った観劇では若いふたりに散々振り回され、また華やかな都心の風にどこか所在無さを感じたりなどしたものだ。


「ここ、あんまり賑やかで、そこに紛れて幽霊まで出るなんて話もありますのよ。境様にはそちらの方が御関心かも」

「私は別に死者が特別好きな訳では無いのですが」

「兎に角中に入りましょ。見るだけでもきっと楽しくてよ」


 お嬢さんが入り口に立つ警備員にぴょこりとお辞儀をしてから、足取りも軽やかに中へと進んで行く。中はまた、天井高く乳白色のマーブルの壁、上にはシャンデリアが透明に虹色にキラキラと、驚くべき様子だった。


「ねえ、涼太郎さん。本当にお買い物しては駄目なの? ハンケチのひとつも?」


 一階食品売り場は賑やかで、見たことも無いような菓子だの、おときさんが眉を顰めそうなほどの値段の海苔だのが売られて居る。お嬢さんが私の傍を歩きながら、ねだるようにそう言った。


「本日は財布の紐を締めよ、と先生から言いつかってありますから……」

「がっかりだわ。洋装の売り場は凄いのよ。涼太郎さんだって、あれを見たら紐なんてもうどうでも良くなってよ」


 お嬢さんはひよこのように可愛らしく口を尖らせ不満げだが、そこに関しては流石にそれでは、と譲るわけにはいかない。浪費放蕩を抑えて無事帰宅させてこその目付け役である。不肖境涼太郎、折角の先生のご期待には応えねばならぬ。


「悪いけれど、わたくしはお買い物させていただきますわ。丁度冬の襟巻きが要り用ですの」

「襟巻き! 私も欲しい!」

「我慢です、お嬢さん」


 登美子嬢が婉然えんぜんと微笑み、そして小さくため息をついた。私はそれを横目で見たものの、人混みに押され、何も言えぬままにおふたりと共に昇降機エレベーターホールへと向かった。




 そもそも、この日本橋行は、副島登美子嬢激励のためとてお嬢さんが考えたものである。登美子嬢は先日御婚約をたっての希望により破棄、ある意味では自由の身となられた訳であるが、しかし御両親の落胆は大きかった様子で、登美子嬢の願った復学は叶わなかった。現在は自宅にて療養の名目で謹慎、ということになって居る。尚、先日我々を騒がせた騒霊ポルターガイストの件は、どうもあれからしばらく落ち着いて居るらしい。


「あんまり可哀想だと思うわ。私、何か登美子さんの為に出来ることはないかしら?」


 そう息巻くお嬢さんに、私は少しばかり遊びに誘う程度の提案しか出来なかった。仲のよろしいお嬢さん相手であれば、副島の御両親も外に出して下さるであろうと。根本の解決ではあるまいが、しかし、お嬢さんは名案とばかりに採用して下さった。


 私も、登美子嬢には以前関わった出来事から少々敬服して居るところがある。よって、先生から目付けの任を承った時は少しばかり心が浮き立った。多少なりとも、彼女の心を慰める役に立つことが出来れば、と。お嬢さんと外出出来ることそれ自体に喜んだのでは、という件に関しては、否定はしない。




「凄い凄いわ素敵ねえ涼太郎さん見て見てこんなに沢山小物が色も色々でほんとにまあ何てこと」


 お嬢さんは、興奮されると時々早口で句読点のないような喋り方をする。

 私は慎重に答えた。


「そうですね」

「なあに、もう、わからない人」


 一応、こちらにはまるで区別の付かず、使い道もよく判別出来ないようなきらきらした装身具を見ても何と言っていいかわからず、しかしお嬢さんが喜んではしゃいでいるのであればそれ以上の嬉しいことはない、私にはなかなか馴染みのない空間ではあるが、そういった意味合いでこの場を肯定したい、そんな気持ちの込められた渾身の「そうですね」だったのだが、お嬢さんには見事にはねつけられた。


 全体、登美子嬢が見たいと仰った襟巻きの売り場でも、より意気軒昂いきけんこうとしているのはお嬢さんの方である。登美子嬢はどこか物憂げな顔で、毛織の布を手に取って居た。


「私、私、あの金糸雀カナリア色が良いわ。この外套でも良いのだけど、さっき象牙色の素敵なのがあったでしょう。ああいうのに合わせるととてもモダンだと思うの」

「きっとお似合いよ」

「……登美子さん、どうかなさって?」


 お嬢さんが心配そうに言う。どうか、と言っても、お嬢さんにもわかっていらっしゃるだろう。登美子嬢の悩みの根は恐らくひとつである。


「いいえ。一寸おかしくなっただけですわ。この襟巻きを買って、私どこに行くのかしらって」


 紅い唇が歪む。


「冬にはまた、別のお方のところにお嫁入りの話が来ているかも知れない。お父様は……」


 登美子嬢ははっと口に手を当てた。


「嫌だ、わたくしったら、御免なさいね。また益体も無いお話を……」

「良いのよ。そういうお話をしたくて今日はお誘いしたのだもの。喫茶室に入りましょうか?」


 登美子嬢は首を横に振った。鬼百合の姫も、どこか今日は萎れ調子だ。私はおふたりをそっと見守りながら腕を組む。そして。


「何かお気に入りの品は御座いましたでしょうか?」


 柔らかな声が私たちの耳に届いた。驚いて振り向くと、ひとりのデパートガールが立って、こちらに向けにこやかな笑みを浮かべて居た。三国百貨店の濃い紫の制服に制帽。ひとつに結んだ髪には緩くパーマネントを当て、お嬢さんがお好きな今風の職業婦人と言った様子。


「私、襟巻きを探して居りますの。今日の着物に合うようなのが良いのだけど」

「左様で御座いますか。それでしたら……」


 デパートガールは登美子嬢と何やら話を始め、次々に襟巻きを首に当てがう。私はお嬢さんがさぞ嬉しく見て居るだろうとちらりとそちらを見やり……そして、目を疑った。


 お嬢さんは、どこか血の気の引いた顔で、口に手をやり、目を見開いてデパートガールを見つめて居た。私の視線に気づくと、縋るような目になる。ゆ、う、れ、い。声に出さずに、口だけがそう動いた。


 何か、異変を感じられたのか。真逆、あれが先ほど少しだけ聞いたデパートに出ると言う幽霊なのか。とはいえ、私の目は人の姿をして居る者は人にしか見えない。どこかおかしなところが無ければ、生きて居る者とそうでない者の区別は付かぬのだ。あのデパートガールは透けてもいないし脚も影もしっかりと有る。私には何も判別が付かぬ。


「もう少し考えてから決めますわ」

「かしこまりました。またお声掛け下さいませね」


 登美子嬢の方も、話は中断されたようだ。私は、不思議そうな顔をした彼女を手招きし、矢張り喫茶室に行きましょうと提案した。何かの気配を感じたか、今度は受理される。我々は階段の方へと歩き出した。


「有難う御座いました。またのお越しをお待ちして居ります」


 お嬢さんがびくりと震えた。




「ぜ、絶対にあれは幽霊よ。怖かったわ。いいえ、怖いことはして来なかったけれど……」


 喫茶室で出された紅茶を飲み干し、お嬢さんは主張された。


「私には良くわからなかったのですが、お嬢さん、どこがおかしかったのです?」

「まずね、ここの幽霊の噂があるの」


 一年半前に起きた三国百貨店の火事は、それほど大規模にはならずに消し止められた。営業時間外の夜の不審火であったから、買い物客にも被害は無かった。ただ、火元近くの服飾用品売り場の店員がひとり、炎と煙に巻かれて死亡したのだと言う。それが、化けて出る。


「成る程、店員の霊なのですね」

「でも、それだけでは無いのよね? 先ほどの様子は只事じゃありませんでしたもの」

「そうよ。あのね、火事の少し後、三国は制服を変えているのよ。大きくは違わないのだけれど、襟元とか、袖口のカフスとか、その辺り。それから布地の色も、すみれ色から桔梗ききょう色に」


 菫色と桔梗色の違いについて思いを巡らせる間もあらばこそ、お嬢さんは低い声でこう言った。


「私、前の制服のことちゃんと覚えているわ。さっきの店員さんの服は古い型だったわ。確かよ」

「それで、あんなに吃驚びっくりしてらしたのね」

「だって、おかしいでしょう。制服がひとり違うなんて。悪戯の仮装でなければ、あれは幽霊だと思うわ。……登美子さん、随分平気そうな顔をしてらっしゃるわね」

「あら」


 登美子嬢は涼しい顔でくすりと笑った。


「だって、あの方、とても親切にお話しして下さったのですもの。生きて居る店員さんだってあそこまでして下さらないくらい。幽霊だとしても、良い幽霊だわ」


 私とお嬢さんは顔を見合わせた。


「そう言うものかしら」

「そう言うもの……かも知れませんね」

侘助わびすけだって居るものねえ。噂でもそう言えば、昔と同じようにお客のお世話をするのだ、って」


 お嬢さんはふう、と息を吐く。侘助はお嬢さんの元飼い犬で、死んだ現在でも時折家に現れる。


「嫌だわ、私、怖がり過ぎたかしら。ねえ、涼太郎さん。失礼ではなかった?」

「それなら、謝りに行かれたらどうです」

「それは嫌よ、駄目よ。だって怖いわ」

「怖いものを怖がるのは仕方の無いことですよ」

「でも、良い方なら悪いわ……ううん」


 登美子嬢は我々を見て、くすくすと笑って居た。


「登美子さん、少しはお気持ちが晴れた?」

「ええ、とても楽しいわ。有難う」


 そう言いながらもどこか憂いの影を宿した表情が、それ以上明るくなる様子は無かった。




「矢っ張りわたくし、襟巻きをもう一度見たいのですけれど」


 登美子嬢の提案に、我々はもう一度服飾用品の売り場へと戻って行った。あのデパートガールは見当たらない。お嬢さんはと言えば、今度はネッカチーフとあれでも無いこれでも無いと睨めっこをして居た。ご執心なのは、またもや黄色の様だ。


「お嬢さんは黄色がお好きですね」

「そうよ。先の金糸雀色から山吹まで、何でもだあい好き」

「初めてお会いした時も、黄色のお洋服を着てらした」


 ぱっ、とお嬢さんが花柄の布から目を上げた。


「覚えていて?」

「ええ。よく覚えて居ります」


 あの時、停車場で、心細い気持ちにぱっと飛び込んで来たあの鮮やかな色彩は、何物にも代え難い、私の中のひとつの印象であった。


「あれはね、菜の花の色でしょう。取って置きのよそ行きなの。十四のお誕生日に、好きな色のワンピースを誂えてあげようってお父様が。それから背が殆ど伸びなかったから、いつまでも着られてとても経済よ」

「よくお似合いでした」


 お嬢さんははにかんだように口をもぐもぐとさせる。


「涼太郎さんは、褒めるのがお上手ね」

「そうでしょうか」

「そうよ。でも、そうやって女の方を次々褒めたりするのは駄目よ」

「そんなことはやって居りません」

「まあ、そうよね」


 お嬢さんは口を結んで、笑いを堪えて居る様な顔になった。


「奥村さんが前に言ってらしたわ。涼太郎さんは奥手だから、女の方の足首を見ただけでも失神しかねないって。私おかしくって」

「奴の言うことを真に受けないで頂きたい。何ですそれは。そんな風なら田植えの時期などどうします」


 その答えがまた笑いを誘発したらしく、お嬢さんはひくひくと震え出してしまった。遺憾である。


「登美子さん、登美子さんねえちょっと、涼太郎さんたらおかしいのよ……」


 お腹を抱えながら、登美子嬢を呼びつけ。


「いらっしゃいませ」


 涼やかな声がした。

 瞬間、私の目の端に、赤い袖のたもとがひらめいた。そして、大理石の床に音を立てて、巾着袋が転がった。


 我々の他の客は何も気付かず、買い物を続けて居た。恐らく、私だけが見て居た。


「……登美子さん?」


 お嬢さんは目を瞬かせる。登美子嬢は、どこかに消えた。恐らくは、人知を超えた場所にある、どこかへ。その扉の気配は……どこにも無い。


「今、そこに登美子さん、いらしたわよね?」

「ええ、確かに」


 巾着を拾い上げる。ごく薄く百合の香りがした。


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「……え?」


 わたくしは、思わず二度三度と瞬きを致しました。そこはそれまでのデパートの店内と殆ど変わらぬ白大理石の広間で、ただ、陳列だけがほんの少しあちこち違って居る様でした。

 手に大事に持って居た筈の巾着袋がありません。どこかに落としてしまったのかと辺りを見ると、賑やかだった筈のそこには、今はどなたもいらっしゃらないのです。一体これは何の不思議。


 いいえ、目の前にはおひとりだけいらっしゃいました。あの、菫色の制服に身を包まれた店員の方です。


「三階服飾用品、特別売り場で御座います」


 白い手袋を嵌めた手をひらめかせ、店員さんは仰いました。


「特別売り場とは、どう言うことですか。ここは一体どのような場所ですか」

「ご安心下さいませ。ここは入ったが最後帰れないような処では御座いませんから」


 店員さんは紅を差した唇に、くすりと大人らしい笑いを浮かべます。


「お買い物に迷われて居るお客様を御案内している、それだけの場所ですわ」

「迷って? まあ、わたくし、確かに襟巻きには悩んで居りましたけれど……」

「それだけでは御座いませんでしょう?」


 細い靴のかかとをかつりと鳴らして、店員さんが一歩前に出ました。わたくしは気圧されるのも業腹ごうはらですから、そのまま真っ直ぐに見返します。


「お客様の本当にお求めの物をお探し致しますよ」

「え?」


 それでも、その言葉には動じずには居られませんでした。わたくしの、本当に求めている物?


 それは……。


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「駄目です。この階にも入り口はどこにも無い」

「一応、案内所に連絡して来たわ。探しているうちに登美子さんがまた現れて、逸れてしまうかも知れないもの」


 我々は建物内を駆けずり回り探したが、登美子嬢の消息は杳として知れなかった。物理的に逸れたのであれば、駅を待ち合わせに使っているのであるが、突然姿を消した時の対処などしてはいない。


「どうなさったのかしら。矢っ張りあの幽霊がおかしなことをして……」

「ただ、登美子さんはその、お強い方ですからね」


 あの騒霊の力を上手く発揮できれば、物が当たる相手ならば覿面てきめんに退治することは可能であろう。物が当たる相手ならば、あるいは、物がある空間であれば、であるが。


「そう易々とおかしな目に遭うとも思えません」

「でも、相手は幽霊よ」

「それがおかしいのですよね。先ほどの店員は、何と言うか、死んだ人間らしさがあまり無かった。そうでは無いですか?」

「確かに、私や登美子さんにも見えたし、普通の人間らしかったけれど……」


 お嬢さんが口籠る。私にも確信があるわけでは無かったが、相手が通常の死者と違っている、それは確かに思えた。


「……涼太郎さん、あんまり幽霊って言い方をなさらないわよね。どうして?」

「何だか人とは在り様の違う生き物の様ですからね。私の感覚ですと、生者と死者は何と言うか、ひとつながりのものである様に思えるのです」

「あの店員さんは、その感覚だとどう思えて?」

「やはりそのつながりの中に居る様で……ただ、死んだらしい処があまり無い。でも、生きた人かと言うと、そうでも無い様だ」

「不思議ね」


 お嬢さんが首を傾げる。私も言っていて何のことだかさっぱりわからず、唸った。その時だった。


「何かお探しの物が御座いますでしょうか?」


 ぱっと振り返る。そこには、あのデパートガールとは違う、黒い長い髪を纏めた店員が立っていた。我々は落胆のため息を吐き、そして顔を見合わせ、早口でどちらからとも無くこう言った。


「デパートの幽霊の話を聞かせて下さい!」


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「わたくしの、本当に求めているものをご存知なの?」


 少し声が震えましたものの、何とか言い返しました。


「お選びになるのはお客様ですわ。私は、お手伝いをするだけ。でも」


 装飾品の詰まった棚にそっと細い指が触れると、中身は雑貨やら工具やらで一杯になります。先ほどと比べると、まるで無骨。


「日用品雑貨が御入用、そうでは御座いませんでしょうか?」


 ちくり、と不快な何かが心を刺しました。どうしてこの店員さんはわたくしの心を読んだ様なことを仰るのかしら。


「如何でしょうか。例えばこちらの……!」


 だからわたくし、「動かして」差し上げました。店員さんが取り出そうとしたペンチを浮かせ、指を挟む様にカチャカチャと操ったのです。勿論、本当には致しません。脅かしただけ。


「……良い方と思って居たのだけれど。わたくしの心に勝手に踏み入らないで頂きたいわ」


 店員さんは驚いた顔でこちらをご覧になって居ました。それはそうでしょう。わたくしを、ただの、普通の、何でもない、力の無い少女と思ってらしたのに違いないのですから。


「大変不愉快ですの」


 ざっ、と金属の音を立て、工具たちが宙を舞いました。


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 店員は、野次馬に何度も同じ様なことを聞かれていたのだろう。初めは渋って居たが、お嬢さんが学校の宿題だの調査だのと出鱈目を言って拝み倒すと、根負けしたか驚くべき話をしてくれた。


「お客様。幽霊と申しますが、先の火事で亡くなった人間はひとりも居りませんのよ」

「ひとりも? だって……」

「噂になっているのは存じて居ります。誰かが面白おかしく尾鰭おひれを付けたのですね。それが独り歩きした様で」


 我々は再度顔を見合わせた。お嬢さんは果敢に質問を続ける。


「あのう、噂についてももう少し詳しく聞かせて頂きたいの。幽霊はどこで何をどうするものなの?」

「おかしな噂で御座いますよ。服飾用品の売り場に現れて、お客様に話し掛けたり……それから、何をお買い上げになるか迷っている方を、連れ去るのですって」


 これは、今までに無かった話だ。


「連れ去って、それから」

「その方が本当に欲しい物を渡して、帰してくらるのですって。繰り返しますが、こちらは根も葉もない噂話で御座いますよ。当店からの行方不明者などひとりもいらっしゃいません」

「ええ、ええ。それはもう。わかったわ。先生もお喜びになると思います。有難う御座いました!」


 お嬢さんはぺこりと頭を下げる。私も続いた。解放された店員は、首を捻りながら去って行く。


「……と言うことは、あの店員さんは、亡くなられた方ではないのね?」

「ええ。そして、噂通りなら登美子さんもどうやら無事に帰ってきそうなものですが」

「良かった」


 お嬢さんがほっと胸を撫で下ろす。


「……ただ、その、登美子さんはお強い方ですから……」

「あ」


 あの方の気持ちの芯の強さが、無用の衝突を招いて居ないか、私は少々気に掛かって居た。


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 物凄い音を立てて、道具たちは床に雪崩れ落ちました。店員さんはふわりと飛び上がる様にして後ろに下がり……そうして、溶ける様に居なくなりました。どこへ行かれたのでしょうか。


 わたくしは、カツカツと足音を響かせ、小さな山のようになった雑貨に近寄りました。この中に、わたくしの本当に求めているものがあると、店員さんは仰います。

 不躾ぶしつけに気持ちを読んで来られるような方の言葉ですから、まるで本当なのかどうかは信頼が置けません。しかし、わたくしはあの方の言い様に、一片の真実を嗅ぎ取ったように思いました。それとも、先のあの親切な接客ぶりがまだ、わたくしの心の中にぽつりと暖かみを残して行った、そう言うことなのかも知れません。


 わたくしが心から欲しい物は、ぬくぬくと温かな襟巻きなのでしょうか。いいえ。そうではないように思います。


 わたくしはしゃがみ込み、ひとつの道具を選び抜きました。


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 空気が揺らめくように、あのデパートガールが虚空から現れたのは、私たちが息急き切って服飾用品の売り場へと戻って来たその暫し後のことだった。背中から現れた彼女は、くるりと後ろを振り返る様にして私と目を合わせた。その時だった。


「捕まえた!」


 声を上げたのはお嬢さんだった。無謀にも細い手を伸ばし、店員の手首をしっかりと握って居る。


「もう逃がさなくてよ。登美子さんを返して頂戴な!」

「……私がご案内したお客様の、お連れ様ですか」


 デパートガールは困った様に微笑んだ。


「丁度良かった。少々お転婆なお嬢様で、どうおもてなしすべきかと考えておりました」

「何か、されたのですか。登美子嬢は」


 やはり心配が当たったかと聞いてみる。


「商品を全部床に撒いてしまわれて」

「それは……」

「そんなの、そちらが連れて行ったのだから仕様のないことじゃない。どこだかわからないけれど、登美子さんを独りぽっちにして置いて何を言っているの!」


 お嬢さんの声は、少し震えて居た。


「本当に欲しい物をくれるって言うけれど、それだって無理やりなのはあんまりだわ。登美子さんを返して」

「その通りです。あなたが何で、どんな目論見があるのかは知りませんが、あの方を解放して頂きたい」


 私は励ます様に声を重ねる。デパートガールは、穏やかな声でそれに応えた。


「勿論、その心算つもりで居りましたわ。お待ち下さいませね」


 空気が揺らめく。周りの客の姿が搔き消え、この売り場に似ているがどこか違う、もうひとつの売り場が現れた。白い床には工具やらが地面に無残にぶち撒けられ、そして、登美子嬢が毅然とした表情で立って居る。


 ……手には銀色に光るはさみを持ち、長かった黒髪を肩の上辺りまでばっさりと真っ直ぐに切り落とした姿で。


「あら、お帰りなさい、店員さん。それにお二方も」

「登美子さん」


 お嬢さんも流石に唖然とした顔で御友人を見つめて居た。


「どうなさったの、その髪……」

「求める物を、ご自分で探し当てられた様ですね」


 店員冥利に尽きる、とでも言いたげな会心の笑みを、デパートガールは浮かべた。


「ええ。わたくし、ずっとこうしたかったの。ふふ、首筋が涼しくて良い気持ち。どう? 弥生さん」

「……とても良くお似合いだわ」


 そう、童女のような髪型は、登美子嬢の美貌をより引き立てて居るようだった。


「でも、ええと、よろしいの? そんなことをして。それに、独りで大丈夫だったの? 私たち、とても心配してよ」

「どちらも御心配には及びませんわ。そちらの店員さんが、ちゃんと出して下さればの話ですけれど」


 三人の視線が、デパートガールの前で交錯する。彼女はそれでもにこやかだった。


「ええ、ですから初めからそう申し上げて居りますわ。お買い物を終えた方はきちんとお見送り致します」


 こんなに散らかされたお客様は初めてですけれどね、と床を見渡す。登美子嬢はばつの悪そうな顔になった。


「……これは単に好奇心ですが、あなたは何です? 死んだ店員は居ないと言う。では、あなたは何者で、ここはどこで、そうして、あなたの目的は何なのですか」

「私は私です」


 禅問答の様な答えが返ってくる。お嬢さんが口を曲げたのを見たのか、デパートガールは言い直した。


「その、火事で亡くなった店員の話は作り話ですけれど、噂は広がって、どんどん細かくなって行きました。どんな見た目で、どんな過去があって、どんな風に現れるのか。それが私の一部」

「あなたは、『噂』だったの?」


 彼女は優雅に直立し、語り続ける。


「それから、このデパート、火事の修復をきっかけにこの階をあちこち改装して作り変えまして。そうしたら皆さん、大勢が比べられるでしょう。『前の方が良かったのに』『随分良くなったじゃないか』。そんな風にしているとね、場も化けて出るのですよ。それが私のまた一部」

「つまり、その、デパートの……この階そのものの幽霊ということ、ですの?」

「それらが混ざって生まれたのが、私です」


 ああ、だから。だから、彼女は死者然として現れるのに、まるで生者の様だったのか。否、噂を核にして生まれた彼女は、むしろ生きていると言っても良い様に思えた。人の形をしてかつ人ではない、その様な存在ではあるけれど。


「私、生まれてからずっと考えて居ましたわ。私は一体何だろうと。どうやって生きることが私であることだろうと。デパートを出ることも考えましたが、それも何だか違う様で。それで、捻り出しました。私のあり方と力とを一番良く使える方法……私が一番嬉しいと思う生き方を」


 それが、あの「真に求める物を与える」ことだったと言う訳らしい。


「結局私、デパートガールなんです。その鋏、お気に召しまして?」

「ええ、とっても」


 登美子嬢がすっきりとした頭を縦に振る。彼女がこの後鋏でばっさりと切り捨てようとしているものは、きっと髪の毛ばかりでは無い、面倒なしがらみ全てであろうと推察された。空恐ろしいことだと思う。


「でも、勝手に心を読む様なことはなさらない方が宜しいわよ。ええと、あなた……」

「三国すみれと申します。自分で名付けました。今後は注意致します」

「すみれさん」

「ええ」


 デパートガール……すみれさんは初めて、商売用ではない、人懐こい笑みを浮かべる。


「名前を呼ばれるのは初めてです。とても嬉しい気持ち」


 ゆらりと、視界がぼやけた。


「素敵なお代を有難う御座いました。またのお越しをお待ちして居ります」


 声だけが虚空に響き、私たちはいつの間にか元の売り場、人の多い今のデパートへと戻って居た。


「……戻ってしまったわ」


 お嬢さんがキョロキョロと見渡す。切りっ放しの頭のままの登美子嬢は、手の中に残された鋏をジッと見つめて居た。


「どうやって生きることが、私であるか」


 小さく呟く。彼女は彼女らしく、銀の鋏を振りかざして誇り高く生きて行って欲しいと、私はそんなことを思った。勝手な願望だ。だが、私は登美子嬢の強さにはいささか敬服して居る。


「あ」


 お嬢さんがはっと声を上げた。


「ねえ、涼太郎さん。おかしいわ。私たち、本当に求める物というのを何も頂いていないわ」

「それは、私たちがそれなりに満ち足りているから、何も必要無かったと言うことなのでは無いですか」

「なんだか不公平な気がするわ……」


 いかにも不満そうなお嬢さんに、登美子嬢は吹き出す。


「弥生さんは本当に子供ですこと」

「そんなことはないわよう。マヨヒガに行けばお椀を貰って帰る物じゃなくて?」

「結局、お買い物を出来ないものだから膨れてらっしゃるのでしょ。可愛らしいこと!」


 私はそんなおふたりを眺め、先生のお言葉を思い出し、それからしばし頭を巡らせ……。


「……先生は、財布の紐を締めよと仰いましたが、お買い物をするな、とは仰って居りません」


 視線が私に集まる。何と言うか、柄で無いことをすると言うのは、非常な勇気の要ることだ。


「つまり、先生に言付かったお金やお小遣いを使わずにお買い物が出来れば、お嬢さんは御満足なのですよね。……私が何か差し上げる、と言うのは如何です」


 ぱっ、とお嬢さんの顔が明るくなった。ああ、向日葵ひまわりが咲いた、と思う。


「宜しいの? 本当に? あっ、でもわかっていてよ。ちゃんと選びますからね。涼太郎さんがそんなにお金持ちなら、まず御自分のお着物をきちんと揃えるに決まってるのだから」

「……そんなに酷いですかね」


 確かに、袖口は擦れて白くなっては居るが、まだまだ共に秋を過ごす心算であったのだが。


一寸ちょっと待っていてね。選ぶわ。真剣に真面目に選ぶから!」


 お嬢さんはいつになくきっと据えた目つきで小物をめつすがめつしてらっしゃる。大分かかりそうですわね、と登美子嬢は欠伸をした。


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 この話には、最後にひとつ、続きがある。デパート騒ぎのしばらく後、お嬢さんに英語を教えて差し上げている時のことだ。

 お嬢さんの部屋でふたり……と言っても、ふすまは軽く開けて居るし、近くの部屋ではおときさんが編み物に勤しんで居る。とても艶な空気になる筈も無い。


「登美子さんのことね、学校でも噂になっているの」

御髪おぐしのことですか」

「それと、お父様とずっと喧嘩されてるって。今に家出されるんじゃ無いかって言われているし……私も登美子さんはそうすると思って居るわ」


 少しちびた鉛筆をゆらゆらと揺らしながら、お嬢さんは物憂げに目を細め、そして。


「でも私、そんな登美子さんが、とても凛としていて格好良いと思うの」


 頑張って皆を見返して欲しいものだわ。そう呟く声には、親友への心からの信頼が込められて居るように思えた。


「私もそう思います」

「本当に? 生意気だとか、はしたないとか思わなくて?」

「思いませんとも。私は登美子さんが……そうだな、贔屓なんですよ」

「変なの」


 少し手がお冷えなのだろう、ふう、と息を吹きかけ、笑う。


「ねえ、涼太郎さん。私も、本当はやりたいことがあるのよ。自分でもまだ、ただ憧れて居るだけなのかどうか、よくわからないのだけど……」

「何ですか」


 お嬢さんのことだから、女優だとか、女流作家だとか、或いは記者だの女スパイだの言いだすのでは無いか、と私は微笑ましく思い……そして、答えを聞いて驚嘆した。


「あのね、専門に入って、それからそのうち卒業するでしょう。そしたら、お父様や平坂さんや涼太郎さんや奥村さんみたいに、大学に上がれたら素敵だと思うの」

「大学に? 学問をなさるんですか?」


 内緒よ、と指を立てられる。女性が入学できる大学と言えばまだ数も限られる。例もそう無い。言わば女スパイ並みに高い壁と言える。


「私であること、って何かなって思ったの。多分、外から見た私は、大学に行こうだなんて言い出す様には見えないと思うの。でも、自分で考える自分は違うの。そう言うのが面白いなって思ったのよ」

「どう言うことでしょうか」


 例えばね、とお嬢さんは、先日私が贈ったハンケチを、机の下に置かれた輸入のクッキー缶から取り出す。生成りの地に、控え目な刺繍が施されたものだ。


「このリボンの刺繍は何色に見えて?」

「黄色ですね」

「私には梔子くちなしの色に見えてよ。涼太郎さんには一色にしか見えない色が、私にはもっと細かく見えて居るの。登美子さんに聞いたら、これは確かに梔子ねって仰るかも知れない。でも、私と登美子さんの梔子は違う色に見えて居るかも知れない。私と涼太郎さんと登美子さんの性格や、生き方が違って居る様に、私と涼太郎さんと登美子さんの見て居るものは、きっと違うのだわ」


 そこでふと口を閉ざし、じっと私を見る。


「私、おかしなことを言って居るかしら? こんなのは調べたり論文を書いたり、そう言うことにはならない?」

「いいえ……驚いたな」


 私は何と言って良いかわからず、少しばかり狼狽して居た。


「お嬢さんは哲学を学ぶお心算ですか。それとも心理かな」

「そう言うの? よくわからなくて。でも、こう言う話を考えるのはとても好きよ。私、涼太郎さんの目のことを考えると、特に不思議な気持ちになるわ。本当に違う物が見えてらっしゃるのだものね」

「……先生には仰ったんですか」

「まだよ。そのうち……きちんと専門に受かった後でね。涼太郎さんが一等最初」


 ああ、と私は息を吐いた。

 今わかった。この年頃の女子と言うものは、皆が皆、登美子嬢が持っていたような、あの銀の鋏をこっそりと持ち歩いて居るのだ。そうしてこちらが油断を見せた隙に構えて、鋭い刃でぐさりと胸を刺し貫いて来るのだ。なんと恐ろしい生き物だろうと思う。


「お嬢さんは、お嬢さんの思う通りに進まれるが宜しいと思います」

「本当に?」

「本当ですよ」


 応援、と言うよりは、そう言わざるを得なかった。それだけの力と意志を、私はこの年端も行かぬ少女から感じて居たのだ。願わくば、その輝きがいつまでも色褪せぬことを。そう密かに祈った。


 それから、すみれさんのことをふと思った。菫は秋にはそぐわぬ花ではあるが、時に返り咲きの美しい紫が道端を飾ることがある。そんな風でも良い。いつか、思いもよらぬ時にふと咲き返す花であっても良いと思う。


 この方の花がどんなに美しい物か、私は直ぐ傍で見て良く知って居る。そのことが、どれほどの幸せであるか!


 暫く後、我々は雑談を止める。お嬢さんの音読の声が夜を流れて行く。私は、歌を聴く様に心地良く、ずっとその声に耳を傾けて居た。

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