日々録(掌編)
新月と道行の話
何の因果か、
「済みませんねえ。お礼をしなければ。お名前を聞かせて頂いても宜しいですか」
「境涼太郎と申します」
「はい?」
「さかい! りょうたろうと申します!」
「ああ、境さん。私は上野と申します」
この会話も既に五回目だ。耳が遠く、記憶も定かで無いのだろう。仕方が無い。自分も年を経ればいずれ行く道だ。老人の痩せた手を引きながら、
「この道をね、真っ直ぐに辿って行けば着きますからね」
「はい」
この会話も既に三回はして居る。こちらは違えていれば困るのだが……。ここら辺りはよく似た新興の、白壁の住宅が多い。真っ直ぐ歩いて居るとはいえ、夜の暗い空気の中では家々は、まるで迷路のように私の気を惑わせた。
「ああ、でもそうだ。恐らくここの家でしょう」
私は立ち止まる。老人は瀟洒な門構えと、上野とある表札をとっくりと見ては頷いた。
「そう、そうですよ。我が家。我が家だ。おお、ようやっと辿り着きました。あなた様のお陰です」
両手で手を握られる。少々こそばゆいが、困った人間の力になれたこと自体は嬉しいことである。
「少し上がって行きませんか。お茶でも御馳走したい」
「いいえ、それ程のことはしておりませんし。私も帰路があります」
「そうですか……」
老人は少し残念そうではあったが、私は門の前で辞した。そのままくるりと踵を返し、道を行く。老人はそのまま門の中へと姿を消す。
やがて、はたはたと向こう側から足音が聞こえて、灯りの下にぼうと人影が浮かび上がった。
「失礼、上野という家をご存知ありませんか」
黒服の背の高い男が声を掛けて来る。曖昧な灯りの下では、どこか苦渋の様なものがその顔に滲み出て見えた。
「上野家なら、すぐそこです。暗いですが看板が出て居ますよ」
「ああ、それはありがとうございます。ここら辺りは似た家ばかりで……」
「お通夜ですか」
「ええ」
黒服……喪服の男は微かに顔を曇らせた。
「御愁傷様です」
「痛み入ります」
では、と男は一礼し去る。そう、通夜だ。上野家は今頃悲嘆の声に溢れていることだろう。
私があの老人と出会ったのは、大病院の前であった。彼は自分がどこに行けば良いかもわからず、右往左往していたのだ……自らの遺骸が自宅に戻された後も、まだ。だから、送り届けた。
今頃は老人も、自分の行く末を悟っている頃だろうか。それとも、未だ迷ったままであるのだろうか。
その先の道を示すのは自分では無い、という確信だけがあった。自分はただ手を引いて、途中まで導くこと位しか出来ぬ。
ふう、と息を吐く。切った爪の様に細い月が頼り無く空に掛かって居た。
私はその朧な光を頼りに、迷路の様な道をゆっくりと歩いて帰ることにした。
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