奥村の恋と金木犀の話

「さて、次はこの店に入ろうじゃないか」

「先生、あの、そろそろ腕が」


 秋のある日。我々……私、大帝大の学生である境涼太郎と、私が師事し寄宿する生物学の先生、吉野恵三氏のふたりは、神田は神保町にて書籍の物色と洒落込んで居た。

 古書店街の店先はどれも非常に魅力的で、花街にずらりと並ぶ客引きの如く我々を、特に先生を誘い、結果、荷物持ちの私が四苦八苦する羽目となっていた。


「なんだね、情けないぞ涼太郎君」

「そうは言われましても、そろそろ勘弁して下さい」


 ずしりとのし掛かる重みに、私の両腕は先程から悲鳴を上げて居るし、風呂敷の容量も一杯だ。


「大体、ご研究に関係の無い本ばかりではないですか。お嬢さんにまた何やら言われますよ」

「君、古書との出会いと言うものは一期一会だよ。……まあ、持てないと言うなら仕方が無い。そろそろ戻るとしようか」

「そう願います」


 私が頷いた時のことだった。ふと、休日の賑わいの中に見慣れた顔を見つける。やたらと上背の大きな男で、顔立ちも欧風。間違い無い。友人の奥村だ。詰襟の上にとんびを羽織って居る。

 私は彼を目で追い、近寄って来るのならば声を掛けようとした。だが。


 奥村の横には、地味な羽織を纏い、大人しく髪を結った婦人が居た。彼は親しげにその婦人に話し掛け、相手も鷹揚にそれに応えて居る様だった。


「どうかしたかね、涼太郎君」


 先生が立ち止まって尋ねてきた。私は首を振る。ここで他人の邪魔をする程私は野暮天では無い。


「何でも在りません。友人かと思ったのですが、人違いでした」

「そうかね」


 先生はステッキを振り、片手に自分でも本の荷物を小脇に抱え、また歩き出す。駅はもう直ぐそこだった。


「おや」


 今度は先生が通りに何かを見つけて立ち止まられた。鼻をひくつかせる。


金木犀きんもくせいの香りだよ。いいね。もう秋も中頃だ」


 先生の仰る通り、近くに木が在るのだろう。涼しい風に乗って、花の香りがその辺りに漂って居た。小さな橙色の花が見えるようだった。


「時に涼太郎君。あちらの店も見て行きたいのだがどうかね」

「先生、どうかその辺りで……」


 私はかぶりを振った。


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「昨日、神保町に居たろう」


 次の日、私が大学敷地内の食堂で話し掛けると、奥村は途端に目を白黒させた。


「見ていたのか」

「その言い様は、見られて拙いことをして居た時の言い方だな」

「いや、その、まあ」


 もごもごと言い訳をし掛けるが、元より嘘の付けぬ男だ。長い脚を窮屈きゅうくつげに組んでいたのを座り直し、小声で言う。


「誰にも言うなよ」

「だから、私はお前を見かけたと言っただけなのに、どうしてそうやって自分から墓穴を掘るのだ」

「だって、見て居たんだろ!」


 まあ、それはそうだ。私は頷いた。


「あの方はお前の……」

「違う。そう言うのじゃ無いんだ。邪推するような仲じゃ無い。知り合いだよ。買い物を手伝って居た」

「ふうん」


 別段、私とて詰問をしたくて彼に話し掛けた訳では無いし、彼が誰とどう付き合おうとそれほど興味が在る訳でも無い。茶を啜りながら、まあそれならそれで構わないか、と思ったところだった。


「ああ、だが、しづさん……その人のことでお前に一寸ちょっと相談が在るんだった。丁度良い。話してしまおう」

「相談?」

「うん。……簡単に言うとだ。幽霊が出たかも知れん」

「……あのな。私は別にそう言う話の解決屋では……」

「良いから聞いてくれよ。聞くだけで良いからさ」


 はあ、と私は嘆息した。私と彼とは、私のこの妙な物が見える目が結んだ縁ではあるが、そうやすやすとこの目で何でもわかると思って貰っては困るのだ。


 そうして奥村は、そんな私の内心など気にも留めていないかの様につらつらと話し出した。


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 しづさんと初めて会ったのは、夏になる少し前だった。ああ、お前と会って芳佳の話をしてもらった時からもう一寸した頃だよ。

 俺はぶらぶら神田を歩いて居て、それで、たまたま酔漢に絡まれて居たのを助けたんだ。直ぐに追っ払ったが、こちらも殴られたから、家に寄って軽く手当をして貰った。


 神田の、狭い長屋住まいでね。しかも女独り暮らし。こりゃ訳有りだなと思ったっけ。


 箪笥の上に、写真が一枚飾って在った。若い男としづさんが並んで映って居て、まあ、そう言うことなんだろうなと思った。幾らお前でもわかるだろ。旦那だよ。何でも商売で大陸に渡って、その先で病気をして亡くなったんだそうだ。いや、その場で聞いた訳じゃないぞ。その後何回か会って、それで聞かせて貰ったんだ。


 ……そう。何回か、まあ、偶然神田に行く用があってな。何だその目は。だから、そう言うのじゃないぞ。俺はしづさんが独り暮らしで色々と大変にしているから、助けたかったんだよ。これは本当だ。買い出しだとかを手伝って、お礼に一緒に飯を食って、そんなもんだよ。それだけだ。しづさんの名誉に掛けて、色っぽい話なんかは無い。


 そうして、この間また荷物持ちをやっていると、しづさんが妙なことを言い出したんだ。


「一昨日の夜、あの人が帰って来たの」


 聞き返すと、どうやら死んだ筈の旦那が突然帰って来て、夕飯を所望し、そして寝て起きたらまた居なくなったと言うんだ。しかも、それが何度か日を置いて繰り返されて居るらしい。俺は最初しづさんの正気を疑ったが、幽霊に関しちゃお前の話が在ったろう。笑い飛ばすのも出来なかったんだ。


 これがまあ、事の顛末と言う訳だ。


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「話はまあ、大体わかった」


 私は冷めた茶を呷った。


「その未亡人が取り憑かれてでも居ないか、お前は心配で仕方が無いと言う訳か」

「どうしてそう悪意を差し挟む。……まあ、その通りだ。仮に幽霊では無い何かだとしても、神経病ならしづさんを医院に連れて行くし、誰かの悪戯ならそいつを取っちめてやらねばならん」


 どのみち、そこの判別を付けねばならんのだ。奥村は神妙な顔で言った。


「しづさんは目は悪く無いんだ。人の顔の区別は普通につくだろう」

「声もか? 変装しても声を変えるのはなかなか難しいだろう」

「それが、旦那は元々随分と無口な人だったらしい。交わしたのも一言二言程度なんだとか」

「成る程……」

「ただ、しづさんは言ってたな。その旦那が来ると、決まって金木犀の良い匂いがして、それで帰って来たんだとわかるのだとか何とか」


 ふむ、と少々考える。だが、それで何かわかるものでも無かった。


「それで、どうするんだ。確かめるには……」

「決まっているだろうよ。長屋を見張って、その旦那が現れるところを捕まえる」

「即物的だ」

「お前も来るんだぞ」

「ええ?」


 嫌な顔をしたが、奥村は既に計画を頭の中で形にしていたらしい。


「本当に幽霊の類なのかどうか、確かめる必要があるだろう。そのためにはお前がいないと判別ができん」

「勘弁してくれ」

「頼むよ。自分ひとりでどうにかなる話なら何とでもするさ。実際、只の悪戯いたずらか犯罪と決まったなら俺がふん捕まえて終わりだ。だが、こと怪異に関してはお前の力が要るんだよ」


 奥村は頭を下げ、またこちらを真摯な目で見つめてくる。青い電気の様な光が、反射でちかりと瞳の中に走った。私は、遺憾ながら奥村のこの目には少し弱い。


「もし本当に死んだ旦那本人だとしたら、どうする心算つもりなんだ」

「しづさんがあちらに引かれないよう、何だってする」

「難しいぞ。想い合って居る二人を裂くわけだからな。……上手く行っても、感謝されるかどうかは」


 平坂さんのことを思い出す。彼の少し痩せた背中には、未だに死んだ女性がしがみ付いて居る。

 だが、奥村は強情で、そして真摯だった。


「それは問題じゃ無いんだ。俺は、ただ、あの人に健やかに生きて居て欲しい、それだけなんだよ」


 私は二、三度目を瞬かせ、そして渋々と首を振った。


「荒事には……否、面倒沙汰には巻き込んでくれるなよ」

「境!」


 ぱっと顔が輝いた。安請け合いをしてしまったものだが、仕方がない。


「恩に着る。早速今日の夜だ。付き合ってくれるな」

「早いな!」

「俺のにらんだところだと、そろそろ奴はまた現れる。大体三日四日置きなんだ。いいな、境」


 やはり安請け合いだったろうか。どうにも直情な友人の剣幕に、私は少し憂鬱な心持ちになった。


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 御推察頂けているかも知れないが、その夜、「旦那」は姿を現さなかった。我々二人は長いこと長屋の付近を見張り、しづさんの家の灯りが消えたのと同時に肩を落とす羽目になったのだ。我々はふらふらと都電に駆け込んで、眠気を噛み殺しながら帰宅した。


「お帰りなさい」


 吉野家には未だ暖かい光が灯っており、おときさんが出迎えてくれた。私は奥村なぞとは違っていつもは優等生的な生活を心掛けているため、ここ一番というところでこの様な夜遊びをしてもそう嫌な顔はされないで居る。普段の行いは何よりの宝である。


「遅くなりました。先生方はもうお休みですか」

「ええ。弥生さんはお勉強をなさって居る様ですけど」


 お嬢さんは今年度、通って居る女学校を卒業し、次は女子専門学校に通われる予定だ。その試験のため、最近では毎晩遅くまで勉学に励まれて居た。私も時々は英語などを見て差し上げる約束をして居る。


「熱心で何よりです」

「涼太郎さんもね、あんまり遅くまで根を詰めないがよろしいですよ」


 どうもこの人は、私が何らかの学術的集いに参加してこうも遅くなったのだと思い込んで居るらしい。通い幽霊を見張って居りました、とは言い出せず、私は頭を掻く。

 それから、離れに布団を敷いてさっさと寝ることにした。


「また明日な」


 奥村の去り際の声が甦る。あの男は、明日の夜までも私を引っ張り回そうと言うのだ。何と言う奴だ。警察にでも見つかれば確実に不審者である。そうしたら、言い逃れをする自信はひとつも無い。


 半ば眠りに落ちようとするところに、さっと風が通り、どこからか金木犀の香りが流れて来た。鬼灯ほおずきが目印の明かりになったように、あの金色の香りはあの世から人を呼ぶのだろうか。

 私はいつしか、暗い地面に落ちた花びらと、鼻腔を満たすあの香りを追って、曲がりくねった道を早足で歩いて居た。秋の夜の夢だ。


 その先に何が在るのかは、己のことだ。何と無くわかって居る。ぼんやりとした暖色の灯りの下で机に片肘つき、教科書を熱心にさらっていらっしゃる、短い髪の後ろ姿。

 今日はあまりお会い出来ませんでしたね。だから、こうして夢に出てしまいました。私は後ろから、道々拾い集めて来た橙色の小さな花を軽く降らす。開いた本の間に、清々しい白い首筋から着物の襟元に、花びらは落ちて引っかかった。


 そこで目が覚めた。気がつくと私の手の中には、体温が移ってくしゃくしゃになった花が握られて居た。


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「なあ、今日も来なかったらどうする」

「明日も見張る迄だ」


 暮れた空の下、長屋の入り口付近に陣取って小声で問うも、奥村は断固として主張する。


「お前、家には何と言って出て来た」

「短歌の会で会誌を作るのに忙しいと言うことにして居る」

「短歌! お前が!」

「詠むのは本当だぜ。そうだな、ええ、『待つ人を』……」

「しっ」


 私は遮った。入り口に咲いた金木犀の枝が風にざわざわと揺れる。何かの物音と気配がする。


 かさ、と足下で音がした。良く見えないが、小さな四つ足の獣のようだ。我々は何だ、と息を吐こうとし、そして目を疑った。

 月明かりの下、その獣はひょいと器用に地面に光の粒の様に散らばった金木犀の花を摘むと、頭に乗せたのだ。そして、次の刹那、獣の姿は消え、紺絣こんがすりを着た男がそこに立って居た。


 私は奥村の顔を見る。相手は呆気に取られた様子で動けずに居る様だった。男は我々に気付かずにつかつかと進み、光が漏れる一軒の戸を開けて入って行った。女の嬉しそうな声が聞こえた。


「境。あれは何だ」


 取っ捕まえるどころではなく凍りついた顔の奥村が尋ねて来る。


「何だと聞かれても困る。困るが……たぬきむじなではないのか」

「ああやって化けるのか、狸だかは!」

「その様だ」


 私とて、そんな状況は初めて見る。故郷には山の狸に化かされたことの在る年寄りだの、狐に憑かれておかしくなった男だのが少しは居たものだが。


「一寸待てよ。そんな四つ足の畜生がしづさんを化かして騙して居ると言うことだな!?」

「……まあ、そうだな」

「何だそれは……」


 奥村は真顔になった。御伽草子おとぎぞうしか何かと言う状況と言うのに、事態を受け入れるのが存外に早い。


「許せるかよ……人だろうが獣だろうが」


 しづさんは、そりゃあ嬉しそうに話して居たんだぞ。呟く。


「境。あいつが出て来たところで今度こそ捕まえる。化けの皮を剥ぐぞ」

「了解した」


 奥村は少々意外そうにこちらを見た。


「何だよ」

「随分合点が早いな、と。いやに素直じゃないか」

「私にだって同情心位は在る」


 お前のそう言う、危なっかしいところは嫌いではないからだよ、とは言わずに置いた。




 しばらくの間が在り、だが意外にも早く灯りは消え、すると男がそっと戸を開けて外へと出て来た。

 私は月明かりを頼りに、男の足目掛けて飛び付いた。よろけたところを奥村が組み付き、両の腕を掴み、ぐいぐいと引きずって行く。長屋の外に出た辺りで男は身じろぎをした。


「は、離してください。逃げませんから」

「何を言ってる。何が目当てでしづさんに近付いた、この畜生……」


 すると男はぱっと掻き消えた……様に見えたが、違う。獣の姿に戻ったのだ。獣は地面に平伏していた。


「申し訳御座いません! 全部お話ししますからお許し下さいませ!」


 我々は顔を見合わせた。


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 私は、神田の片隅に住んで居ります狸で御座います。この辺りには森こそ在りませんが、建物の影、植え込みの影をこそこそと駆け回り生きて参りました。兄弟達は逸れたり、電車に轢かれてしまったり、いつの間にか独りきりで御座いました。


 そんな或る日、しづさんに出会いました。あの方は、大変優しい方で御座いますね。うっかりと人前に出てしまった私を追い払わないどころか、あり物を投げて下さって。私、おかげでがんもどきなど初めて食しました。あれは美味い。

 否、食べ物の話は良いのです。私はしづさんに段々懐いて行きましたし、しづさんも私を可愛がって下さいました。そんな中、私はふと気付きました。しづさんはいつもいつも、とても寂しそうな顔をして居ると言うことに。


 私にも少しながら化ける力が御座いますから、人になってあちらこちらで噂を集めました。こちらのお隣のお婆さんがまた話好きで。色々なことを聞かせて下さいましたよ。

 中でも一番の収穫は、しづさんの遠くで亡くなった御主人のことでした。ああ、御存知の顔だ。御主人、少々山っ気のある方でしてね。国内で御商売が上手く行かなかったもんだから大陸に渡ったけれども、結局御病気で、ということらしいですね。悲しいことです。


 私は、しづさんをどうにか慰めたかった。でも、獣の姿では少しばかり心を和ます位のことしか出来ません。かといって、突然見も知らぬ人の姿で現れても、怪しまれるばかりでしょう。私はうんと考えまして、そうして決めたのです。そうだ、亡くなった御主人の姿を取れば良いのだと。


 御存知無いかと思われますが、ただ人に化けると言うのは、これはまあ変化の術の中の上と言ったところであります。誰でもであるようで誰でも無い、そう言った顔の人間に化けるのですね。これは何も無くとも大人の狸であればまあ、大凡おおよそ可能でありましょう。

 ただ、「誰か」に化けると言うこと。これは少々難しゅう御座います。顔形もさりながら、声音や話しぶり、動作や癖、全てをキチンと欠かさずに演じねばならぬのですから。況してや御主人はお会いしたことも無い故人ですから、頭を悩ましましたとも。ただ、ほら、ここの入り口の金木犀。この木の花に助けて貰うことにしたのです。

 木は、ようく覚えていましたからね。去年の花の季節、暗くなりかけの頃合いにゆっくり、ゆっくりとしづさんへのお土産を手に歩いて来る御主人の姿を。私は、教えて貰った通りに動けば良かったのです。


 しづさんは、初めいぶかってらっしゃいましたが、すぐに私を招き入れて下さいました。と言って、何をしたと言うことも御座いません。ご飯を頂いて、一言二言言葉を交わして、そればかりです。しづさんの名誉のためにも申して置きますが、色っぽいことなんぞ何も御座いませんからね。何せ当方獣で御座います。毎度毎度眠くなった振りをして布団に入り、しづさんが寝付かれたところを抜け出すばかりでした。


 でも、それでも、しづさん、嬉しそうだったなあ。私はそんな顔を見るだけで、実際満足だったのですよ。


----


「それだけか」


 奥村が微妙な心持ちの篭った声で言う。


「本当にそれだけか、狸」

「信じては貰えぬかも知れませんが、本当にそれだけで御座います」

「本当に、その、食い物を貰って、可愛がって貰って、寂しそうだったから慰めたい、と」

「その通りで」


 狸はほとんど腹這いの格好で答えた。


 何だよ、と奥村は己の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。


「それじゃあ、何だよ。俺と全く同じじゃ無いかよ。俺と、このぽんぽこと!」


 しいっ、と私は指を立てた。しづさんに聞こえかねないし、何より周囲に誰何されては困る。


「奥村様ですね。しづさん、化けた私にあなたのことも聞かせて下さいましたよ。楽しい学生さんがよく手伝いに来てくれるって」

「…………」

「奥村」


 声を掛けると、奥村は道にしゃがみ込んだ。


「参るよなあ。それじゃ、何も言えない。俺は……しづさんを助けられるのは、しづさんのことをちゃんと思ってるのは俺だけだなんて思い上がって居たんだ」


 長い手足を窮屈そうに折り畳んだ奥村の影は、どこか子供の様に見えた。


「実際はどうだよ。あの狸程のことも、俺はあの人にしてあげられて居ない」

「まだ、それは早いだろう」

「そうで御座いますよ」


 狸がトコトコとやって来て、奥村の脚に前脚をチョンと置いた。


「私がこうして御主人の姿で化けて出られるのは、あの金木犀の花が終わるまでの間で御座いますから」

「そうなのか」

「ええ。そうしたら、しづさん、また寂しくなってしまわれる。その時に傍に居て差し上げられるのは、多分奥村様で御座いますよ」


 少し離れたガス燈のチラチラとした灯りが、獣の黒い、真っ直ぐな瞳を照らした。


「俺は……しかし」

「良い加減に素直になれ、奥村」


 私は、少し呆れて言った。


「それとも堂々としろ、か? お前はしづさんをせんから慕って居るのだろう」


 奥村は軽く鼻を啜ると、顔を上げる。


「ああ、そうだな」


 夜闇によく見えなかったが、きっとどこか晴々とした顔をして居るのだろうと何と無くわかるような、そんな声だった。


----


 さらに次の夜。我々は、またもあの長屋に集まって居た……今回は、しづさんの家の中、当人の前だ。


 目の前では、狸が旦那の姿で膝をつき、深々と頭を下げて居る。私と奥村はその後ろで神妙な顔をして正座して居た。……正直な話、何故しづさんの知己でも無い私がこの場に参加せねばならぬのか、皆目わからないのだが、奥村によると、立会人と言うことらしい。


 しづさんは目を丸くして我々を見つめて居る。初めて見た時と同じく、大人しげでたおやかな風情の女性だった。


「信じて貰えるかわかりませぬが、私は神田に住まう狸で御座います。この度は御主人様の姿を借り、三度四度とあなた様を騙すこととなり、大変申し訳御座いません」


 しづさんは余程驚いたか呆れたか、何も言わずに口を結んで居る。


「それもあなた様のお気持ちを慰めたい一心では御座いましたが、嘘は嘘。そのまま立ち去ることも考えましたが、最後に一度、お詫びを申し上げたかった」

「ええと、これは……」


 しづさんがようやく小さな声を出し、奥村の方を見る。


「奥村さんとは、どういう?」

「俺と、この境が捕まえて、謝らせようと言う話になりました」

「驚いた」


 それはそうだろう。突然死んだ旦那が戻って来たと思ったら狸などと言い出すのだ、と思ったのだが。


「と言うことは、遅くにこの辺りにいらしたの」

「え? その、まあ。その」


 何故か、彼女の矛先は奥村に向かった。流石に手を伸ばして背中を叩いてやる。いかな私でもわかる。ここはしゃんと背筋を伸ばすべきところだと。


「……しづさんが、心配で」

「そうでしたの。でも、こんな夜に危ないわ。気を付けて下さらないと」


 どう言うことだ? 私は訝った。しづさんは、狸のことを何だか、話題として流して居る様な。奥村は腕を広げる。


「しかし、実際旦那さんは偽物だったんだ。どうも悪さをしようとした訳じゃ無い様ですが、これが悪漢だったらどうします」

「……ええ、大丈夫。知って居ましたから。最初から」


 三人……二人と一匹が、揃ってあんぐりと口を開けた。


「最初から?」


 狸が呟く。


「一寸待って下さい。最初から、この旦那の正体が狸とあなたは御存知だったんですか?」

「はい。……見てしまいましたから。狸さんが金木犀の花を頭に乗せて、懸命に化ける練習をして居るところを」

「うわあああ」


 旦那の姿の狸が床に突っ伏した。つまり、化けの皮は元々剥がされて居たことになる。これは流石に恥ずかしかろう。


「何故おっしゃって下さいませんでした!」

「一生懸命のようだったし……」


 ふと笑う。笑うと、あの大人しげな雰囲気はどこかへ消え、快活な表情が覗いた。


「私もね、久しぶりに、本当に久しぶりに……あの人と会えた様で、とても嬉しかったの」


 しづさんが狸の肩にそっと手を置く。


「だから、怒ってなぞ居ませんよ。お顔を上げて」

「有難う御座います……」


 半分涙声で狸は言った。無口だと言う旦那の面影はもうどこにも無いだろうに、しづさんはその手を取る。


「私としては、またそうやって来て下さると嬉しいのだけど」

「それが無理なお話でして。あの金木犀の花が無ければ私は御主人様に化けられません」

「そう」


 しづさんはすっと目を伏せた。


「それじゃあ、もう」

「はい。次に雨でも降れば、花は全て落ちてしまうでしょう」


 これが最後と思って頂きたい。狸は再び頭を下げた。


「それなら、そう、そうね。私があの人に何よりも言いたかったこと、したかったことを、代わりに受け取って下さるかしら」

「何なりと」


 奥村が身を竦めた。そうか。それは、何よりも切々とした愛の言葉であるかも知れぬし、もしかするとあの世への道連れを頼む言葉かも知れぬのだ。どちらも、奥村には辛かろう。


「何で……」


 だが、しづさんはきっと狸を……旦那を睨み据えた。


「何で先に行っちゃうのよ。この、馬鹿ッ!」


 ぺち、とごく軽く叩く音。狸が驚いた顔で頰を押さえた。


 ああ、スッキリした。これでもう思い残すことは無いわ。しづさんは明るい笑顔で言う。奥村は……そんな彼女を、嬉しくて仕方が無さそうな顔で見て居た。


 成る程。これが、こいつの惚れた相手か。


 完全に部外者である私は、ようやく合点が行った様な気がして、三者三様のその様をしばらくぼんやりと見て居た。




「それでは、失礼します。夜分にお騒がせしました」

「いいえ。なかなか楽しい時間でした」


 我々がしづさんの家を辞したのは、それから直ぐのことだった。結局、なんだか有耶無耶うやむやになってしまった気もする。

 しづさんは狸に、また元の姿でも来なさいね、などと話しかけており、奥村は騒いだことが照れ臭くでもあるのか、さっさと表へと出てしまった。奴の恋は、多分、まだ始まったばかりなのだ。


 私は、少しだけ迷ってから、初めてしづさんに話し掛けた。


「今日はお邪魔致しました」

「あなたも巻き込まれて大変ですこと。お気になさらないで」

「あの」


 口を開きかけ、何を言おうかその後に考え、それから、漸く言いたいことを絞り出した。


「奥村を、よろしくお願いします。考え足らずですが良い奴です」

「こちらこそいつもお世話になって居るのに」


 しづさんは優しく微笑んで居る。


「奴には……ええと、まあ、何でも良いです。元気で居て欲しいのです」


 早口で、私は言った。


「大事な、友人なので」


 何を話して居る、行っちまうぞ。外から呼ぶ声がする。私は礼をすると、敷居をまたいで外に出た。


 少し火照った頬に、秋の風は心地良かった。


----


「あら、やっと帰って来た。ここのところ随分宵っ張りさんなのね」


 吉野家の玄関で私を迎えてくれたのは、お嬢さんだった。


「奥村の……そう、短歌の会の会誌作りの手伝いに引っ張り出されて居りました。もう今日で終わりです」


 私は適当な言い訳を投げると、ガラガラと戸を閉めた。今回のことは、流石に秘密にして置いた方が良かろう。


「何かまた面白いことをされてるんじゃ無いかと思ったのだけど、学校のお友達のことなのね」

「がっかりしましたか」

「そうよ。涼太郎さんが取られてしまったみたいで、少し寂しいわ。明日は英語を見て頂ける?」


 お嬢さんは廊下を歩きながら、そんなことを言ってくれる。私は胸がじんと温かくなるのを感じた。


「そうだ。そう言えばね、不思議なことが在ったのよ。涼太郎さんにお話したかったの」


 自室のふすまの前で、お嬢さんはくるりとこちらを振り向く。


「この間ね、幾何のお勉強をしていて、教科書を机の上に開けたままでお布団に入ってしまったの。そうして朝起きたら、開きっ放しの教科書に、金木犀の花がパラパラと挟まっていて……」


 お嬢さんは怪訝な顔をする。私の顔に何か表情が出てしまったのだろう。


「何か御存知? 涼太郎さん」

「いいえ、何も、何も」


 そう。不思議なこともあるものよね。それじゃあお休みなさい、また明日ね。そう言ってお嬢さんは部屋へと入って行った。


 私はあの日の金色の香りの夢を、目覚めた時に握って居た花を思い出す。夢から飛び出してまで、私はあの人を追い掛けてしまったらしい。


 お休みなさい、お嬢さん。私は息を整えると、そっと踵を返す。


 お休みなさい。今宵の夢は、きっとまた金にけぶる夢であることでしょう。


 また、お会い出来ると嬉しいのですが。

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