お嬢さんと私と桜の話

 白い紙には、墨の色も鮮やかに、大きく「桜介」の二文字が記された。私は礼をし、それを頂く。


「こんなもので良かったのかい」

「ええ、十分です」


 先生は筆を置き、それからぽつりと言う。


「元々、男の子だったらと決めて居た名でね。あの子には戒名があるからとずっと名付けずに居たが……悪いことをしていたね」

「いえ、そんなことは無いようです。彼は、名無しもきっと楽しんで居ましたよ」

「それなら良いが」


 ふう、と先生は息をつかれた。お嬢さんのご病気の時以来、少しやつれられたようにも思える。



 弟君に名前をあげようと考えたのは、少し前のことだった。勿論、本人にも確認し、今更名前のひとつ増えようとも大事が無いことを確かめた上でのことだ。

 そうなると、私ひとりが勝手に命名する訳にも行かぬ。ここは是非とも父上たる先生に名付け親になって頂きたかった。そのために、先生には彼の存在のことを全てお話しした。

 先生は、話の途中で何度も目頭を押さえられて居た。


 桜介おうすけ、と言うのが、先生の仰られた名前だった。きっと、お嬢さんの生まれ、弟君の死んだその日も、麗らかな弥生の、桜の咲き始めの頃合いだったのだろう。



「今も、居るのかね。あの子は……桜介は。そこに」

「いえ。照れ臭いのか、ふすまの向こうに」

「……そうか。ずっと、居たのかね」

「ええ」


 先生は廊下に向かって座り直し、それから仰った。


「会いたかった。仕方の無い話とは言え、ずっと気付かずに居た私を許しておくれ」


 襖の向こうから、堪えきれずに泣きじゃくる声が聞こえた。私にだけしか聞こえないその泣き声は、父様、と何度も繰り返して居た。


「先生。もうひとつ、私のことでもお話があります」

「……うん」


 先生は私に向き直る。私も背を正す。


「春に、私は生物の死にずっと興味があると、そうお話したことがあります。専攻もそのような内容で学んで行こうと」

「覚えて居るよ。……私は少し、主題を決めるのが早いと諭した記憶がある」

「はい。思い直しました。私は……もう少し、生について学ぶべきでした。論文をどうするかはわかりません。しかし、もっと視野を広げたいと、今はそう思って居ます」

「うん」


 先生は愉快そうに笑われた。ようやくいつもの先生に戻られたように思う。嬉しいことだ。


「そうしなさい。何、先行文献は山ほどある。崩したくなったらいつでも聞きに来ると良い」

「はい」


 廊下の泣き声は、軽い啜り泣きに変わって居た。私は父子の仲を邪魔しないよう、先生の書斎を辞した。


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「やあ、杖はもう良いのかい」


 平坂さんと、正門の辺りで行きあった。相変わらず、背中には美はるさんが張り付いて居る。


「先週も同じことを言われましたよ。杖をついて通って居たのは一週間かそれきりです」

「そうだったか。いや、君は見た目より頑丈な印象があったもので、一寸ちょっと驚いたんだ」


 お嬢さんのために彼岸近くから帰って来てから、しばらく私の身体には不調が続いた。医者に診て貰ってわかる話でも無い。栄養失調との仮の診断がつき、おときさんを大いに悲しませてしまったのは遺憾の至りであった。


 それでも何とか毎日を過ごし、漸く体調も落ち着いて来たところだ。


「無理はして居ないかい。……なんだか白髪もあるし、身体だけは大事にする物だよ」

「……はあ」


 後ろで美はるさんが頷いて居るのが、どうも、何と言うか、あなたには言われたく無い、と返したくはなる。


「でも、平坂さん。わかりましたよ。命を擦り減らしてでも、叶えたい恋というものがあるということ」

「恋か。……そうか」

「だから、平坂さんのことはもう何も言いません。どうか、お幸せに」


 平坂さんは、わかったような、わからないような顔をして、それでも頷いた。私たちは、そこで別れた。


 桜の花びらが、遠くから風に乗って来た。


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「いや、一時は心配したんだぜ。お前、何貫痩せた」

「そんなにでも無いし、直ぐに戻った」

「まあ、奢ってやるから良い物を食えよ。な。天麩羅とかどうだ」

「お構い無く」


 奥村からは、どうにも欠食児童のような扱いを受ける。帰って来て初めて会った時のげっそりして心ここに在らずだった様子が、余程気がかりだったのだろう。もうすっかり良いと言っても解放して貰えない。


「……ああ、でも先日、また芳佳嬢に少しだけお会いした」

「芳佳に?」

「ああ、大変助けて貰った。義理堅い、いい女性だな。彼女は」

「……そうだろうさ」


 奥村は流石に泣きはしなかったが、そっと目を伏せた。


「自慢の妹だ」


 私は、少し考えて天麩羅蕎麦を、奥村は狐蕎麦を注文し、ずるずると啜る。


「今度な、しづさんを誘って、上野にでも花見に行こうかと思うんだ。お前も弥生お嬢さんを連れて来ると良い。他の友達が居ても良いし」

「何でそこでふたりにならんのだ」

「馬鹿、ああ言う大勢人のいるところは、こちらも賑やかな方が良いんだよ。お前だって、その方が弥生さんを連れ出せるだろう? どうせふたりきりで花見なぞする度胸は無い癖に」

「……庭に桜の木がある」

「上を見たら一面の桜天井、なんてのは拝めんだろ」


 私は尚も悪態を吐こうとして、ぴたりと止めた。


「そうだな。先生に伺って見ようと思う」

「ん、やけに素直だな。その意気だ。なあに、そうやって楽しくしてりゃ白髪なんていずれ治る治る」


 ……そんなに白髪が目立って居たろうか。私は頭を少し掻いた。


「奥村。いつも有難うな」


 がたん、と奥村は音を立てて立ち上がる。


「どうしたっ、境、また熱でも出したか!」


 そのままガクガクと私の肩を揺さぶった。


「出してない出してない、出したとして病人をその勢いで揺するな、吐くから」

「そ、そうか」


 店内の視線を集めた奥村は面映そうに再び着席し、私はずれた眼鏡を直してまた蕎麦を啜る。


 それでも、本当に、有難うな。奥村。


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「境様」


 帰り際、都電の駅の近くで声を掛けられた。見ると、肩の上ほどで切り揃えた短い髪、モダンな帽子にワンピース姿の女性が手を振っている。一瞬誰かと見違えた。だが、直ぐに思い出す。副島登美子そえじまとみこ嬢だ。


「お久しぶりですわ。御病気をなさって居たのですって? わたくし、暫く忙しくて弥生さんともお会い出来て居ませんでしたから、何も存じ上げなくて」

「お久しぶりです。病気と言うほどでもありません。暫く身体を休めて居た位です」

「まあ、でも、御髪が少し」

「白髪のことは放っておいて下さい……いえ。有難う御座います……それにしても」


 同じ華やかな装いと言っても、和装と洋装とでこうも垢抜けて変わるものか。


「お家の方はどうなさったのですか」

「ああ、色々ありまして、私、家を出ましたの。母と女中の咲恵に助けて貰って、今は咲恵の妹さんのアパートに住まわせて頂いているの。そのうちきちんと自分の部屋を探す心算ですわ」

「ははあ……」


 行動力のある方だと思っては居たが、これほどとは思って居なかった。


「お仕事も……親の伝手を頼ってですけれど、見つけましたのよ。私、どうにか職業婦人になれました」


 小さな名刺を取り出す。『東京日菫新報』と記されて居た。


「新聞社? 凄いな」

「と言って、殆どが下働きと助手ですわ。でもなかなか楽しいの。写真機の扱いも少し覚えましたのよ」


 朗らかに笑うこの姿が、この方の本当なのだろうと、そう思えた。怯まずに進み給え。私は、変わらずあなたの贔屓筋ひいきすじであろう。


「それで、その後弥生さんとはどうなってらっしゃるの?」

「え?」

「え、じゃ御座いませんわ。前にも申し上げましたでしょう。いつか攫って行ってしまうかもって」

「攫われては困ります」


 あら、と登美子嬢は紅を差した口の端を吊り上げた。


「少しは前進されたかしら? そのまま、あの方を宜しくね」

「……最善を尽くします」


 鈴が鳴るような声で、登美子嬢は笑う。それから、私の元から駆け去ると、大きく手を振った。


「それでは、失礼致します。三国百貨店のすみれさんを取材するの。境様にはまたお話を聞かせて頂きたいわ。是非に、宜しくお願いします!」


 ああ、またこの方は無茶をしようとして居る。そう思ったが、己の脚で立つことを選んだ方だ。見守る位が良いのだと考え直した。


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「お帰りなさい、涼太郎さん」


 吉野家に戻ると、黄色いワンピース姿のお嬢さんが、私を出迎えてくれた。先日卒業式を済まされ、セーラー服はもう見納めだ。


「お洋服とは珍しい。お出掛けでしたか」

「いいえ。そろそろ季節かと思ったら着たくなったの。汚さない内に着替えるわ」

「先程、副島登美子さんにお会いしました。お元気そうでしたよ」

「登美子さん! そうよ。私もこの間少しだけお話しして。立派なモガになってらっしゃるから吃驚びっくりしたわ。私も頑張らないと」


 ぐっと細い手を握る。


「お嬢さんも職業婦人に路線変更されましたか」

「違ってよ。あのね、独立と言うのはそれぞれ自分のやりたい場所でやりたいことをやる物なのよ。人真似じゃあ駄目なの」

「勉強になります」


 私は素直に頭を下げた。お嬢さんの勉学への意欲は止め難く、先生は大学進学には未だ難色を示して居られるようだが、まあ、実際の試験は兎も角、娘思いの先生のことだ。家内の障害が折れるのは時間の問題であろう。


「ああ、それと、奥村が今度上野に花見に行こうと言って居ました。お嬢さんもお友達を誘っていらっしゃいと」

「公園でお花見するのね。どなたが良いかしら。登美子さんがお忙しくなかったら絶対お呼びしたいし、それから……」


 ああそうか、とふと思い当たった。芳佳さんが亡くなられたのは、多分今時分だ。あいつは、騒いでそれを忘れたいのだな、と。

 なんだかこちらまでしんみりとして来た。


「お嬢さん。どうせなら、予行演習でも致しませんか」

「予行演習?」

「庭の桜を、一緒に見ましょう」


 お嬢さんは二、三度瞬きして、そうして大きく頷いた。


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 吉野家の桜は、先生が子供の頃に植えられた物であると言う。左右に枝を張ったなかなかの名木で、子供にはさぞかし登り甲斐があろうと思える枝ぶりだった。


「お身体の方は、もう大丈夫なの」


 花は半分ほど咲いたかどうか、というところだろうか。まだ満開には程遠い。


「もう以前と変わりない位です……が、あの、白髪は、目立ちますか」

「白髪?」


 お嬢さんが花から私の頭に視線を移す。


「ああ、あのね。涼太郎さん、あんまり鏡をちゃんと御覧にならないのね。白髪って言っても、全体にある訳じゃないのよ。少しだけ、摘んだように纏まって白くなってらっしゃるから、そこだけ目立つのね」


 お嬢さんが御自分の左前辺りの髪を軽く摘まれる。いつの間にそんなことになって居たのか。


「……参ったな。墨でも塗りますか」

「これは内緒だけど、お父様も白髪染めを使っていてよ。洗面所を探せば戸棚にあるはず」

「それもなんだか罰が悪い」

「楽しくしていれば、そのうち治るのじゃないかしら。それに、その感じ、私は好きよ。あんまりお年寄りという風情でも無いし」


 私は頰が熱くなるのを感じた。たった一言で私の心をこうまで動かすことのできる人は、ひとりだけだ。

 白髪は元より、彼岸の者に触れた際の置き土産の様な物だろう。隠すことが出来るのかもわからない。となれば、慣れて堂々とする以外に無いのだ。


「……ただ、それ、私のせいかしら?」


 お嬢さんがおずおずと切り出した。


「私、熱を出した時、涼太郎さんに助けて頂いた気がするの。ちゃんとは覚えて居ないけど、後でお礼を言わないとと思って、それきりになってしまっていたんだわ」

「私は……私ひとりでは何も出来ませんでした」


 弟君……桜介君が居た。芳佳嬢が居た。そうして、お嬢さんが。


「それでも、助けて下さったのよね。私のこと呼んで下さったの、それだけはちゃんと覚えて居るわ」

「私も、お嬢さんが私のことを呼んで下さったことを、覚えて居ます」

「とても怖い思いをなさったんじゃないかと思うの。私を助ける為にそんな思いをさせたのなら、申し訳ないわ」


 私は何と言おうか、暫し黙考した。それから。


「お嬢さん。確かに私はあなたを助ける為に、彼岸近くまで駆けて行きました。でもそれは、己の為でもあったのですよ」

「涼太郎さんの?」

「あの時、己に出来ることがあったのにみすみす何もせず、ただ指をくわえて見て居るだけだったなら、私はきっとずっと後悔したでしょう。

 私はあなたを助けると同時に、未来の己を助けた。だから、私は何も悔いずにこうしてあなたと話し合って居られるんだ」


 珍しい私の長広舌に、お嬢さんは面食らって居られる様だった。


「つまり、お嬢さんは何も責任を感じる必要は無いのです。大丈夫。髪なんぞ何とでもなります。怖くたって、いつか忘れますから」


 あなたの書生を、どうか信頼して下さい。私はそう伝えた心算つもりだった。お嬢さんはこくりと頷いた。風が吹く。花びらが揺れる。


「……その、そういうことです。あとは、桜介君にお礼を言って差し上げて下さい」

「あの子ね。お父様から少し聞いたわ。ずっとお家に居たなんて、涼太郎さんたら秘密にしてらっしゃるんだもの。ずるいわ」

「本人が嫌がって居たんですよ。最近漸く軟化したんだ。許して下さい」

「今はどこに居るの?」

「あそこに」


 桜の木の上を指す。上手く登ったもので、かなり高い枝に腰掛け、桜介君は足をぶらぶらとさせて居た。


「あの、あのね! 初めまして!」


 お嬢さんが手を拡声器の様にして叫んだ言葉に、私と桜介君は二人で微笑した。


「私のこと、助けてくれたのね。有難う。その前も、ずっと見守って居てくれたのよね。ずっと、ずっと、有難う!」


 桜介君は少し鼻を啜り、脚を組み替えた。


「大好きよ」


 小さく呟いた声は、私にしか届かなかった。私にも聞かせる心算であったかはわからないから、これは胸ひとつにしまって置く。


 ただ、私は、重さんから受け継いだこの目が、今、どんなに美しい物を映しているか。それを彼に伝えることが出来れば良いのに、とそう思って居た。


 西に傾く陽の光が、五分咲きの桜の花を照らす。木の上の黒い影と、息急き切って走って来る途中の柴犬は、私にしか見えぬ。木の下の黄色い光は、何よりも一番美しく輝いて見える。私の目は、こんなにも。


「涼太郎さん?」


 眼鏡を外して、軽く目を拭った私に声を掛けてから、お嬢さんは少ししまった、という顔をされる。私は首を横に振った。


 そうして、私はお嬢さんに歩み寄る。あの世とこの世の境の遊歩廊を、時に踏み越え、時に迷いながら行く逍遥の道を、私は選ぼう。この目を受け入れ、誇りに思える様な、そんな道を。


 願わくば、その旅の道程の幾らかを、あなたと共に過ごしたい。そのことを告げる為に、私はゆっくりと口を開いた。

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