不香の花

 東京から遠く北に位置する私の家では、オシロイサマ、と言う名の何者かをまつって居た。果たして神なのだか何なのだかは、今になってもまだわからない。

 ただ、広間の東の壁に小さな神棚があって、大人たちは何かとそこで手を合わせて居た。

 折に触れて集まる親戚の子供たちはと言うと、大人の真似をして拝む者も居れば、放って居る者もあり、大人たちもそんな者に対しては強制はして居なかった様に思う。ただ、無礼だけは強く咎めた。


 近くの太田川の氾濫はんらんを治めるために、人柱になった娘を祀っとるんだよ、と、十も上の従兄弟の重治しげはるが聞かせてくれたことがある。穏やかで年の割にぼんやりとした人で、その癖、よくあらぬことを口走っては嘘吐きの重さんと呼ばれる、妙な従兄弟だった。だが、私はこの従兄弟が割合に好きであった。


 娘は十三の生娘で、生まれて初めて化粧をして晴れ着を着て、白粉おしろい塗れの白い姿のままで川の中に突き落とされた。背中を押したのが土地の長者で俺らの御先祖様だ。だから、祀ってる。


 嘘吐きの重さんの言うことであるから、他の兄弟、従兄弟たちは話半分に聞いて居た。大人たちはそんな話は一言もして来なかったからだ。ただ、八つかそこらの私ばかりは何となくその暗い物語に気を惹かれ、じっと耳を傾けて居た。重さんはそんな私をにこにこと見守って居た。


「重さん。さっきの話は本当」


 私は、話し終わってまたぼんやりとし出した重さんの袖を引き、そう尋ねた。


「本当さ」

「なら、あの神棚にはその女の子が居るの」

「居ないよ」


 私は目をぱちくりとさせる。


「居ないのにお祀りしてるの?」

「そうだよ。皆、空の神棚を有り難がってるのさ」

「どうして居ないの。最初から居ないの。それとも……」

「前は居た。途中で居なくなった」


 重さんは、いつも変わらないにこやかな笑みのままでこう続けたのだ。


「俺が殺したんだよ」




 当時私は私で、幼いながらも難しい子供扱いを受けて居た。境の本家の次男で名が涼太郎。兄が蓮次郎。


 長男が悪いものに攫われずに健やかに育つ様、次男と偽って名付けられ、そしてその代わりの生贄ででもあるように太郎の名を貰ったのが私であった。

 兄は期待通りに頑健に真っ直ぐに育ち、私は反対に弱々しく無口に育った。そう言う願いを掛けたのは自分たちだと言うのに、大人たちは家中で本ばかり読んで居る私にどこか辟易へきえきして居る様だった。


 父は元より子育てに関与するような人間では無い。母は兄を特に甘やかし、私やその下の子供らには大して興味を払わない。私や弟たちは、婆やひとりの手で育てられたような物だった。


 重さんに話を聞いたのは、何かの法事の日だったように記憶して居る。そうだ。親類中の子供がひとつ部屋に集められて、重さんが子守に任じられて居たのだ。寒い冬の日で、廊下に出れば息が煙のように白く凍った。

 嘘吐きの重さんは案外と色々な、真偽の疑わしい、時に不気味な話を知って居て、訥々とした話し振りで皆の関心を惹きつけて居た。


 語りが終わると、皆またそれぞれに好き勝手な遊びを始める。同じ年頃の子供に交ざると負け役を押し付けられるのがわかって居たから、私は重さんの傍に敢えて近寄って話を続けた。


「殺した?」

「うん。神棚の中の御神体を川に捨ててやった」

「それ、家の人には言ったの」

「言わんさ。涼坊も内緒にするんだぞ」


 さもないと、怖い目に遭うよ。

 重さんは口の端をにいっと吊り上げる。私は何だかもう既に怖くなってしまい、そのままそこを離れた。それで、兄に桃太郎ごっこの鬼の役を押し付けられ、遊び半分に蹴倒されたのだった。




 夕飯を親類皆で食べたのは、神棚が安置してある広間で、私はそれとなく重さんの様子を観察した。重さんは特に変わった様子も示さなかったが、一度も神棚を見なかった様にも思えた。


 やはり重さんは嘘吐きで、あそこに中身は入って居るのか。それとも本当に捨てられてしまって居るのか。もし無いのなら、御利益の方はどうなって居るのか。守り神が居なくて、この家はどうなるか。そもそもオシロイサマと言うのは守り神なのか。

 そんなことを考えながらでは、只でさえ少食な私のことだ。食べるのがいつもよりもさらに遅くなるのは道理で、まるで亀の様だと兄に笑われた。私は大人たちの無遠慮な笑い声に首を竦め、顔を赤くした。


 やがて食事は終わり、大人たちは酒宴を始め、子供たちは寝室へと追いやられる。廊下の、芯から凍える程に寒い空気の中、私は兄に小声で問い掛けた。


「兄さんは、あのオシロイサマのこと、知ってた」

「知るかよ。今日の話も聞いたことも無かったし、出鱈目でたらめだろう」


 そうだろうか。私は背後を振り返る。本家の跡継ぎも良く知らぬ神棚。語らぬ大人たち。消えつつある風習。捨てられたと言う御神体。

 それなのに、良く知った顔でオシロイサマについて語る重さん。


 私は、こごる様な闇に、何か自分の家の陰の様なものを感じ、身震いをした。その日は、あまり眠れなかった。




 次の日はよく晴れた日で、二日酔いの大人たちを尻目に、子供たちは外へと追いやられた。私は部屋で読みさしの本を読んで居たかったのだが、無理に藁靴わらぐつ穿かされて放り出された。こっそりひとりで勝手口から戻ろうとしても無駄だった。仕方無しに、私は出来るだけ兄たちの居そうなところから離れた場所を探して歩くことにした。


 積もった雪に陽の光がギラリと反射して眩しかった。兄たちが嫌いなわけでは無い。ただ、取っ組み合いで負けた方が耳に雪を突っ込まれるという様な遊びに加わるのは嫌だっただけだ。身体の小さい私はいつも直ぐに負けた。


 この天気ならば、恐らく皆は広場で雪合戦でもして居るだろうと踏んで、私はそこから離れた河原を目指した。雪を踏んで暫く歩き、枯れた葦の茂みを掻き分けると、そこには人影があった。


「重さん?」

「ああ、涼坊かよ」


 重さんは凍った川の水をじっと見つめて居た様だったが、私を見て手を振った。年頃としてはそろそろ大人の方に入って居てもおかしく無い人だったが、こうして外に出て居る辺りに、彼の何か微妙な立場を感じなくも無かった。


「川に何かあったの」

「河童が凍って居た」

「河童?」


 慌てて眺めるが、そんな妙なものは何も見当たらなかった。


「まだ大丈夫だ、冬は来て居ないと思って、水の中で寝てしまったのだろうなあ。そうしたらその夜凍って身動きが取れなくなった」


 哀れな奴だよ、と重さんは言う。私は、それが本当なのか、それとも子供を楽しませるための作り話なのかさっぱりわからずに戸惑って居た。


「涼坊は割りにこう言う話が好きだろう」

「今の、矢っ張り嘘の話なの」


 重さんはハハハと笑って答えない。私はますます混乱した。


「兄さんたちと遊びはしないのか」

「僕、負けるのが決まって居るのは嫌だ」

「そりゃあそうだろうなあ」

「将棋なら僕が勝つよ。でもそしたら兄さんは、駒をぐしゃぐしゃに混ぜてしまう」


 困った奴だね。重さんはそう言ってくれた。大人たちは皆兄の腕白を好ましく思って居ると思って居たから、私は何だかスッと胸が楽になった様な気がした。


「本、良く読んでるんだとな」

「うん。学校の図書室で沢山借りた」

「上に上がったら、もっと難しくて沢山の本があるぞ」

 そう言えば、重さんは実業学校では無く、少し離れた町の高等学校に通って居る人だった。私は顔を輝かせる。


「本当に。重さんも本が好きなの」

「俺は普通かな。でも物語は好きだな」


 それから、重さんは少し考えてからこう言った。


「あんたみたいな子は、ここを出て町に行って、本当なら都会の大学にでも行った方が良いんだろうな。俺もそうしたかったよ」


 重さんは進学はしないのだろうな、と子供心に何と無くその時勘付いた。


「あんたは河童にはなるなよ。早めに見切りを付けたがいい」


 ぽん、と頭に大きな手が乗せられた。私は何のことだかまるでわからずに、ただぼんやりとうなずくばかりだった。




 その日の夕方、皆が帰った後、祖母にこっそりと重さんの話を聞いてみた。しわの多い、厳しい人で、あまり好きとは言えなかったが、この家のことには誰よりも詳しい筈だ。


「重治かね。仲良くして居るのは何よりだね。あの子は学校を出たらこちらに来ることが増える筈だから」

「どうしてですか」

「お役目があるからさ」


 お役目って?と聞こうとして、はたと思い当たった。


「それは、オシロイサマと関係がありますか」


 祖母の顔が怪訝な表情を浮かべた。


「重治に聞いたのかね」


 うん、ともううん、とも言えず、私は口籠る。御神体の話をするのは良くないと言うことは子供ながらにわかって居た。


「まあ、余計なことは考えないで良いんだよ。何も無ければあと十年は重治が背負ってくれる話さ」


 祖母はそこで話を打ち切った。私は余計に訳がわからなくなって居た。




 お役目、というのがオシロイサマを祀る役なのでは無いか、ということは何と無く想像が付いた。本家の跡継ぎは兄だが、それとは別に神主の様な役目があるのだろうか。そう言えば、三年前辺りまでは何かと叔父が訪ねてきては広間で祖母と何か話をして居たような記憶がある。叔父は山で事故に遭い死んだ。その跡が息子の重さん、ということだろうか。


 部屋でぼんやりと考え事をして居ると、後ろで弟同士が喧嘩をして居る。うるさい、と声を掛けても泣くばかりだ。仕方が無いので上を着込んで外に出た。重たい曇りだが、雨雪は降らないだろう。私はまた河原に向かった。考え事の中身に近い場所ならば、何かいい思い付きもあるかと思ったのだ。


 そこにはまた、重さんが居た。


「何だ。また来たのか」


 襟巻きをぐるぐると巻いた独楽のような私に、重さんはくすりと笑った。私は躊躇ためらい、それから心を決めて尋ねた。


「御神体を捨てたのって、本当」

「捨てたよ。丁度この場所で、放り投げた。何、只の石ころさ。それであの子は自由になった」

「あの子?」

「オシロイサマ」


 私は面食らう。重さんは神様だか何だか知れない者を、まるでその辺の子供の様に語ったのだ。


「只、俺の方は自由にはなれんかったな。勇気が無くてな」

「それ、お役目のこと?」

「知ってるのか」

「少しだけ」


 祖母の話から類推したことを話す。重さんは、ほう、と驚いた様な声を上げた。


「凄いな、涼坊は。そこまで自分で考えたんか」


 そうして、重さんは私に語ってくれた。オシロイサマと、お役目の話を。彼の物語を。全て。


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 オシロイサマの謂れについてはもう話したな。人身御供ひとみごくうの魂を鎮めるために祀ったのが始まりで、それがそのうちに守り神の様になった。

 それだけなら只の風習だ。でも、境の家には不思議なことが起こった。親類筋に必ずひとり、オシロイサマが見える目の持ち主が現れる様になったんだ。


 そう。オシロイサマって言うのは、本当に居るんだよ。晴れ着に化粧をした若い女の子で、昔は吉兆を告げたり、強い力で家を守ったり、機嫌を損ねると害を齎したりして居たらしい。近頃ではもう、神棚の下に座って日がなぼうっとして居たりするだけで何の力も意志も無い、そんな物になって居たけれど。


 もうわかって居るな。お役目って言うのがその目の持ち主のことで、オシロイサマの世話係。当代のお役目は俺なんだ。大体お役目の力は、先代が死んだ時に近くに居た者に移るから、ここ暫くはずっと俺の家から出て居たんだ。

 俺も、父が山で死んだ時にその場に居合わせて、それで突然色々な物が見える様になった。オシロイサマだけじゃ無い、死んだ者がその辺りに居るのも、この間の河童なぞもそうさ。色々な話をしたろう。あれは全部本当のことだよ。


 オシロイサマは、そりゃあ綺麗な人……人と言って良いのかはわからんが、兎に角綺麗だった。太田川の龍神様も、きっと気に入られたんだろうよ。あの川は、もう何百年も溢れて居ないんだ。

 黒い髪が艶々して、睫毛が長くて、唇が紅の色でほんのりと染まっていてな。ここらの生きた娘じゃ比べ物にならない。そんな子が、あんたの家の神棚のところには居たんだよ。俺は初めて見た時、もう吃驚してしまって、あんたの祖母さんに教えられた仕来りをすっかり忘れてしまったくらいだ。


 一応お役目ではあったが、学校があったから、卒業するまでは俺は年に何度もは来なくていい、そう言うことになって居た。今じゃすることも殆ど無かったしな。でも、俺はあの姿がずっと忘れられなかった。


 去年の暮れにあんたの家に行った時、俺はこっそり勝手に広間に入った。それで、オシロイサマに近寄った。あの子はずっと黙ってると思って居たんだ。でも違った。小さな声でそっと同じ言葉を呟いて居た。俺は耳を澄ました。


「殺して」


 それがあの子の言葉だった。


 俺はお役目だから、その言葉に従った。


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 私は呆然とその物語を聞いて居た。少女の僅か一言で、この人はそれまでこの家が積み上げた伝統全てをぶち壊したのだ。


「何、何も変わらんよ。オシロイサマにはもう力は無かったし、俺が黙っていれば誰も気付かない。涼坊も黙っててくれるだろう? 変な騒ぎになるのは嫌だろう?」


 私は唇を噛む。重さんは悪いことをしたのだ、と言うことはわかったが、それでも責める気にならない程度には私は重さんが好きだった。頷くと、重さんはホッとした様に笑った。それから、足元の雪をさくりと掴んで氷の張った川へと軽く投げ込んだ。


「何?」

「いつも花を手向けてるのさ。春には紫苑しおん、夏には白粉花おしろいばな、秋には竜胆りんどう。冬は、何も無いから雪を供える」

「雪って花なの?」

不香ふきょうの花と言う。顕微鏡で見ると、作り物の花みたいな、綺麗な形をしているんだぜ」

「本に載っているかしらん」


 私は新たな知見に少し胸を沸き立たせながら、自分でも雪をすくって投げた。氷の上に、小さな山がふたつ並んだ。冬は何も無い季節と思って居たが、雪が花なら何処もかしこも花畑だ。それはいい、と思った。


「さ、あんたはそろそろ帰りなさい。俺はもう少しここに居るから」

「うん」


 私は肩を叩かれ、素直に頷いた。


「また来ても良い?」

「好きな時に来な」


 私はくるりと背を向け、家へと駆け戻る。


「じゃあな」


 重さんの声が背中に掛けられた。さくさくと音を立てながら、少し日の落ちた道を行き……。

 ふと、不安になった。


 それは、理由の無い不安であった。あるとすれば、直に重さんに対峙した私にしか感じ取れぬ、何か微細な印象の積み重ねで、それも取り越し苦労とも取れるほどの物だった。だが、私は冷たい空気を吸い込むと、後ろを振り返り、今来た道を取って返した。


 一度、雪の上で転んだ。私は上衣を手で荒っぽく払うと、きっと前を睨みつけ、そうして急いで向かう。気のせいであってくれと願いながら。


 枯れた葦の茂みの向こうには、重さんが居た。重さんが、凍った川の上に立って居た。


「重さん……!」

「馬鹿、涼坊、来るな!」


 氷にひびの入る嫌な音がした。そして、大きな水音が。

 太田川は、何百年も溢れて居ない。だが、氷は見た目より薄い。冬には時折子供が歩こうとして事故を起こす。


 身体の重い大人ならば、尚更だった。


 私は誰かを呼びに走ろうとした。その時、両の目に鋭い痛みを感じた。ぼろぼろと涙が溢れた。私は痛みと恐怖とで無茶苦茶に叫びながら雪の地面を転がる。

 声を聞きつけて大人がやって来たのは、暫く後だったと言う。私はその頃には痛みで失神して居た。


----


「馬鹿だなあ、本当に涼坊は」


 真っ暗な夢の中でも、じんじんと目が痛かった。重さんの声だけが脳裏に聞こえて居た。


「俺が全部抱えて行こうとしたのに、ぶち壊しちまって」


 ごめんなさい、と辛うじて唇を動かした。何が起こったのかはわかって居る。お役目の死に際して、その力は傍に居た者に移る。則ち、この場合は私だ。

 私はあの時、もっと早く戻って重さんを止めるべきだった。さもなくば、何も気付かずにそのまま河原を離れるべきだったのだ。


「済まないな、余計な物を背負わせることになった。俺ももう行かなきゃならん」


 熱っぽい頭を、冷たい手がひやりと撫でた。


「これからはお前も嘘吐きと呼ばれるかも知れん。でもな。どうか、負けないでくれ。俺みたいに」


 重さんは勝手だ。酷い人だ。そう思った。だが、何も言えなかった。それ位には、私は重さんのことが好きだったのだ。


 行かないで。呟いたが、重さんは何も答えなかった。

 急に、辺りの音が、枕元で何やら大人が喋る声、心配げな婆やの声、足音、そう言うものが聞こえるようになって、そうして重さんは二度と私に話し掛けることは無かった。


----


「もう目の方は大丈夫かね」


 広間に祖母と二人きりで、私は向かい合って居た。


「はい」

「元の様に見えるかね」

「はい」

「……元の様で無い物も見えるかね」

「はい」


 天井をふわふわと飛ぶ火の玉に気を引かれながら、私は神妙に答えた。


「重治は可哀想なことをしたがね、お役目は必要だ。まさか本家から出るとは思わなかったが、これも巡り合わせさね。励みなさいよ」

「…………」


 私は俯いた。


「お役目は、ずっとこの家で暮らさないといけないのですか」

「そうなるね。何、ここは実の家なのだから、問題は無かろうよ」

「遠くへは行けませんね」

「旅行位ならそりゃあ出来るさ。他所で暮らすのは無理だけどね。諦めなさい」


『あんたみたいな子は、ここを出て町に行って、本当なら都会の大学にでも行った方が良いんだろうな』


 重さんの言葉を思い出す。


『あんたは河童にはなるなよ』


 私は、膝を揃え直した。


「お祖母様。お伝えしたいことがあります」

「何だね」


 ごくり、と唾を呑む。重さんすら出来なかったことを、私は今やろうとして居る。重さんが罅を入れた氷を、私が鉄槌かなづちで打ち砕いて割ろうとして居るのだ。この家は、直ぐに水底へと墜ちる。


「この家にはもう、オシロイサマはいらっしゃいません」


 祖母は目を剥いた。


「本当です。重さんが御神体を捨てました。今、神棚の処にはどなたもいらっしゃいません」


 私は、何の気配もない広間の東側の壁を見遣った。造り変わった私の目にも、そこには何の影も映らない。


「何を……」

「本当です。神棚を調べて貰っても構いません」


 嘘吐き重さんの言うことが全て本当であったのなら、そこにはもう何も無い筈なのだ。


「オシロイサマはもう居りません。だから、僕はお役目なんか致しません。止めましょう。お祖母様」


 祖母はガタガタと震えて居た。その様子はどこか哀れだったけれど、私は容赦をする気は無かった。


「それでは、失礼致します。僕、読みたい本があるので」


 私は廊下に出た。一気に力が抜け、壁に凭れ掛かる。これで、どうにかなったろうか。


 誰だか知らない、薄く透き通った女が、こちらを見てケタケタと笑い掛けて来た。私はもう何もかもが面倒になって、しっしと手を振った。


----


「それで、私は故郷ではずっと嘘吐き涼さん呼ばわりをされて居たと言う訳だ」


 火鉢を挟んで向かいに座する、赤い紐を首にぐるぐると巻いた少年……弥生嬢の弟君は興味深げに目を輝かせた。あれから十と二年が経ち、私は東京、吉野家の離れに置いて貰い、書生として暮らして居る。部屋の隅では、侘助がごろごろとだらし無く眠って居た。死んだ犬でも眠ることはあるらしい。


「結局、どうだったんだい。お役目の方は」

「今ここにこうして居るのだからわかるだろう。お役目はもう無くなった。祖母が亡くなると神棚は外されて、今は物置に飾られて居る。拝む者はもう居なくなった」

「成る程ね。しかし、君は良く良く御両親とは疎遠なんだね。今の話にまるで出てこられなかっただろう」

「…………」


 私は火箸で炭を軽く突く。


「今後のお役目についての相談を大人たちがして居る時、私はこっそりと起きて聞いて居た。母はこんなことを言って居たよ。『お役目が決まれば、あの子はずっとこの家に居るのでしょう。それは困ります。あれは大学でもどこでもやって、家を出す心算つもりでした』」


 赤い熾火が、突かれて小さく火花を上げた。


「『どうもあの子は何を考えて居るのか、何もわからない。おかしな子です。それが余計におかしくなった。とても傍に置いてはおけません』」

「手厳しいね、君の母君は」

「父は父で、それに何も言わなかったよ。そう言う家だった。進学はお互いにとって良かったのだ」

「ふうん」


 弟君は、行儀悪く足を崩す。母屋の方は、もう皆寝たろうか。お嬢さんはちゃんと毛布を掛けて寝て居るだろうか。風邪など引かれては、今度の試験に障る。


「私は私で、重さん位の年になったら頭がおかしくでもなって死ぬかも知れないと思って居たが、どうにか狂いも死にもしなかったな」

「それがね、なかなか稀有けうだと思うよ。君は凄い。とてもそうは見えないけれど、稀に見る鉄の神経の持ち主だ」

「褒めて居るのか? それは」

「褒めて居るのさ。感謝もして居るよ。君が居るお陰で弥生は無事元気だ」


 少年はにこにこと笑う。まるで死者らしく無い。


「どうかその神経のままで、弥生を導いてやってくれ給え」

「何故いちいち君はそう偉そうなんだ、どう足掻いても年下の癖に」


 私はふと、障子戸を見遣った。夜とは言え、何だか外が妙に静かな気がする。一度閉めた雨戸をがらがらと開け、外を眺めてみた。


「おや、雪じゃ無いか。積もり始めてる」


 少年が私の肩越しに、嬉しそうな声を上げた。侘助がいつの間にか起きて来て、これもまた嬉しげに鳴いて居る。細雪ささめゆきがはらはらと空から落ち、地面を白く染めて居た。


 私は、故郷の雪よりもずっと頼りなく薄い、微かな淡さをじっと見つめる。


「不香の花か」


 あれから、私は図書室で科学の本を読んだ。雪の結晶の絵図は確かに作り物の花のようで、私は自然の不思議に浸ったものだ。そうして私はいつの間にか理科に力を入れるようになり、今ここに生物学の学徒として在る。

 故郷では何ひとつ良いことを残さなかったこの目も、気付けば吉野家や、周りの人間と私を結ぶ縁へとなって居る。何とも面映ゆいが、こうして死者の友人すら居るのだ。


 重さんも、生きてさえ居れば……否。それは詮無いことだ。私は今こうして、この私としてここに在る。それだけを有り難く受け止めて居よう。


 私はもう一度、小さな花畑のような雪の白を眺めた。それからひとつくしゃみをし、慌てて雨戸を閉める。


「明日の朝は、弥生がはしゃぐだろうね」


 弟君はそう言って笑った。私もそれに同意する。お嬢さんはきっと、雪がお好きに違いない。


 不香の花の群れよ、どうか儚く消えずに在れ。

 私は今一度雨戸を見つめ、一度も見たことの無い、神なのかどうかも知れない、消えてしまったあの少女に、祈りの様な物を捧げた。

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