平坂さんと鬼灯の話

 あの方と初めてお会いしたのは、丁度鬼灯ほおずき市の日のことでしたねえ。露店の方に同時に話し掛けてしまって、お互い譲ろうとするもんですから、ふたりで思わず笑ってしまって。じっとりと汗がにじむような、暑く成り立ての頃でしたよ。


 それから、夜にお座敷に出たら、あの鬼灯の方がいらっしゃるもんですから、あたし、何だか不思議にご縁を感じて。白いシャツを着た、大人しそうな、如何にも学生さん風の眼鏡の方。お酒を呑めるようになってすぐのお年だそうで、今日は周りの悪い大人の方に無理に連れてこられたんです。そんなことを仰ってましたっけね。


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 蝉の声が響く中、ぶつからぬ様、人の影の合間を縫って歩く。参道の両脇には、大層な数の紅い実を付けた鬼灯の鉢が並べられている。ひとたび参れば四万六千日分の功徳のあると言う今日の浅草寺境内は、まるで芋を洗うが如しだ。


「……本当に来る羽目になるとは思わなかった」


 人混みから頭ひとつ覗かせた背高な友人は、ひょいひょいと通る人波を躱しながら足早に歩いていく。


「何を言ってる。お前が浅草の鬼灯市を見たいと言ったんだろ」

「それもそうだが」


 人混みに酔いそうになりながら進む。東京の街にも少しは慣れた心算つもりで居るが、こうしてどっと人でごった返す場にはまだ心的抵抗が在る。殊に、この場はずっと同じ物が同じようにずらずらと並び、どれをどう買って良いものやら、全く判断が付かない。

 私を引っ張ってきた奥村は、にやりと笑った。私と同じく着流し姿だが、欧風の顔には今ひとつ似合っていない。


「ははあ、お前、さては弥生のお嬢さんと遊びに来たかったのだろう。そうだな?」

「そうだよ」


 こういう時に否定をしては余計に揶揄われるということを、私はこの数ヶ月で学んだ。人は日々進化し、前に進む。


「全く羨ましい奴。土産にひと鉢買って行かなくて良いのか?」

「……どの店のどの鉢を買えば良いのか全くわからん」

「俺もわからんよ。適当にその辺りで選んでしまえば良い。あそこはどうだ」


 丁度客の途切れた露店を指差す。老人がひとり、眠たそうに店番をして居た。


「……あそこは、駄目だ」


 私は目を細める。老人の額には、角が二本生えて見える。


「何だ、また何か見えるのか」

「肝を冷やしたいのなら止めないが、他を当たった方が難が少ないぞ」

「難儀だな、お前も」


 なら、あっちはどうだ、と奥村がさらに先を指した時だ。角の老人の前に、ひとりの男性が立った。夏向きの洋装。細面で、銀縁の眼鏡を掛けて居る。


「……平坂さん?」

「おい境、先に行っちまうぞ」


 はっとそちらを向くと、どやどやと団体が反対側から道をやって来る。私は急いで奥村を追った。ちらりと一度振り向くと、平坂さん……私の師事する先生の助手は、あの露店で鬼灯の鉢を購入したようであった。


 大事無いだろうか。あんな怪しげなところで買い物をして。今度、何か身の回りに不審は無いか確かめた方が良いだろう。

 私は奥村のひょいと飛び出した頭を目印に彼に追い付き、適当な露店で何の変哲も無い鬼灯をひと鉢、無事手に入れた。


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「まあまあ、綺麗だこと」


 お嬢さんは私の土産に心から喜んでくれた様だった。


「いや、これは浅草まで足を伸ばした甲斐があったというものです。なあ、境」

「何故お前が得意気なんだ」


 どういう訳か奥村まで吉野家に着いて来た。品行は春から多少は改めて、学業にも身を入れることにはした様だが、どうも軽薄なところが在るのは否めない男だ。こちらも気持ちが浮つきがちなお嬢さんに悪い影響を与えないか甚だ心配である。


「私、鬼灯を鳴らすの大好きよ」

「そうやって弥生がぶちぶちと摘むから、家の鉢はすぐ葉ばかりになってしまうのだよなあ」

「だって」


 お嬢さんは縁側に腰掛けた先生に膨れて見せる。私は先生に、何となく先の出来事を話してみた。角の露店の件は伏せて。


「そういえば先生、平坂さんも市にいらしていたようでしたよ」

「ほう」

「人が多くて挨拶は出来ませんでしたが」

「そうか、平坂君が……」


 おや。先生が少しばかり顔を曇らせて居る。何かあったろうか。


「そうそう、弥生お嬢さん。鬼灯と言うのはね、薬にもなるんですよ」


 そうこうしている間に、奥村はお嬢さんと親し気に話している。私は少しばかり気を揉んだが。


「そうなの? どんなお薬かしら」

堕胎だたいです」

「……そう……」


 だが、まあ、あの話しぶりならば、お嬢さんが変に引っ掛かることも無かろう。私はほっと息を吐いた。


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「なあ、頼むからお嬢さんにはおかしなちょっかいを出さないでくれ」


 奥村が座を辞した後、私は駅まで送ると称して彼を引っ張って行った。どうしても一言、それだけは言って置きたかったのだ。


「誰が出すかよ」


 ガス燈の明かりに照らされた奥村はしかし、磊落に笑い飛ばす。


「……妹を少し、思い出しただけだ。良い子だとは思うが、俺の好みじゃあないさ」

「そうか」


 奥村は、半年ほど前に事故で若い妹君を亡くしている。


「大体、横取りしたんじゃあお前に仁義が立たん」

「そう言う心算ではない」

「精々勉強して出世して、迎えに行ってやるといいさ。それ位にはいい年の頃になってるだろうよ。それとも、今想いの丈を言っちまった方がいいか」

「だから」


 ああそうだ、と奥村は不意に話題を変えた。またどうにも落ち着かない奴である。


「さっきお前が気にしていた知り合い、平坂氏だったか。帰り際にまた見かけたぜ」

「浅草で?」

「ああ。花街の方に向かっていた。鬼灯の鉢を持って」

「花街」


 平坂さんは、年上な分私よりは余程世慣れて余裕はあるが、それでもごく真面目で研究熱心な人だ。いずれ何年かすれば助教授にでもなるだろう、とそう言われていた。それが、ひとりで浅草の花街。


「意外だな」

「そうだろう。それで何となく覚えていた。場所が場所だから、先生には言わないで置いたぞ。偉かろう」

「その気遣いを何故お嬢さんには向けなかった」


 あれはちと失敗だったな! 言葉とは裏腹に愉快気に笑う。まあ、こういうところが憎めぬ人間ではある。


「そう言えば、お前、お嬢さんは外れるならどんな女性が好みなんだ」

「俺か? そりゃあ年上の後家さんに決まってるだろう。しっとりした風情が良い」

「……拘るな」


 私たちは月の無い空の下、そんな下らぬことを話しながら、駅へと歩いて行った。


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 あの方の先輩が浅草がお好きで、ことにあたしの姐さんと馴染だったものですから、あの方とはちょくちょくお会い致しました。三回だか四回くらい目に顔を合わせた時、あれは冬のことでしたでしょうか。なんだかのきっかけで、寒い廊下でふたりきりになって。


「本当は、こういう場はそれほど好きなわけではないんだ」


 だなんて仰る。まあ、真面目そうな学生さんでしたから、悪い遊びをする前にお勉強する方が良いのかしらねえ、なんて思っていましたところ。


「でも、あなたの唄を聴くのは好きです」


 あれは精一杯の恋の言葉であったのだと、後から照れてらした。その時はあたしは何だかよくわからなくて、ぽかんとしておりましたね。


 ……もう一寸ばかり早く、気付ければ良かった物を。


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 数日後。研究室の一画で、平坂さんは御自分で握ったと思しき握り飯を食べながら新聞を広げて居た。


「どうも経済が良く無いね」


 独り言のように呟いてから、私の方を見る。話し掛けられて居たらしい。


「米がまた値上がりだそうだよ」

「そう……そうですか」


 有難いことに、先生のお宅で世話になって居る身では、直接にはそう言った世の流れの影響を感じずに済んでいる。おときさんやアパート暮らしの友人が時折愚痴を溢す程度だろうか。とは言え、全くの独り身の平坂さんには死活問題で在ろう。

 だが、私が生返事を返したのは、そこら辺りの話題への興味の薄さ故では無かった。


「論文の方は如何です」

「まあ、半々かな」


 専門は蜘蛛くもだと言う平坂さんは、このところ大きな論文を物しようと日夜文献と実験に取り組んでいた。


「……時に平坂さん。最近何か、身の回りで妙なことが在ったりはしませんか」

「妙なこと?」

「まあ、物音だとか、気配だとか、或いは健康に害が在ったりだとか」

「さあねえ、僕は至って元気だが」


 それならば良いのですが、と私はそこで話題を打ち切った。


「何だい、僕に何か憑いてでもいるとか、そういう話じゃ無いだろうね」


 平坂さんは、私の目に付いては話の種程度にご存知の様だった。


「悪いが僕は、科学主義でね。霊の類は信じんよ。あれは神経の具合だろう」

「それなら良いのです」


 私は唸る様にそう言って、話を切り上げた。


 憑いているどころの話では無い。平坂さんの後ろにはぴたりと、女の姿が見える。洗い髪で、白い寝間着姿。平坂さんの方をじっと見つめる目には、何らかの深い感情が篭っている様に見えた。それが何かはわからない。情か、それとも、恨みか。


「そう言えば平坂さん、この間浅草寺にいらしてましたね。見かけたが声は掛けられなかった」

「浅草寺」

「四万六千日の縁日ですよ」

「……いや。僕は行かない」


 私は不審に思った。確かにあれは平坂さんであったと思うが。


「見間違いでしょうか」

「そうだろう」


 平坂さんは一旦畳み掛けた新聞を再び広げ直す。


「僕は、浅草へは行かないんだ」


 ……彼は、嘘を吐いている。直感でそう感じたが、しつこく追及するのも妙な話だ。仕方が無いのでこれだけ言って置いた。


「何かあれば塩でも撒いて下さいね」


 平坂さんは、私の心配を軽く笑い飛ばした。背後の女は私の方をちらりと見、しかし何も言わなかった。


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「平坂さん? ええ、時々お家にはいらっしゃるわ。私が子供の頃からだから、もう十年くらい」

「弥生さん、昔は平坂さんのお嫁さんになるってよく仰ってましたっけねえ」


 豆の筋を剥くのを手伝いながら、軽い気持ちで話を向けたところ、台所の方から思わぬ爆弾が降ってきた。


「もう、止めてよ。おときさんたら恥ずかしいわ」


 お嬢さんは頭を横に振る。その様子からすると、今ではまるで残っては居ない想いの様であったが、私には少々刺激が強かった。


「よく遊んで下さったから、懐いていたの。それだけよ」

「そうですか」


 出来る限り感情を込めずに返事をした。何か妙に思われて居なければ良いが。


「学者さんって感じの方よね。多分、ご研究の他にはあまり興味を持たれてないのだわ。お父様と似てらっしゃる」

「確かに、その様ですね」


 研究室ではよく、ふたりの議論が活発に交わされている。私には未だ口を挟むことが出来ない階梯の話だ。


「ああ、これはお嫁になんぞ行ったら絶対に苦労をするわっていつだかに思ったら、なんだかもういいかなって思ってしまったのね。小学校を出た位の頃よ」

「現実主義でいらっしゃる」

「だって、おままごとは止める年でしょう。涼太郎さんはまた少し違う風だけど、でも近いところがお在りだから、お気を付けてね」


 何にどう気を付けるのかは良くわからなかったが、留意しますと答えて置いた。……先日からどうも、登美子嬢に奥村に、私とお嬢さんとの関係を勘繰られることが多く、お陰で少し妙な意識をしてしまっているな、と思った。


「弥生さん、お手が止まってますよ」

「はあい」


 お嬢さんは豆の方に気を戻す。


「平坂さんは、ええと、一度もご結婚などはされては……」


 お嬢さんの手が再び止まった。目がきらりと光った様な気がした。


「何か見えたのね? そうでしょう?」

「……いえ、その」

「聞かせて欲しいわ。後で、おときさんには内緒で」


 ひそひそと小声で、全身を興味で一杯にした様子でお嬢さんは言う。こうなればもう、私に拒否する権限など無い。


「弥生さん」

「はい、はあい。ちゃんとやっていてよ!」


 お嬢さんは猛然と豆に立ち向かって行った。




「でも、平坂さん、ご結婚されたってお話は聞いたことは無いわ」


 夕飯の手伝いを終え、場所を居間に移して、私たちは話を続けていた。


「何度かお父様がご縁を紹介したりはしていらしたみたいだけど、どうもあれは駄目だねって困ってらしたもの」

「しかし、ご家族という感じでは無さそうでした」


 どこかじっとりしたような視線を思い出す。あれは、男女の縁に纏わる物だろう。


「恋仲の方が亡くなって、操を立てていらっしゃるのかしら」


 お嬢さんのロマンチック癖が始まりかける。


「きっとそうよね。毎年鬼灯市に行った仲で、そして今でも想い出の場所にひとりで佇んでいらっしゃるのだわ」

「……それが、どうも複雑そうなところで。あれは単純に恋しいという顔でも無かった」

「なら、お別れした後に亡くされたとかかしら? それなら何となく話は通じてよ」

「そうですね……」


 勝手な憶測を話し合うのも、何だか罪悪感がある。


「先生なら何かご存知だろうか」

「何だか今回は熱心ね、涼太郎さん。普段はもう少し、巻き込まれてから動いてらっしゃるのに」

「……少し、嫌な予感がして。明確に憑かれているようだったし、心配です」

「優しいのね」

「……止して下さい」


 そんなのでは無いのですよ、お嬢さん。私は、自分の納得と後悔のしたくなさの為に動いているのだ。平坂さんの為を思っている訳じゃない。そう感じたが、上手く説明が出来なかった。ただ、頭を軽く掻いた。


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 あたしは唄に関してばかりは少しばかり得意で、それで、この喉を気に入って下さって、色々とお金を出していただける旦那が付いたんです。有難いことですよ。それ程厳しい方では在りませんでしたが、それでもまあ、礼儀として一途でいよう、そういうことに決めた矢先でした。


 あの方に、もう一度、今度はもっとわかり易い言葉で想いを伝えられたって訳です。


 それで、あたしは……靡いてしまったんですね。愚かしいことと思っては居りましたが、つい。しかも、こちらが遊んであげる心算が、いつの間にかグチャグチャにのめり込んでいた。旦那の前で唄いながらも、いつもあの方のことをずっと考えて居るように成りました。


 それが、皮肉なもんです。あたしの唄には益々艶が増しただなんて褒められて、少しばかり売れっ子になって。


 あたし、あの方の肩に寄り掛かって、少しの間微睡んでいる、そんな時間が何より大事なだけだったのに。


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 縁日の終わった浅草寺の境内は、それでもそこそこの人出があった。あちこちであの老人について聞くも、満足のいく答えは掴めない。日は暮れかけ、私は精神肉体共に疲れ、そこらに寄り掛かっては茜色が薄れ暗色に染まりゆく空を見ていた。


 ふと、ぼんやりと橙色に揺れる灯が目の端に過ぎった。

 奇妙な形の提灯を下げた背の低い人影が、ぱたぱたと私の傍を通り過ぎて行った。ちらりと見えたその首元には、紅い紐が巻かれていたように見えた。


 お嬢さんの、弟君か。


 私はその後を追う。背中は黄昏の中にいつしか見失って居たが、代わりに幾つもの橙色の灯りを持った影があちこちから集まり、行列とも集団とも付かぬ、曖昧な一群となって居た。


 その中に、確かにあの老人の姿が在った。


「御老人。あなたを探していた。聞きたいことがあります」


 顎髭を伸ばした好々爺風の、だが額から角を生やした老人は、少し驚いた様子だった。


「なんだね、灯りも持たん人間が、よくもまあここに来られたものだ」

「ここは、特別な場所なのですか」


 辺りを見回す。暗い。周りは何も見えない。先ほどの時間から、日が落ちるのは流石に早すぎる。だが、不思議に真っ暗な様子でも無い。深い宵闇とでも言うべき、不思議な空間がそこには在った。


「まあ、境目から少しあちらの側に寄ったというところか。まだ帰れる。早よ戻りなさい」

「先日、あなたの店で鬼灯を買った者が居ります。彼はどうやら死者の類に取り憑かれて居る。あの鉢はどう言う物なのですか。それを教えて下さい」


 老人は目を細めた。


「ははあ、さてはあの眼鏡の兄さんかね」

「そうです」

「何、会いたい人が居るそうだから、会わせてやろうと売ったのよ。あの鬼灯は目印だ。ほれ、こんな風に、彼岸から此岸まで照らしてくれる」


 提灯を差し上げる。よく見るとそれは、大きな鬼灯の袋の形をしていた。


「あなた方は、彼岸の者ですか」

「いいや、二つの岸の間を行き来しておる。言わば風来坊さね」


 ぞろぞろと気ままに動く人々の中に、また弟君の姿が見えたような気がした。彼も、そうなのだろうか。


「想い合っとる二人に、野暮な差し出口はほどほどにの」

「……それだけならば、良いのですが」

「儂は行くぞ。それじゃあな」


 橙色の灯りが、闇の中に遠ざかる。私は暫くその光景を眺め、そして再び来た方角へと戻って行った。どこをどう歩いたか、気がつけばそこは、薄闇に包まれた境内の片隅だった。


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「平坂さんは、恋をされたことがお在りですか」


 我ながら妙な切り出し方になった。平坂さんも変な顔をする。後ろの女だけが、どこか警戒をするような顔に成った。


「何だい突然。女学生みたいなことを言い出して」

「……お嬢さんが心配されてましたよ。平坂さんにはどうもその年で女縁がないようだと」


 妙なだしに使ってしまった、と内心でお嬢さんに謝りながら、研究室の机の差し向かいに座って居る平坂さんを見つめる。窓の外からは、引っ切り無しに蝉の声。平坂さんの論文は、どうも一進一退らしい。


「はは、まあ、無い訳では無かったが、どうも取り逃がしてしまったかな」


 視線が少し遠くなる。女が、切なげに目を細めた。


「君は? 恋をしているかい」

「わ、私の話は関係の無いことです。逸らさないで頂きたい」

「まあ、ひとつ言っておくのは、玄人筋は止めて置けと言うことかな」


 平坂さんはそのまま、古傷の痛みに軽く触れる様な顔で、私に告げた。


「痛い目を見るよ」

「平坂さんは……」

「まあ、昔のことだよ。いや、いい女だった。情があって、唄が得意でね。だが、ややこしいんだ、あの世界は。僕なんぞが首を突っ込むべきじゃなかった」


 それから、彼は話を逸らすように、さて、次の時間はマウスを用意しないと、等と態とらしく立ち上がる。


 女は、悲しげな顔をして居た。その様子から察する。あれは、先の話の玄人筋の女なのだろう。芸者か何かだろうが……一寸ばかり不思議だ。普通、そういう女は精一杯に着飾って出てくるものでは無いのだろうか?


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 お嬢さんは、私の意見に諸手を挙げて賛同した。


「そうよ、私だったら一番のお洒落で出てきたいわ。だって好いた方の前なんだから」

「まあ、彼には見えてはいない様ですが」

「それでも、気持ちの問題よ。別に、恐ろしげな格好で出なくてはならないって決まりは無いのでしょう?」


 はたはたと団扇うちわで襟首に風を送り込みながら、お嬢さんは言う。湯上がりの浴衣姿だ。先生が不在中や入浴されている間を見計らい、我々は平坂さん対策会議を続けていた。


「まあ、その辺りは色々ですが……恨みを持った者は、恐ろしい姿になることは多い様ですね」


 と言って、実際にそれほど強い怨霊に遭ったことなど殆ど無いのだが。あの女とて、美しいと呼べる姿ではある訳だ。


「それにしても、あの平坂さんがそんなことに成ってたなんて、私ちっとも知らなかった」


 幼心とは言え、淡い想いを抱いていた相手だ。芸者と何やら話がこじれていた等という話は衝撃だったのだろう。お嬢さんは少し憂いを込めてまつ毛を伏せる。


「男女のことなんぞ、少し離れればわからない物です」

「まあ、涼太郎さんはその辺りの話にお詳しいの?」

「……いえ、その」


 見栄を張ってしまった。頭を掻く。


「聞きかじりです。私自身は、何も」

「そうよねえ、まさかねえ。涼太郎さんだもの」


 お嬢さんは時折無邪気に私の肺腑を抉って来る。まるで容赦の無い解剖医のような方である。

 それから、ふと優しく微笑まれた。


「ずっとそのままでいらしてね」


 それはどういう意味でしょうか。聞き返そうとした時、先生が風呂から上がられる音がした。私たちは少し離れて、別のことをして居たような振りをする。別段悪いこと、後ろめたいことをして居た訳では無いのだが、どちらからとも無く私たちは、この手の話題を周囲には秘密にして居た。

 それは、囁くような甘い物では無く、子供同士の内緒話のような種の物では在ったけれど。

 私は、この秘密を何より大事にする心算だった。


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 旦那に全部ばれてしまったのは、それから後、寒い冬の日のことでした。

 一口に旦那と言っても色んな方がいらっしゃいますけれど、あたしについて下さったのは芸だけでなく色も求めて来る、そして、普段は寛大な振りでいらっしゃるけれど、実際にはそんなでも無い、そして怒ると大事になる、そういう方だとあたしはその時思い知りましたね。


 まあ、全部あたしが悪いんです。だから、あたしを折檻なりしてくれりゃらいいのに、旦那の怒りはあの方に向かいました。破落戸ごろつきを雇って、骨が折れるくらいにまで殴る蹴る、それは酷いことをした。


 雪の降る日、あの方は腕を吊って、割れた眼鏡を掛けて、それで、あたしにお別れを言いにいらっしゃいました。


 あたしは全身で謝りたい気持ちを抱えたまま、精一杯粋な女の振りをして、それを受け入れました。本当の自分を見せてしまったら、もうどうしようも無いことになってしまう。あたしもあの方も泣き崩れてしまう、そう思ったから。だから、案外にさっぱりとあたしたちは切れました。


 そこで終わってりゃ、まあ、笑い話にも成ったんですけどね。


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「未だ続くのか、話は」


 私は布団の上に上半身を起こし、蚊帳の向こうにぼんやりと見える女の身の上語りをずっと聞いていた。寝入り端の夢の淵に突然出てきた女だ。洗い髪に白い寝間着姿。平坂さんのところの、あの芸者崩れだ。


「それはここらで一度締め。後は道々お話します」


 縁側に正座し、深々と頭を下げる。


「平坂は、ようやく一緒に行ってくれると決心してくれました。でも、二人で行くには提灯がふたつ必要ですからね。こちらの鬼灯をお借りしたくて」

「これは、特に不思議も無い鉢のはずだが」

「不思議で無い鬼灯などこの世に在りますか。いえ、不思議の無い物など、この世に在りはしませんともさ」


 くっと赤い口の端を吊り上げて笑う。平坂さんは、この笑顔に魅せられた物だろうか。


「わかった。だが、私も一緒に途中まで……平坂さんのところまで行かせて欲しい。少し、話がしたい」

「引き止めるお心算でしょ。無駄ですよ」

「やってみなければわからない」


 私は蚊帳を潜った。髪を風に靡かせ、何ともぞっとするような風情の女が私を待っていた。細い三日月の光が、微かに繁った庭を照らす。


「行こう」


 下駄を履き、玄関先の鬼灯の袋をひとつ毟ると、私と女は寝間着のまま、並んで歩き出した。


「あたしはね、その時、子供が出来てたんです」


 早足で歩く私にも負けぬ速度で、それでもどうも落ち着いた優雅な足捌きで、女はすいすいと歩いた。歩きながら続きを語ってくれた。


「気が付いたのは、春を過ぎてからでしたよ。気分が悪くなって、もしかしたらって相談して、まあ、旦那の子なら、奥様もお在りの方でしたからややこしいことになる。あの方の子なら余計に大事だっていうんで」


 切れ長の目を伏せる。


「薬を飲みました。本当にお医者様の薬なんだか、わかったもんじゃ在りません。でも、それしか無かった。あたしにも何だか実感が無いまま、お腹の赤ん坊は萎びて消えてしまいました。可哀想にねえ、母親に愛される暇も無かったんですよ」


 この女は、自分の話を妙に他人事のように、乾いた口調で語る。それは、余り恵まれぬ人生の中から生まれた工夫ででも在ったろうか。ともあれ私には、相槌を打つことすら憚られた。


 世界は未だ夢の中で、歩くには遠い筈の距離も、すいすいと速く過ぎて行った。


「でもその所為であたし、身体を壊しまして。夏に入る頃にはもう寝付いてました。布団の中で、もうずっと、どうしてこんなことに成ったろう、口惜しい、あの方はどうしてらっしゃるか、何故あの時無理に逃げてくれなかったか、あたしもどうして逃げなかったか。ぐるぐるぐるぐる考えて。偶に血を吐いたりして、少しずつ弱って行って、で、結局死にました」


 お終い、と手を広げる。


「姐さんが市で鬼灯を買ってきてくれて、枕元に鉢を置いてくれた。でも、それが反対に辛くって。あの方との思い出も思い出しますし、あたしの罪も思い出します。ご存知? 鬼灯は、子供を堕ろす薬にも成るんだそうですよ」

「知っている」


 あの迂闊うかつな友人が、お嬢さんにそんなことを言っていた。手元でぼんやりと灯る明かりを見る。この実は、どこまでもこの世とあの世のあわいを照らす様だ。


「それでもね。あたし、その寝たきりの頃、幸せでも在ったんですよ」

「幸せ?」


 思わず聞き返していた。全てを失い、ただ死に行くだけの女が幸せとは。


「だって、あたしが芸者の立場を忘れて、ひとりの女としてずっと在ることが出来たの、あの時だけだったんです。一日あの方のことばかり考えていられたのは、あの時だけ。ただ、あの方だけが傍には居なかった」


 それで、その姿で出てきたのか。


 前方に、自分の物と同じ橙色の火が揺れて居る。平坂さんが立っている様だった。女は嬉しそうに駆け寄った。


「境君じゃ無いか」


 平坂さんはぼうっとした光に照らされて、御本人も何だかぼうっとした顔で私たちを迎えた。


「見送りに来てくれたのか」

「引き止めに参りました」


 ふ、と平坂さんは笑う。


「もう遅いさ」

「平坂さんは、その……この人のことは見えて居ないと思って居ました」


 そう言えば、私は彼女の名も知らない。


「美はるかい。昼間はね。夜の夢には毎晩出てきて話をした」

「美はるさん」

「それは源氏名ですよ。ふたりの時はいつもハルさんって、本当の名前を呼んで下さってたのに」


 平坂さんは照れた顔になる。当てられたとはこう言う気持ちだろうか。


「平坂さん、浅草には結局いらしてたんですね?」

「ああ、あの件は先生の方にも行って、大目玉を食らったからね。行かなかったと嘘を吐いたが……」


 鬼灯の鉢を下げて、美はるさんの位牌に線香でもあげに行ったのだろう。恐らく、そこで、既にあの世に渡っていた美はるさんは鬼灯の灯りを見つけ、こちらへと戻って来たのだ。


「本当に行かれる心算ですか。先生とお嬢さんも悲しみますよ」

「それは気掛かりだが、仕方ない」

「論文は、どうします。良いところでは無いのですか」

「そこなんだよなあ」


 平坂さんは口をへの字に曲げた。


「あれは君に遣るから、続きを書いてはくれないか」

「嫌ですよ。蜘蛛は犬の次に嫌いです」

「弱ったな……」


 美はるさんが、平坂さんの袖を引き、何事か言っている。平坂さんは困った顔でそれに答える。が、なんだか世界はぼやぼやと白く滲んで来た。夢が覚めつつあるらしい。

 もう少しで説得ができるのだが。私はせめて一言だけでも言い残そうと口を開いた。


「完成品を読ませて下さい、平坂さん。せめて、あなたの足跡を残してから行きましょう」


 周囲は急速に光の中に消え、私はハッと目を覚ました。侘助がきゅんきゅんと小さく鳴きながら、蚊帳の外で尾を振っている。時計を見れば、朝の六時だった。まだ大分早い。私は欠伸をする。


 しかし、あれがただの夢で無いのならば、平坂さんはどうしたろうか。


「お疲れ様」


 弟君の声がした。彼は彼で無遠慮にも、突然蚊帳の内側に現れる。


「大丈夫、彼らはあのまま帰ったよ」

「断念して貰えたか」


 ホッとする。あれは何と言うのか、時間差の心中とでも言うべき目論見は流れたらしい。


「思ったのだが、今回彼女をここに手引きしたのは、君か」

「そうだよ」


 弟君は、けろりとした顔で言う。


「あの人が居なくなったら、弥生は悲しむだろ? 何せ初恋の君なのだから」

「……私をそんなに便利に使われても困る」

「信頼しているんだよ」


 まあまあ、と諭す様な声で彼は手をひらひらと動かした。


「信頼?」

「君は僕らや色んな人を、唯居るというだけのことで撲滅したり、断罪しようとしたりはしないでしょう。きちんといつも話を聞いてくれている。得難い美徳だよ」

「……それは」


 それは、他の者を断罪などすれば、私が昔この目のことで人に受けた仕打ちと同じことを返すことになる。それだから、私は全てを受け流すようになったのだと、そう説明しようとした。


「優しいんだよね」

「それは少し違う……」

「そう思うけどね。僕は君のこと、わりかし好きだよ」


 こんな、尋常の幽霊なのかどうかも定かで無い少年に好かれてどうしろと言うのか。私はもそもそと寝癖を手櫛で梳いた。少年は、いつの間にか居なくなっていた。


 優しい、とは、お嬢さんにも前に言われた気がする。違うのだがなあ、とそう思った。


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 研究室の前に差し掛かると、先生の声が聞こえた。耳をそば立ててみると、平坂さんに何か話をしているようだ。どうやら、浅草に行った行かないの話らしい。悪いとは思ったが、少し聞かせて貰った。実際に平坂さんが無事生きていることに、ホッとした思いもあった。


「それじゃあ、あれは供養の為か」

「ええ。置屋の方と少し話した位で。それももう、今年で終わりにしようかと。顔見知りも少なくなりましたし」

「まあ、心配と言う程じゃあ無いが、君と浅草の取り合わせには少しヒヤッとしてね。妙な詮索をして悪かったよ」

「仕方ありませんよ。では、図書館の方に参りますので……おや」


 ドアが開いた。平坂さんが私の方を見る。昨日の晩のことはどういう扱いになって居るのかと思ったが……。


「ああ、境君か。そういや昨日、夢に君が出てきたよ」


 成る程、あくまで彼の中では夢の中の話で在るらしい。


「知って居ります」


 おや、と言う顔になった。その横に、スッと女の姿が現れる。洗い髪に、寝間着姿の。帰ったと聞いたが、彼女までまだ憑いて居るとは思わなかった。


「……美はるさん」

「……? その名前、どこかで話したことは在ったかな」

「夢で見ました」


 乱暴に纏めると、腕を組む。これではまた振り出しだ。


「平坂さん、単刀直入に言いますが、あなたには美はるさんが取り憑いて居ます。このままでは……」

「いいのさ」


 平坂さんが遮った。


「……寿命が縮みますよ」

「構わない。否、もちろん霊だのは信じちゃ居ないがね。本当に美はるが居るなら、それで良いんだ」


 背後を見る。彼には見えぬ筈の美はるさんと、熱っぽく視線を絡ませて。そして、少しあやふやな、夢の中の様な口調になった。


「僕の罪は、四万六千日程度の功徳で償える物じゃ無い。それに」


 彼は目を細め、満足そうに言ったのだ。


「漸くだ。漸く彼女は、僕ひとりの物に成ったんだよ」


 それから平坂さんは、はたと夢から醒めたような顔で去って行った。私はその後ろ姿に、何も言い返すことが出来なかった。


 男女の間の情とは、かくも複雑で、他人には何も覗けぬ物なのか。


 ただ、かつかつと、ひとり分だけの足音が、廊下に響いていた。


----


「それで、そのままなの」

「ええ。私にはもう何も言えませんでした」

「そう……」


 ソファに腰掛けたお嬢さんは、少し浮かない顔になった。それはそうだろう。私の尽力が足りなかったのかも知れないが。


「でも、それで御本人はご満足なのよね」

「そう見えました」

「なら、それでいいのだわ。涼太郎さんは精一杯のことをされたのだもの」

「……言い訳する訳では在りませんが、男女のことがよくわからなくなりましたよ」


 向かいのソファにどさりと腰を掛ける。和室というのに、無理に長椅子を置いた妙な居間だ。


「そんなのは、その方々にしかわからないことではない?」


 お嬢さんが首を傾げる。


「男女だなんて大きなお話にしなくても、平坂さんと美はるさんは多分、そうやってでも一緒に居たかったふたりなのだわ」

「そういう物ですか」

「それに、外からはどうしてもわからないのではなくて? 私が涼太郎さんのことを、涼太郎さんが私のことを覗けないのと同じよ。きっと」


 ……お嬢さんは、ロマンチストで、首を突っ込みたがりで、子供のようでいて、しかし、案外しっかりと物事を見ていらっしゃるのかも知れない。

 私と、お嬢さんとの関係もそうなのだろうか。人に何と言われようとも、私たちなりの繋がりという物が在るのだろうか。


「?」


 お嬢さんは不思議そうに私を見ている。私は少し穏やかな気持ちになって、冷めた茶を口にした。


 私の、お嬢さんに対する感情が、世間一般の男女の繋がりに相当するのか否か、私はまだ判別を付けて居ない。だが、焦らずに見極めて行こう。そう思った。


----


 今ですか。今はあたし、あの方のすぐ傍に居ります。難しげな本を読んでいるのを後ろからジッと見たり、背中に寄り掛かったり、色んなことをして過ごして居りますよ。

 それに、夜の夢の中ではふたりでまたお話出来るのですし。不便は在りますけれど、あたし、気にして居りません。


 それに、どのみち、待っていればまた同じ場所には行けるのですからね。辛抱、辛抱。


 あたしは、三味線もないのに時々、唄をうなります。そしたらあの方ったら、聞こえている筈も無いのに、時々周りを見渡すんですよ。そんな時、胸がじんとする程の幸せを感じます。


 ええ。あたし、幸せです。生きていた時には味わえなかったくらいに幸福です。あの方だってきっとそう。

 あたしたちふたり、幸せで暮らしていきますよ。終わりまで、ずっとね。

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