盆の一日と向日葵の話
盆には故郷には帰らず、先生の家の月遅れの墓参りに一緒に付いて行った。
私の様な居候に参られても、ご先祖、並びに先生の奥様はお困りになるのではないかとも思ったが、これまでずっとお世話になって居ながら挨拶無しと言うのもまた失礼に当たる様な気もして、結局荷物運びついでに加わらせて貰った。
お嬢さんは、「大丈夫? 涼太郎さん、お盆のお墓なんて幽霊だらけではないの。行って気分が悪くなったりしない?」等と心配してくれたが、別段そんなことは無かった。
意外なことに、墓地には死者の姿は殆ど見えない。盆でこちらに帰ってきた魂は、馴染みの少ない墓なぞは直ぐに出て、それぞれの好みの場所に居着いて居るのかも知れない。いっそ清々しい程に、そこには人ならぬ者の気配が無かった。
墓を清め、花を供えた。墓には御先祖の名に続き、先生の奥様、すなわちお嬢さんの御母堂の名が「俗名吉野
私はちらりと横を見た。黒装束に紅い紐を首に巻いた弟君、生まれた日に臍の緒で窒息して死んだと言う少年は、吉野家を出た辺りから家族と一緒に付いて来ていた。自分の墓を見ると言うのがどの様な気持ちなのか、私にはわからない。だが、親しげに地蔵尊の姿に話しかけるお嬢さんを見る目は、どこか優しかった。
静かに手を合わせ、そうして先生宅の墓参りは終わる。境涼太郎です。春より離れを使わせていただいて居ります。そう報告した。空はどこまでも明るく、青く、遠くに大きな入道雲が湧いて見えて居た。
「さて、帰るか。あれも早く家に着きたかろう」
「そうね。あの子もきっとそうよ」
お嬢さんの弟君には俗名が無く、それでもおふたりは親しみを込めてあの子と呼ばれている様だった。呼ばれる度に横を歩く弟君は、顔を綻ばせていた。
その彼ならば、今ここに居ますよ、と声を何度か掛けたくなった。だが、その度に本人がシッと指を口の前に立てる。まあ、伝えぬ方が良いのだろう。見えぬ人間があの世と深く交わることは、あまり良い結果を生むとも思えない。だから私は、弟君が普段から家中や街中をぶらついていることも、反対に御母堂の姿は墓にもどこにも見当たらないことも、おふたりには言わずに置いた。
道々、背の高い
吉野家の敷居を跨ごうとした瞬間に、袖をぐいと掴まれた。弟君だ。
「後で少し用が在るから、離れで待っているよ」
また難題か、と思った。その時は丁度、先生に分厚い文献を精読して概略を書いておくよう言い付けられていたから、親子揃ってよくよく書生使いが荒い、と思う。お嬢さんたちに奇妙に思われぬ様、少し嫌な顔をして軽く頷いてだけ置いた。
風鈴の音を聞きながら、おときさんが茹でてくれた
もし本当に御母堂がこの家に帰って居るのなら(私の目に見えぬだけで、実は付いて来られているということも有り得る)、さぞかし無口な男が増えた物だと思われたろう。
こんな日だ。おふたりにはおふたりの、ふたりきりで話したいこともあろう、と私は食事が終わると席を辞した。そうして渡り廊下を通り、離れの戸に手を掛けた途端、ぞっと体温が下がるような、嫌な感じがした。鍵を開け、そっと開ける。中を見る。何も居ない。だが、嫌な気配だけがわやわやと
「やあ、待っていたよ」
弟君が、ひとりで正座して居た。そこには何も無い、誰も居ないが、ただただ嫌な重い空気が垂れ込めて居た。
「一寸待ってくれ。これは何だ。君は何を持って来た」
「連れて来たのさ。吉野のご先祖様たちだよ」
私は頭を抱えた。
「何も見えないが」
「瘴気が強すぎるからね。君の目が見ないことにして居るんだろう。墓場にも沢山こんなものが居たけど、あまりに気配が濃すぎると、人は何も無かったかの様に処理してしまうらしい。とても面白かったよ」
弟君はにこにこと笑って居る。
「こんな物を連れて来て、皆には大丈夫なのか」
「これから大丈夫な様にする」
「これからって、おい、私にはどうなのだ」
「君はまあ、慣れて居るだろうし、頑丈だし、どうにかなるさ」
「おい!」
弟君は私の声をまるで黙殺し、懐からするりと巻物を取り出した。私に投げて寄越す。
「台帳?」
そこには、ずらりと人の名前が並んで居る。男も女も居る。全て吉野姓だ。
「あちらにいるとね、こうやって魂が溶け合って、何が何だかわからなくなってしまう。そこで、ひとりひとり切り離して、上手く人の形に戻ってもらおうという算段さ」
「この台帳を使うのか」
「そう。あの墓に代々納められた人々の名簿だよ。君はそこに在る名前を読み上げてくれれば良い。この世の者に呼ばれれば、魂はかたちを取り戻す」
そういう仕組みなのか。不思議なものだ。
「それで、何の良いことがある」
「母様が帰って来る」
弟君は、真っ直ぐな目でこちらを見ていた。
「全体、父様はいつも母様のことをあれとしか言わないからね。だから、母様は毎年ここには来られて居ないんだ。でも、今年は君が居て、こちらで名前を呼んでくれるだろう? そしたら母様は姿を取り戻せる」
それで、弥生にも会わせてあげられるという訳だよ。少年は真面目な顔で言い、そう言われると私の方も応えない訳にはいかなくなってしまった。
「しかし、それなら御母堂の名前だけ呼べば良い物では」
「そうなんだけれど、これを全体的に散らさないと、生きてる吉野の人間まで引き込んでしまう。それに、折角引き離しても直ぐに元に戻りそうだ。ついでと思って頼むよ」
そんな物をよくもまあ連れて来られたなと思うが、仕方が無い。彼との間には奇妙な貸し借りが積み重なり、今やどちらがどの程度の量なのか判別が付かなくなって居る。そんな形では在るが、義理は在る。
「名前を呼べば良いのだな。ええ、吉野
気配が歪み、書物でしか見たことも無い程古い、武家風の服装の夫婦が現れた。二人は私にぺこりと頭を下げると、その辺りに正座する。先生たちに似て居りはしないかと顔を覗き込むが、男の方は髭の所為で良くわからない。女の方は、佇まいが少しだけお嬢さんに似ている様な気もするが、こちらも判然としない。
「江戸の街が出来た頃に、こちらに住み着いた最初のご先祖様だね」
吉野家は武家から医者になり、代々本草学を学んでいた家なのだと言う。その端緒と言うところだろう。
「次、吉野
再び二人の姿が現れ座する。それからは繰り返しだ。三代目からはもう町医者風の格好になって居ただとか、七代目の奥方は目が醒める程の美女で、その辺りからお嬢さんによく似た目の子孫が出てきたようだとか、その位だろうか。私は兎も角機械的に名前を読み上げ、広くも無い部屋は人の姿で一杯になって行った。
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お父様と少しだけお母様の話をしようかと思ったのに、お父様ったら、少し疲れたから昼寝をするだなんて言い出して。いつもいつもそうだから、私は自分の母親のことを余り知らないのです。でも、若くして、それも一番幸せな瞬間に大事な方を亡くされたお父様の悲しみは未だ癒えては居ないのかも知れない、と思うと責める訳にはいきません。
おときさんがいらしたとは言え、再婚もせずに男手ひとつで私を育ててくれて、学校にもキチンと通わせて下さったのだから、本当に有難いこと。私は大概なお転婆であるとは自負して居りますが、そこの感謝だけは忘れない様にしなければなりません。
汗を拭いながらゆっくりとお茶のお代わりを飲んでいると、涼太郎さんが座っていた座布団の横に、麻の葉文様の手拭いが落ちているのを見つけました。忘れ物です。今日は暑いから、お使いになる機会も多いことでしょう。
私は立ち上がり、おときさんに声を掛けると、それを持って庭から回って離れの方に向かいました。夕飯の時に渡しても良かったのだけれど、何となく今は人恋しい気分でした。
この間草刈りをしたばかりなのに、庭の草は存分に伸び放題です。お父様が、少し荒れているくらいの方が生き物がやって来る、なんて仰って、余り植木屋さんを呼ばないせい。
それはそれで良いのですけど、荒れ放題も寂しいので、母屋と離れの間辺りに少し場所を作って貰って私の庭をこさえ、そこだけは多少まめに手入れすることに致しました。今は背高の向日葵が少し上を向いて咲いて居ります。さくさくと足音を立てながら、私は離れに近付きました。
何か、声が聞こえます。ひとつは涼太郎さんの物ですが、ざわざわと、人混みの中の音が小さくなったような響きが在る様でした。
「次、そのご子息、三郎殿」
誰かの名前を呼んでいる? ひょいと覗いてみると、そこには涼太郎さんしかいらっしゃらないのです。でも、確かにざわざわと、誰かの声が。
「なあ。もう私はそろそろ喉が疲れて来たんだが」
涼太郎さんはごほんと咳払いし、誰も居ない空間に向けてぽつりと言います。
「それはわかっては居るが、少し休ませ……」
その時です。ぞわ、となんだかとても嫌な気配がしました。侘助の気配に似ているけれど、あれを何倍も濃く、何倍も体に悪くしたよう。何か悪い物が私に気付いて、こちらを向いたのです。
私は立ち竦みます。涼太郎さんが私に気づいて何か言いました。それから、裸足のままで庭に飛び出し、こちらに向けて駆けて来るのが見えました。
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私は心臓が縮み上がるような気持ちを覚えて居た。まだ何代か分の人は残って居り、悪い気配は消えて居ない。そこに、何故お嬢さんがいらしたのか。失敗だった。人払いをすべきだった。弟君すらしまった、と言う顔で居た。
私は急ぎお嬢さんの元へ向かった。裸足の足が、草と石に傷つけられるが、そんなことは問題では無い。
あの魂の塊は、恐らく新しい吉野家の人間を見つけ、取り込もうと狙って居るのだろう。守らねばならない。守らねばならないのだ。何としてでも。
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涼太郎さんは、急ぎ私を抱き竦めるように覆い被さりました。あの嫌な物から守ってくれるのだ、と勘でわかります。でも、涼太郎さんは? 御本人はどうされるのでしょう。
「止めろ。私は吉野の人間では無いし、ここには吉野の者は居ない!」
悲鳴に似た声が、苦痛に塗れ、尾を引きました。何か、良くないことが起こって居るのです。私はそれでも何も出来ず、ただ震えて居りました。
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私は、己の魂を引っ掻き回されるような激痛と戦って居た。自分が希薄になるような感覚。こんな物を、お嬢さんに味わわせる訳には行かない、その一念で、ただ私は立って居た。口を魚のようにぱくぱくと開け、ただ腕の中のお嬢さんと、目の端に映る向日葵の黄色だけが、私をここに止めてくれる道標だった。
「次……次」
悲鳴を上げそうになりながらも、私はひとつの賭けに出た。
「吉野清殿!!」
ざ、と気配が少し小さくなった。私の苦痛も少し和らぐ。私とお嬢さんは薄目を開けた。小柄な、お嬢さんによく似た横顔の女性が現れ、私たちを守ってでもくれるように大きく手を広げた。
「来い」
弟君の声が響いた。
「僕に従え」
何らかの力に満ちたその声に、気配はゆるゆると頭を垂れた。刺し貫かれた刃が抜かれるような感覚がして、私の苦痛は漸く終わりを告げた。息を吐く。お嬢さんも腕の中で無事で居る様だった。
「済まなかった。こいつは僕がしっかりと墓に戻してくる」
弟君がそう言うと、瞬く間に辺り一面が晴れた様に成り、不穏な物は消え去った。
私はお嬢さんを放して膝をつくと、荒い呼吸を繰り返す。
「大丈夫? 大丈夫なの、ねえ!」
涙目のお嬢さんが私に飛び付いて来た。
「名前を」
力を振り絞る様にして、私は答えた。
「私の名前を、呼んでくれませんか、お嬢さん」
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涼太郎さんは突然奇妙なことを言われましたが、先の現象の方が余程奇妙です。涼太郎さんが私の恩人で在ることはようくわかって居りましたから、私は頷き、励ます様に呼び掛けました。
「涼太郎さん、境涼太郎さん」
涼太郎さんは少し咳き込み、それから立ち上がります。真っ白な顔に、少し血色が戻った様に見えました。そして首を振ると、しゃがんでいた私に向けて手を差し出しました。
「有難うございます。もう大丈夫です」
私はその手を取ります。しっかりと力の籠った手でした。言葉通り平気の様です。良かった。
涼太郎さんの直ぐ横、誰も居ない筈の空間から、何かふわりと温かいものが私の頬を撫でた様な気が致しました。私は、はたと先ほど涼太郎さんが私のお母様の名前を呼んでいたことを思い出します。
「……もしかして、そこにいらっしゃるの?」
誰も、何も答えませんでしたが、私にはわかりました。
お母様がいらっしゃるのです。お母様が、帰って来て下さったのです。
私は、今度こそ安堵と嬉しさと、それから少し悲しい気持ちになって、ぼろぼろと泣いてしまいました。
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「本当に今回は、僕が悪かった」
夜になり、再び現れた弟君は、珍しく殊勝な態度で頭を下げた。
「浮かれていたんだ。母様に会えるって」
「場合によっては許してやらないでもないが、私は無事なのか?」
酷い苦しみを味わったものだが、あれで生命などすり減っていたら何とも腹立たしい。
「少し養生すればどうにでもなるよ。何なら、精の付く食物でも持ってくる」
「君の贈り物を食べる気は余りしないな……
「本当に反省してるってば」
御先祖たちは、やはり弟君が連れて墓へと帰った。御母堂だけが今、この家に残っているが、彼女ももう直に連れ帰るのだと言う。私にだけ賑やかに見えて居た家の中は、急にがらんとした様だ。
「そう言えば、私が最初あれに食われなかったのはまあ、吉野の者で無いからだとして、君は何故無事だったろうか」
「僕には元々名前が付いていないから、そう言う意味では『吉野』では無いし、呼んだのは竿石の方に埋葬された者の魂だからね。僕とは所属が違うんだ」
私は弟君をじっと見た。名が無いということの意味を考える。それは何からも自由と言うことでも在り……どこにも居場所が無いということでも在るのだろう。
(境……涼太郎)
私は、お嬢さんが呼んでくれた己の名を、内心で唱えた。あまり家族と反りの良くなかった私は、家への所属意識などとうに無くなって居たが、それでも、親が付けた名は私を構成し定義する重要な物だ。事実、お嬢さんの呼び掛けは私をここに引き戻してくれた。
「さて、そろそろ行こう。道々母様と話をするんだ。多分、今は父様のところにいらっしゃるだろう」
弟君は、とても嬉しそうな顔で立ち上がる。
「僕、それがずっと、本当にしたかったんだ。有難う、涼太郎君」
まだ少し気分は悪かったが、まあ、そうだな。許してやらないでも無いか、という気持ちで私は頷いた。
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「まあまあ、どれだけお腹が空いていらっしゃったの」
おときさんが目を丸くする。私はその後、夜食を求めに台所を訪れ、冷や飯を鮭茶漬けにして貰った。それは良いのだが、先の攻撃の具合か矢鱈と腹が減る。結局三杯もお代わりをしてしまった。お嬢さんがそこに通りかかり、にこりと笑いかけた。
「あら、良いわね。私も何かお腹に入れたいわ」
「ご飯は切らしてしまいましたから、お煎餅位ですね」
「それで良いわ。私にもお茶を淹れて下さる?」
はいはい、全く良く食べるお子達ですこと。おときさんは手際良く準備を行う。
「今日のこと、お礼をしっかり言っていなかったわ。有難う、涼太郎さん」
お嬢さんが私を見る。私はそこに、あの七代目の御先祖の目と、御母堂のすらりとした鼻筋を見て取った。長い時を経て、長い繋がりの末にここに居る方だ。私はそれをとても尊いと感じた。
「いいえ、お嬢さんがご無事で何よりです」
「お母様はまだこのお家に居て?」
「もうお帰りになった様ですね」
「そう……」
お嬢さんは少しはにかんだ様に笑った。
「多分だけれど、さっき、頭を撫でて貰ったわ」
私は頷く。
「あの子も帰って来て居るのかしら」
「………」
弟君には、家族には自分のことは話さない様口止めをされて居る。湿っぽくなるのが嫌なんだ、とのことだ。
「いつか会いたいわ」
この声を、弟君に聞かせてやりたいな、と思った。それとも照れて逃げ出すだろうか。
「私、侘助に、お母様に、本当なら会えなかった筈なのに、また会うことが出来たの。全部涼太郎さんのお陰。有難う」
今日に関しては、それでお嬢さんを危険に晒したのだ。悔やんでも悔やみきれなかったが、それでもその言葉には少し救われた。
「私も、名前を呼んで頂けて助かりました」
「あれはどういう意味だったの?」
ううん、と私は首を捻る。初めから説明すると長くなり、弟君のことを抜かしては語れない。
「お呪い、のような物です」
「そうなの。じゃあ、私が何か危なくなったら、私の名前を呼んでね。きっとよ」
お嬢さんは、花の様に笑った。私は夜にぱっと太陽が現れた様に、華やかで、暖かく、何よりも明るい気持ちになった。
(お嬢さんは私の向日葵だ)
私も笑みを返す。
(何が在っても、この方を道標に、ここに帰ろう)
「おお、揃ってるね。どうだい、庭で花火でもしないか」
先生が書斎からやって来る。先生は奥様に会えたろうか。どこかいつもよりも幸せそうに映るのは、気のせいだろうか。お嬢さんがぱっと立ち上がった。私もそれに続く。おときさんがお茶と菓子を持って現れた。
縁側で、夏の一番暑い日が闇に沈んで行く。私はそこに焦げ跡を残すべく、線香花火にゆっくりと火を付けた。
小さな、炎の花が咲いた。
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